蒼い自由工作

酒田青

第1話 頼りない午後

 真っ白な文鳥のカナ子が、自らの羽を一枚一枚くちばしで撫でながら私に言った。

「あのね、ハナエちゃん。私今日も籠を飛び出したの。退屈だったのよ。つまらなかったのよ。分かるでしょう」

 私は磨いたばかりの薄桃色に光る爪のついた人指し指で、カナ子のつるつるしていて柔らかい頭をそっと撫でた。指は一ミリだけ羽毛にうずもれて筋をつけた。

「分かるわ。今日はとってもつまらなかった。太陽は泣いていたし、雲は一家離散した。カラスは夕焼けに向かってぼやいてた。面白味のない一日だったわ」

 カナ子は悲しげに私を見上げた。真っ黒な目だ。黒くて真っ暗で、いつか私を吸い込んでしまいそうな目。

「誰かに慰めてもらいたかったの。『今日は退屈な日かもしれない。でも明日はそうじゃないさ』って、言って欲しかったの。だってこんな日は、とても苦しくなるんだもの」

「どんな風に?」

 私はそう尋ねながら私が乱してしまったカナ子の羽毛を元に戻した。銀色の影がカナ子の細い桃色の足からこちらに伸びた。

「泣きたいの。こんな日が、明日も明後日もし明後日も続くんだと思うと、泣きたくなるの。まるでじわじわと水が増える部屋に閉じ込められたような気分よ」

 私はカナ子の言った言葉を頭の中に放流した。言葉は滑らかに泳いで、隅々で飛び上がって落ちて、水面に波紋を立てた。私は私の唇が語りだすのを聞いた。

「分かる気がする」

 するとカナ子は理解者を得たかのように私を見た。ほっと安心したような、甘い表情。私の中にも暖かいしずくが落ちる。

「そうよ、そうなの。そんな気持が私を窒息させるの。うっぷうっぷって、私のどこかが空気を求めてるの。私は苦しくて苦しくてうめきながら、とうとう籠の入り口を持ち上げて、退屈な空をかき乱しに飛び立ったの」

 カナ子の向こうには開けっぱなしの窓がある。その手前の、小さな穴が開いた紫と緑と青の障子紙が貼られた木枠も。私の部屋はいつも紫と緑と青の光がうるさいくらいに飛び散っている。

「飛んでいたの。宝石街の上空を。宝石街は今日も静かだったわ。おじいさんはお人形を抱いていたし、子供はドクロでサッカーをしてた。母親はパサパサの髪の毛をいろんな形に束ねなから、若い男にしなを作った。独身男たちは部屋にこもって、真っ赤なパジャマを真っ青なパジャマに着替えた。魚が壁の中を泳いで私に挨拶をした。宝石街の建物は今日も賑やかにおしゃべりをしていたわ。丸みを帯びた屋根は金色に光って黒い石壁を押し潰そうとして、黄色い壁は道に敷かれた透明な石畳を睨んでた。とっても退屈な町並みだった。何もかも、ムッとしているように見えた。そして私見たの」

 カナ子はチャッと足の爪を鳴らした。私はカナ子の体から指を離し、その下の固い樫の机を撫でた。ニスでつるつるしていて、力を入れるとキュッと鳴る。

「何を、見たの?」

「氷の山よ」

 カナ子はまた机をチャッと鳴らした。黒目はずっと私の顔に止まっている。

「真四角な小さな氷が山になって積み重なっていたの。道の真ん中によ。子供たちがお葬式ごっこをしている脇で、若い女の子がころころと白の毛糸玉を転がして歩いている目の前で、当たり前のように氷が山を作っていたの。子供たちは手作りのお墓に昨日の夕飯に出たラクダの食べ残しを詰め込みながら、まるで何も無いような顔をして遊んでいたわ。女の子は丸い巨大な毛糸玉を腕に抱いて、ぼうっと氷の向こうを見つめたわ。私はじっと見たわ。何でここに氷があるのかしら。そう思って。そしてハッとしたの」

 カナ子は思わずチイチイと金切り声を上げた。

「失礼。あのね、氷の中には」

 カナ子は急に声を落とした。ためらうように首を下ろし、私を上目使いに見る。

「たくさんの人間の胎児が、詰まっていたの」

 私は机を撫でるのを止めた。

「人間の胎児?」

 恐ろしく静かな気分だった。カナ子は戸惑ったように私を横目で見た。

「しばらく見ていたの。確かに人間の胎児だったわ。大きな頭にトカゲのようなぬめぬめした長い体。濡れた膜で覆われた黒い薄ぼんやりと見える目は、何も見ていなかった。それが、一つ一つの氷の中に入っているの。とても」

 カナ子はくちばしを閉じた。私は指を持ち上げた。カナ子の胸元をすうっと撫でる。カナ子はうつむいていたけれど、私が少し力を入れて盛り上がった胸を押すと、よろけた。そしておもちゃのようにまた喋りだした。

「気味が悪かった。胸が悪くなるほどに」

「私は、知ってるわ。それ」

 私はまたカナ子を押した。カナ子は今度は動かなかった。私は唇をうねらせた。

「そのあとたくさんの女たちが現れて、氷の山に群がったのよ。猿山の猿のように、イワシの群れのように、体液の漏れるバッタの死骸を運ぼうとする蟻のように。そして、皆でガリガリと食べたのよ」

「ハナエちゃん。あなたは氷の中から生まれたのね。だってとても冷たいもの」

 カナ子はうるんだ瞳に私を映した。私はカナ子を押すのを止めて、また頭を撫で始めた。

「そうね。私は氷の赤ん坊なのよ。女たちは氷の赤ん坊を食べて、大きく育った氷の赤ん坊を吐き出すの。氷の赤ん坊は女になると、また氷の赤ん坊を食べるの。――私もそうよ」

 カナ子がチイチイと鳴いた。鳴いた? 泣いた? 泣いた?

「私も今日、あの氷をかじったの。美味しくて、二つも食べてしまった。見て。私の中に、心臓が三つあるわ」

 私は白いお腹に被せていた青い布をはがした。皮膚をはがす感触がした。小さな赤いものが息づいているのを見た。カナ子は慌ただしくチイチイと泣いた。

「こんな退屈な日は、どこにも支えられていない宙ぶらりんの気持ちになるの。とても頼りない一日に、私はくるまれているの。――だから、食べたくなった」

 大きな心臓がうめく。小さな心臓がささやく。私はその両方を冷えきった気持ちで眺めていた。

カナ子はしばらくチイチイ鳴いたあと、おとなしく丸い籠に戻ってうずくまった。今はうとうとしながら私の世界からどこかへと吸い取られようとしている。

 窓の外を見る。真っ黒な町並みの向こうに見えるオレンジ色の夕焼けは、あまりの熱に酸化して、黒ずんでいく。

 ニンシンが私に宿っている。私はニンシンによってあの氷から逃げ出そうとしている。ニンシンは、私を助けてくれるだろうか。私をここから連れだしてくれるだろうか。私はお腹を撫でる。

 今も遠くの空の下、あの氷は積み上げられているのだろう。そして女たちは群がり、凍った胎児をかじるのだろう。

 だって、選択肢は少ないのだ。

                                  《了》

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