紅色 ~傷~ 10


「ちょっと待ってや」


この屋上から去ろうとしている僕に案の定、京先輩が声をかけてきた。

京先輩が声を出すのを待っていた僕は声にかけられた瞬間に足の軸を180°回転させ振り向く。

その予めわかっていたような軽い動きに京先輩は一度大きなため息を吐き出し、にごりのない蒼い深海の瞳で僕を、僕の心を見据えた。


「……ッ」


わかってはいたが人から怒りの眼差しを受けるのはやはり形容し難い焦りを生む。

ひんやりと感覚が首筋から脊髄を通ってゆっくりと下りていき、突然吹いた暴風が体温を徐々に低下させ、身を凍らせる。

偶然?いや、ここまでの流れが全て僕のせいなのだから突然吹いた暴風も偶然ではなく、必然だろう。

さっきまでの平穏な日常の風は何処にいったのか。現在、僕と京先輩の間に流れるのは『不穏ふおん』という名の目には見えない黒い風。


「あんた、うちが先に声上げされるためにこんなしょーもないことしたんやろ?」


冷たい。


「……」


僕は何も返事をしない。

正確には京先輩の蒼い深海の瞳が僕の喉まできた言葉を吐き出させないよう押し止ているのだ。


「……どや、想像通りかいな?」


冷たい。


「……」


無理だ。

声を上げれるわけがない。

何故ならここは『深海しんかい』。

声を上げようものならたちまち呼吸するのが難しくなり、最後は死ぬ。

京先輩と僕との間の僅か2mには目に見えない概念的に存在する『深海しんかい』が僕を深く深く抵抗など無意味な水圧が身体全体を上から重くのしかかる。

聞こえるのは京先輩の耳によく通る澄んだ怒気を含んだ声だけだった。

京先輩の蒼い瞳は僕にそんな幻覚をせる。


「あんたは、うちが『人が目の前からいなくなる』っちゅうことに敏感なんを知っててやってるんやろ?」


冷たい。


「……」


京先輩の言葉1つ1つが僕の腐りきった頭に冷水をぶっかける。

7月26日の水曜日。気温33°の真夏の中でもその冷水は熱で乾くことなく僕の全身を冷たく濡らす。


「めっちゃびっくりしたわ〜。うちびっくりして足がぷるぷる震えて立ってられへんかしれんわ〜」


冷たい。


「……」


見事なまでの棒読みだ。

京先輩らしいやり方で、京先輩らしいこちらを弄ぶ口調だ。

本音までは読み取れないが、京先輩が怒っているのはよくわかる。

軽蔑されただろうか?

図々しい疑問に胃が痛む。


「うち泣いちゃうわ〜。しくしくぼんぼん。夜空君はうちをわざわざ泣かすなんてドSやってんな(泣)」


冷たい


「……」


傍からはおちょくっている風にしか見えないかもしれないが、僕は言葉が続いていく度に前よりも温度が低い冷水をぶっかけられている気がする。

あぁ、気がするじゃない。間違いなく京先輩の言葉は冷たくなっている。

身体の精神の芯がひしひしと凍りつく。


「京先──」


凍りつきたくない。逃げたい。軽蔑されたくない。嫌われたくない。

僕は咄嗟に京先輩の名前を呼ぼうとした。

が──、



「あんた、まだそないなことしてんの?」



突然の一撃。

脳天を貫通させる氷柱つらら

極寒の暴風が僕を包む。

容赦ようしゃない言葉の暴力。

もう無理だ。

僕はぶっかけられ続けた冷水はマイナス44°の寒気に晒されて頭のてっぺんから足のつま先まで氷柱となった。









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