初夏の妖精事件編

1話 過ち

「んっんん・・・・・・」


 カーテンの隙間から差し込んだ斜光に、ベッドの上でセンセイは小さく身をよじった。

 干されたばかりなのであろう布団の優しい香りを吸い込んで、不意に湧いた違和感にセンセイは一気に覚醒した。

 天井が違う、家具が違う、そもそもとして部屋が違う、家自体が違う!

 ベッドから跳ね起きたセンセイは混乱して辺りを見渡すと、逸る動悸を抑えるように自分の胸に手を当てた。そこに下着の感触は無い。今年で二十四になる教師は自身の貞操の危機を案じた。或いはもう既に手遅れかもしれない。

 記憶は混濁し、思考に靄がかかる。

 夏だというのに冷や汗が背筋を伝った。

 

「わ、私は何を・・・・・・?」

 

 そして、唐突に思い出した。霧に包まれた事実が明るみになっていく。

 昨晩の記憶を。

 夏休み前夜の醜態を。

 センセイの意識は半日の時間を遡る。


 

「大丈夫ですかセンセイ・・・・・・ってどうしたんですか、こんなとこで」


 帰宅途中で呼び出された会長が、口頭で伝えられた住所へ記憶を頼りに辿り着いた先に見たのは、玄関でへたり込むセンセイの姿であった。

 背中越しに見える初めて訪れた『恋人』の部屋はきれいに片付けられており、見た限りでは異変があるようには思えない。

 会長の来訪に気づき振り返ったセンセイの瞳は少し潤んでおり、それが会長の困惑を強めた。

 らしくない姿だと思ったのだ。

 これがあのクールな女教師なのかと。


「部屋が、部屋が・・・・・・」

「部屋に何かあったんですか? 泥棒ですか?」

「部屋が・・・・・・片付いてるの」

「ちょっと何言ってるか分からないですね」

「違うのよ! よく見なさいっ!」


 ついにほとほと呆れた顔になった会長にしかしセンセイは必死に追いすがる。

 センセイの主張に付き合う気勢は既に削がれつつあるが、帰りたい気持ちを隠してへたり込んだセンセイに手を差し伸べた。

 会長の手を借りて立ち上がったセンセイはようやく落ち着きを取り戻してきたようで、目を細めて部屋中を見渡す。会長もまたその視線の先を追った。


「・・・・・・具体的に何がどうなったんですか」

「全部よ。全部片付いてるの」

「・・・・・・センセイのおふくろさんでも来たんじゃないですかね?」

「そんなわけはないわ。あの人なら絶対事前に連絡してくるはずだもの」


 そうなるともう、片付け好きの高度な変態さんに忍び込まれたとしか考えられない。疲労が溜まり若干眠たくなってきた会長の思考は錯乱しつつあった。


「・・・・・・ここで話すのもあれね。中へ入らない?」

「と言いつつ俺を盾にしないでくれませんかね? ・・・・・・はぁ、お邪魔します」


 後ろから両手で押されてずいずいと部屋の中へと誘われる。未だかつてこんな色気もへったくれもない恋人の部屋の入り方があっただろうか。 

 何かに怯えるセンセイというレアな発見をしてしまったが、それをネタにからかうことは躊躇われた。

 部屋にあるものは全て収納され、何一つ、不自然なくらいに外に出ているものはない。しかし、それだけだ。


「特に変わったことはないような・・・・・・ん?」

「な、何かあったのかしら」

「・・・・・・いえ、何でもないです」


 視線を巡らせていた会長が何かを感じたように鼻を鳴らすと、センセイは悲鳴にも似た声を上げて制服を引っ張った。

 会長はかぶりを振って誤魔化したが、その表情は険しい。

 こうなると、外部の音など聴こえていない。己の世界に引きこもってしまっているのだ。


「・・・・・・これはもしかして・・・・・・・・・・・・いや、まさか・・・・・・しかしこの気配は・・・・・・」

「ねえ、やっぱり何かあったのよね!? 正直に話してもらえないかしらっ!?」

「・・・・・・すみません、ちょっと一晩ここに泊まっていってもいいですか? 確かめたいことができたので」

「えっ!? 泊まるって、たし、確かめるって、つまり・・・・・・ちょっと会長君っ!?」

「代わりに今日は俺の家で寝泊まりして下さい。鍵は渡しとくんで」


 ポケットから出した鍵を有無を言わさずセンセイに手渡して、会長は再び思考の海に沈んだ。

 センセイが何を勘違いしたのか、いつも通りの無意味な意味深発言で人の心をかき乱している。それなのに当の本人は全く自覚がないという恐ろしさ。


「え? え? ・・・・・・どういうこと?」

 

 今度は一転して当惑することとなったセンセイは一人取り残されて佇む羽目となった。

 鍵にはいつの間に書いたのか手書きの地図が付けられており、センセイはため息をつくとそれに視線を落とした。


 ★  ☆  ★


「わ、私はなんてことを・・・・・・」


 全部を思い出したもしくは思い出してしまったセンセイは部屋の真ん中で頭を抱えた。

 人の家に一人上がり込んでベッドを借りるような真似をしてしまったのは布団の魔力と割り切ろうとも、男の家にいるという未体験の衝撃が、雷に打たれたように全身を駆け抜けた。


 おそらく、いや確実にこの部屋は会長のものだ。親元を離れて一人暮らしをしているという身には手に余る一軒屋には案の定部屋が余っており、生活に使われているのはその半分程度であった。

 そしてセンセイがいるのは二階にある唯一の寝具のある部屋。これで会長の部屋だと思わない方がおかしい。


 と、そんな『恋人』の生活状況のことを考えている場合ではなく、今悩むべきは『教師』としてのあるまじき失態。いや、そもそも『生徒』と『恋人』関係になっている時点で大問題だが。


 なんと言うか、流れに逆らえなかったと自分に言い訳をして踏ん切りをつける。

 

「これが、会長君の部屋・・・・・・」


 そう意識すると急に頬に熱が昇ってくる。

 外気的なものとは違う暑さを誤魔化すように頭を振って頬を叩いた。

 恥ずかしいという思いが激流の如く渦を巻く。完璧な教師を目指す自分にとって彼というファクターは不確定要素過ぎた。


「そう言えば・・・・・・私、彼の趣味について何も知らないのよね」


 それはやはり自分への言い訳。

 しかし抗い難い誘惑がそこにあったのも事実。

 天才にして恋人にして生徒会長、果たしてその内面の多くは謎に包まれている。

 恋愛について知る為に教師に告白をする一風どころか異常なまでに変わった人物。


 そのトップシークレットに触れうるものが、今すぐそこにあるかもしれない。そしてここにそれを邪魔するものは自身の良心以外にない。

 例えそっち系の本が見つかってもそれは不可抗力なのだ仕方ない。


 男子とは思えない程整頓された部屋にはぎっしりと本の詰まった本棚が二つ並んでいる。

 その片方は教科書や参考書やセンセイですら読んだこともないような難しい本が埋めている。

 しかしもう一つは・・・・・・。


「こ、これは・・・・・・」


 会長の黒歴史を垣間見てしまったセンセイは今度こそ顔を真っ赤にして本棚の前で突っ伏した。


「恋愛について知りたいとは言っていたけど・・・・・・こ、これは流石に」


 深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いていた。

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