夢幻遊戯~冷徹王子と無限の仮面を持つ少女

文月

第1話 プロローグ

 何度目だろうか。

 藍色の重厚な緞帳がまた軽やかに天井へとすいこまれる。


 わあああぁぁぁぁ――――!

 途端にまばゆいばかりの光の洪水と頭の奥に響き渡る大音量とともに、得もいわれぬ快感がディアナをつつむ。目の前では老若男女、総立ちの観客が割れるような拍手を送りつづけている。

 劇団〈夢幻遊戯〉の専用劇場〈ベテルギウス〉はこの冬一番の熱気につつまれていた。半年もの間連日大入り満員だった舞台「薔薇の乙女と光の勇者」が今この時、千秋楽を迎えたのだ。

 鳴りやまない拍手の中、ディアナは芝居を終えた時にいつも感じる達成感と高揚感で胸をいっぱいにしながら、カーテンコールのために舞台に立っていた。否応なしに高ぶる気持ちを落ち着けるべく、深い息をついて視線をあげる。正面から照らされる照明の光(スポットライト)にさえぎられて、お客様の細かい表情は見えないが、すべての人が心から笑んでいるのが波動のように伝わってくる。

 今日はディアナにとって特別な日だった。

(この舞台に立つのも、今日が最後……)

 目を細め、ゆっくりと人でうめ尽くされた客席を見渡す。

 興奮して帽子を投げる紳士、頬を染め、飛び跳ねながら友人と手を取り合う少女たち、身を乗り出しそうにする子供たちを抑えながら嬉しそうに微笑む若い夫婦……。

 この広い劇場にいるすべての人たちは今、ひとつになっている。皆が一心に見つめるその場所に自分がいることがどれほど幸福なことか、彼女はかみしめていた。

 横に並ぶ三十名ほどの俳優たちがもう一度頭を下げる。これで何度目のアンコールだろうか。ディアナも腰を深く折っておじぎをする。肩よりも上に切りそろえられた栗色の髪がさらりと落ちてきた。

(悔いはない)

顔をあげて、ディアナはもう一度客席を見つめた。最期の光景を目に焼きつけるかのように、強く。

白一色だった光が七色になり、舞台上の役者たちをさらに明るく照らしだす。あまりのまぶしさに目をあけてはいられないほどだ。思わず目を覆おうとして手をあげた。


 ふっと目をあけると、東側の窓から柔らかな朝日が差し込み、ディアナをつつみこんでいた。

 顔にかけられた手に苦笑し、ベッドからすべりおりる。用意しておいた服に手早く着替えると、部屋から出て、キッチンへ向かう。

 毎朝、自家製のハーブティーを入れるのがディアナの日課だ。いくつも並んだ茶葉のビンを指でなぞり、ペパーミントを選ぶ。お気に入りのポットにお湯を入れ、火にかける。沸くまでのあいだに夜のうちに仕込んでおいたパンだねを取り出し、くるみとやぎのチーズを混ぜ込むと、丸めてオーブンに入れた。

「うーん、淹れたてのハーブティーはやっぱり最高ね」

 爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込むと、ディアナは湯気のたつカップを持ったまま、庭に出た。

 春寒の空は青く透き通っていた。暖かな春の足音はすぐそこまでやってきていたが、もう四月だというのに、まだ早朝は肌寒い。特にここヴァンベール王国はディアナがつい一ヶ月前まで暮らしていたマリード王国よりも北にあるため、春の訪れも遅いようだ。

 ディアナはさめないうちにと、ペパーミントティーに口をつけた。程よいあたたかさが身体の中にしみわたり、ほっと息をつく。爽やかな酸味とすっきりした香りが広がり、パリッとした早春の空気と同じように、気分もしゃきっとしてくる。

「あんな夢見ちゃったら、発声練習したくなっちゃう」

 ディアナは空を見上げながらつぶやいた。澄んだ空気が声をどこまでも響かせてくれそうだ。

 この冬までの四年間、ディアナは母の故郷であるマリード王国で暮らしていた。

マリードは芸術に秀でた国として名高く、文芸や音楽から絵画、彫刻、陶芸といった美術まで、創りだす人材からその作品にいたるすべてが一流であると自負している。特に最近は舞台芸術の発展がめざましく、王都サルハでは大小数多くの劇団が民の娯楽の中心として興隆していた。

 ディアナは余韻を楽しむかのように目を閉じた。この一ヶ月の間、何度となく見た夢を思い出す。最後に立った千秋楽の舞台。

 まぶたの内側にもっとよく思い浮かべようとして、ディアナは慌てて目を開いた。

(だめだめ。もう忘れるって決めたんだから)

 母との約束を叶えるために行ったマリード。

 サルハの高等学校に通いながら、一方で少年役俳優としてマリード王国の人気劇団〈夢幻遊戯〉の舞台に出演していたのはほんの少し前のことなのに、もう遠い過去の幻想のようだった。

 演劇はディアナの人生を変え、彩ってくれた。お芝居をすることは呼吸と同じく自分の一部で、もうなくてはならない大きな存在となっていまも心を占めている。

 けれどここに帰ってきた。今度は父との約束を果たすために。

 劇団での三年間は夢だった、そう思うことにしようと決めたのだ。

 ふっと息をついて、カップの中を見つめる。透明な液体からゆらゆらと不安定に立ちのぼる湯気が、まるで演劇への未練を描いているようで、ディアナは一気に残りを飲み干した。たくさんの人々で賑わっていた夢の中から、急に静かすぎる現実に引き戻され、普段は忘れているさみしさがふとよみがえる。

 ディアナの父も母ももうない。母は四歳の時に病気で亡くなった。

 父は植物学者で、ヴァンベール王国の王立ヴァレンタイン大学に勤めていたが、研究と称してはよく各地に出かけていた。出世には興味がなく、ただ純粋に研究が好きな人だった。

 ディアナはこじんまりとした庭を見渡した。

 一ヶ月前にこの住みなれた家に戻ってきた時は、畑は形こそあったものの、ほとんど植えた形跡もなく閑散としていた。温室に至っては布は破れ、支柱も倒れかけひどい状況だった。それをディアナが少しずつ手を入れ、やっと庭らしさを取り戻してきたところだ。野菜畑はしっかり耕して肥料も入れ、春まきの種を植えた。父が母のために造ったという温室も布を張り替え、中では薬草を育てはじめている。隣には何種類かのハーブを蒔いた。これから花も植えようと、種類を吟味しているところだ。

(まだ昔のようにはいかないけど、日当たりはいいし、だいぶ居心地良くなったわ)

 満足そうにうなずき、空になったカップを小さなテーブルに置いたとき、家の扉が開く音がした。ディアナが振り返ると、戸口からゆっくりと男が出てきたところだった。

「おはようウィル。もう行くの?」

「ああ、ここにいたのか。おはようディア」 

ウィル――ウィリアム・マクリードはディアナの叔父であり同居人だ。唯一の肉親である彼はすらりとした細身の体型だが、どこか野暮ったい雰囲気を醸し出している。目元にかかる長めの前髪がそれを強調しているが、丸い銀ぶち眼鏡の奥のヘーゼルの瞳は穏やかだ。まだ二十代前半と見える彼はディアナを見つめて柔らかく微笑んだ。

「今日は朝一でサイモン教授の授業があるからね。準備しなきゃいけないから少し早く行くよ」

「そう、わかったわ。朝ご飯は? 今日は隣のクレアおばさんが分けてくれたチーズ入りのくるみパンよ」

「えっ、くるみにチーズ」

 ウィルと呼ばれた男の顔が輝いた。が、すぐにくもらせて目線を腕に落とす。

「食べたいけど……、もう行かないと間に合わないんだ」

 ウィリアムはいつもするように丸眼鏡を押し上げながら、腕を顔の近くまで上げて時間を確認しつつ、本当に残念そうな顔をした。くるみとチーズのパンはウィルの好物だ。

「じゃあお昼用に包んで持っていってあげるわ。研究室にいるわよね?」

「それは嬉しいな。楽しみにしているよ」

 ディアナの言葉にウィルは相好をくずした。そのほんにゃりした笑顔に笑みを返しながら、ディアナはさらりと尋ねた。

「ところで、その恰好で行くの?」

「ああ。何かおかしいかな? いつもと同じだけど」

 ズボンでも破れているのかと慌ててお尻のあたりを振り返る間に、ディアナはウィルの顔から服へ、そして髪へと視線を目まぐるしく移した。

 着古されたシャツにはディアナがアイロンをあてていたが、ズボンから豪快にはみ出していたし、金茶色の髪はあちらこちらに向いている。眼鏡が隠れるほど前髪が伸びているさまは、まさに世間一般が認識している貧乏学者そのものだ。ディアナの父もそうだったが、学者という人種は身なりにはあまり気を使わない性質らしい。

(何度言っても興味のあることしか聞かないのよね)

 ディアナが見る限りもとは悪くないはずなので、髪をとかして服装をきちんとしさえすれば見られるようになるはずなのだが、いかんせん本人にその気がなければどうしようもない。

 また学生たちに笑われるんだろうなと嘆息しつつ、ディアナは早々にあきらめて首を横に振った。

「いいえ、なんでもない」

「そう? そろそろ行かないと。今日は一緒に行けないけど、気をつけてくるんだよ」

「大学まで歩いてたった二十分よ。何かなんて起きないわよ」

 ディアナは軽く笑ったが、ウィルはディアナをじっと見つめ、真面目な顔で言った。

「ディアナ、君みたいにかわいい子は充分に気をつけても気をつけすぎることはないよ。君に何かあった時、僕は義兄さんと姉さんに申し開きができないからね」

「わかったわ、気をつける。いってらっしゃい」 

 過保護すぎるウィルの背中を笑って見送って、ディアナは子供の頃から住む家を振り仰いだ。

 ここで暮らした記憶にはすべてウィルがいる。

ウィルはディアナの亡き母の年の離れた異母弟だ。母とウィルの両親が事故で一度に亡くなった時に母が引き取り、すでに結婚していた父とともに息子のように慈しんで育てた。ほどなくディアナが生まれ、この家には幸せに包まれていたが、ディアナが四歳の時に母が亡くなってからは父とウィルと三人で暮らしていた。

 ウィルとはたった七歳しか離れていないので、本当の兄妹のように育ってきた。植物をこよなく愛していた父は、ディアナとウィルをよく山や森に連れて行き、生命の始まりから生活に必要な知識まで様々なことを一から教えてくれた。子供のように目をきらきらさせながら山を歩き、めずらしい草花を見つけるたびに立ち止まって動かなくなる、そんな父がディアナは大好きだった。

『いつかお父さんとおんなじしょくぶつがくしゃになる!』

 そう言ったディアナの頭をくしゃくしゃの笑顔でなででくれた父。だがディアナが十歳の時、山での不運な滑落事故で命を落としてしまった。

 それからディアナはウィルと二人きりで生きていた。父と同じ道を志していたウィルはヴァレンタイン大学農学部植物学科の二回生だったが、父の遺した蓄えが少しはあったのと、ウィルが学業のかたわら父の研究室で研究助手の雑用係として働いたこともあって、裕福には程遠かったが食べ物に困ることはなかった。

 二人の道が分かれたのは、それから二年半後、ディアナが十二歳の時だった。

 大学を卒業したウィルが、優秀な学生の交換留学制度でソマリス王国にある提携大学の大学院に進むことになったのだ。ここを卒業すればまたヴァレンタイン大学に戻り、研究室で助手として働くことになる。先々は教授まで登りつめられる出世街道の一歩だ。ウィルはディアナを一緒に連れて行くつもりだったが、ディアナは母の故郷であるマリード王国の高等学校に進みたいと伝えた。母の記憶はほとんどないが、唯一故郷のことについて話してくれたことを覚えていたのだ。


『マリードの都には劇団がたくさんあって、いろんなお芝居が観られるのよ。楽しい話や悲しい話、切ない恋の話や幸せな愛の話……お母さんも子供のころたくさん観に行ったわ。ディアナももう少し大きくなったら一緒にお芝居を観に行きましょうね』  


 その約束は果たされなかったが、ディアナはいつかマリードに行きたい想いを胸に秘めてきた。だからこの機会に母の故郷に住んで、母が好きだったお芝居をたくさん観たかった。

 話を聞いたウィルは渋い顔をしたが、寮のある学校に通う条件で結局許してくれた。過度の心配性だが、ディアナに甘い一面もあるのだ。マリードはウィルの故郷でもある。話したあと少し遠い目をしていたから、もしかしたら幼い頃を思い出していたのかもしれない。

 念願叶ってマリードの全寮制女子高に入学したディアナは、その土地で「演劇」と出合った。人生を変えるほどの衝撃。あふれる熱気。高揚。躍動感。芝居(そうぞう)から溢れだす多彩な感情。日常から離れた異空間――。


 ガチャッ。

 急に大きな音がして木戸が開いたので、ディアナは飛び上がった。

「こめんディアナ……驚かせたかな」

「ウィル、どうしたの?」

 さっき出かけたはずのウィルが、顔を真っ赤にして立っていた。前髪があがり、肩で息をしているところを見ると、走って戻ってきたらしい。

「いや……忘れ物、しちゃって」

「また?」

「うん……ああ、急がないと」

 慌てて家に駆けこんでいくウィルをあきれ顔で眺めながら笑みを浮かべる。

 四年ぶりに戻ってきた我が家には、一足先に昨年戻っていたウィルがいてくれた。

『お帰り』

 そう言って温かく迎えてくれたたったひとりの家族。思い出のつまった家にまた帰って来れた喜びの反面、複雑な思いを抱え、ディアナはたった今考えていた未練(こと)をふりきるように頭を軽く振った。

「さ、大学行く前に野菜畑の手入れしなきゃ。朝が肝心なんだから」

 おなかから声を出すと、ディアナは腕まくりをして働きはじめた。

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