脅したという自覚はおありなのですね?

「空岸。あなた、けてたでしょう」


 相合傘作戦(実はこの他にも晴天時などを含め12パターンほど鳩緒様とのファーストコンタクトをプランニングしておりました)が悲惨な結果に終わった日の、晩餐のお時間。

 あのあと、次の駅で我々の車に乗って屋敷へ帰り、メイドたちの手伝いのもと濡れた衣服を着替えシャワーを浴びるなどしたのち、お嬢様はすぐに自室に籠られました。

 晩餐の出来上がりを告げる館内放送を行うと、少し気怠そうにネグリジェ姿でダイニングにいらっしゃいましたが、その際にも一切喋らず。

 後ろから私の手でエプロンを着けて差し上げたところ、俯きがちに、憂いたようなお顔で、ようやくお口を開かれましたが……第一声がこれですか。

 私はとりあえず「ええと」とお返事を保留させていただき、その間に、準備しておいた緑茶のポットとグラスを、右手に持った銀のお盆の上からテーブルの上に静かに置かせて頂きます。

 お盆を小脇に抱えて、こほんと咳払いし、一言。


「はてさて何のことやらぴゅーぴゅー」

「こんど私の前でその『昭和のマンガでよくある斜め上を向いて汗をかきながら下手くそな口笛を吹くタイプの惚け方』やったら解雇するわよ」


 私の唯一の持ちネタでございますのに。


「いやはや、気配は消していたつもりだったのですが、よもやお気づきになるとは。これもお嬢様の日々の研鑽の賜物といったところでしょうか」

「この際、尾けていたことに関してはどうでもいいの。主人の命令に背く許されない行為とはいえ、過ぎたことをあれこれ言っても仕方がないわ」

「なんとお心の広い。私、感服致しました」

「ええ。だからね、空岸」


 あぁ、たぶん約0.2秒後にお嬢様は突然お立ちになって、その勢いで倒した椅子を使って足払いを仕掛け、体勢を崩した私の頭に、いま持っているナイフとフォークを突き刺すおつもりなのでしょうね。もし椅子で足払いができなかったとしたら、椅子の背に体の重心を置き、それを軸として下半身をコンパスのように回すことで私の足を蹴り飛ばして体勢を崩すおつもりなのでしょう。


 と、完全に行動予測ができましたので、予めお嬢様がお座りになっている椅子を手で押しておきます。

 0.18秒経過。案の定、ガタッ、と乱暴に立ち上がったお嬢様が、椅子がピクリとも動かないことに一瞬目を見開かれ。しかし攻撃の手は緩めることなく、そのまま椅子の背を掴んでそれを軸に自らの体を水平に回し、私に足払いを仕掛けます。

 事前に予測しておいた通り。私はごく普通に歩行するようにその足払いを躱して、右手に持っていたお盆を仮面を被るように顔の前に構え、お嬢様から私の顔面への射線を切りました。

 カン、キン。銀と銀がぶつかり合い、剣戟のような音を立てた後に、ポトポトと私の足元にフォークとナイフが落ちます。

 顔の前からお盆をどけると、椅子の後ろに立って背もたれに上半身を預けたお嬢様が、顔を紅くして恨めしそうにこちらを見つめていらっしゃいます。


「お嬢様。失礼ながら、テーブルマナーがなっていないのではないかと」

「うるさい。脳を摘出して海馬にフォークを突き刺して、今日の記憶を全て抹消してやるわ。大人しくそこでじっとしていなさい」

「はて。今日の記憶というと?」

「殺してやるって言ってんのよ、言わせないで恥ずかしい」


 恥ずかしいという理由ではなく、なんというかこう、人間としての最低限守るべき道徳的に、そういった言葉は謹んで頂きたいものですが。

 さて、普段は品行方正眉目秀麗才色兼備の仮面を被ってその本性を隠していらっしゃるお嬢様ではございますが、このように取り乱してしまうともう収集がつきません。

 まるで発情期の猫のように、フシューフシューと肩で息をして激昴するお嬢様。やれやれ、この殺人マシーンをどうやって止めたものでしょうか。

 まぁ十中八九、昼間のことでプライドを傷つけられての八つ当たりでしょうし。なんとかお嬢様の尊厳を取り戻す方向で説得してみましょうか。


「落ち着いて下さいませ、お嬢様。何も恥じることはございません。異性と触れ合った経験が少なく、それも一目惚れした相手を前にすれば、あのように取り乱してしまうのは仕方の無いことでございます。凡人ならば取り乱すだけでは済まないでしょう」

「フー、フー……」

「かくいう私も、若い頃は異性との触れ合いに取り乱しすぎて気を失ってしまったことさえあるのですから」

「バカにしないで! 無趣味無愛想無感情のアンドロイド人間な貴方がそんなことになるわけないじゃない!」

「少なくとも無感情ではありませんよ、ちょうど今怒りの頂天ですし」


 まったく、人のことを何だと思っているのでしょう。字幕家の令嬢でなければ今頃ナイフを奪い取って喉元を掻き切っているところでございますよ。冗談ですが。


「ともかく。まだうら若きお嬢様が、恋愛沙汰で取り乱すことは恥ずかしいことでも何でもないのです」

「…………」

「よろしければ、今一度聞かせて頂けないでしょうか。最初の方は問題なく鳩緒様とお話出来ていたのに、途中から取り乱し始めた、その理由を。原因が分かれば、我々も何かお手伝い出来るやもしれません」


 ……まぁ、嘘でございますが。

 好きな人の前だからといってあんなにパニックになる人間は、おそらくお嬢様以外ではYahoo知恵袋やTwitterの中にしかいないんじゃないかと。

 いつもなら私のこんな嘘はすぐに見破られてしまうお嬢様ですが、今日は相当参っているのか、黙りこくって、静かに椅子を戻してストンとお座りになりました。


「……笑わない?」

「笑うはずがございません。私がお嬢様のことを嘲ったことが、これまで一度でもありましたか?」

「そうね。あなたに笑うという機能は実装されていないものね」

「お嬢様、いい加減になされないとそろそろアラサー男性がみっともなく泣くところを見て頂くハメになりますよ」


 有給を取って温泉に行きとうございます。ボロ雑巾のようになってしまった心を癒しとうございます。


 私の傷ついた心など露知らず、お嬢様は、テーブルの上に置かれた料理(今晩のディナーはポークソテーとシーザーサラダでございます)をじっと見つめ。

 しばらく逡巡されたのち、唇をそっと開いて。


「……彼の首筋から、女物の香水の匂いがしたの」


 ……ほう?

 まぁ確かに、お嬢様の取り乱しようは異常ですが……それは、動揺してしまっても無理ないかもしれませんね。

 しかし、彼の身辺関係はおおかた洗い出したはずですが。特に変わった点のない至って普通の家庭に生まれた普通の青年だと、いま現在特に親しい女性もいない普通の青年だと、調べ上げたはずなのですが……。

 私の心配をお察しなされたのか、お嬢様が大きくかぶりを振ります。


「調査情報に漏れがあったとは考えていません。ただでさえ優秀な貴方達を脅して、必死になって調べさせたのですから、そうそうミスなど有り得ないでしょう」

「脅したという自覚はおありなのですね?」

「揚げ足を取るのはやめなさい。今は貴方如きに対して、言葉を選ぶ労力を割けるような状態じゃないのです」


 無理に高飛車な態度を取ることに割ける労力はあるのにですか。まぁ当然ながら口に出して言えるわけはありませんけれども。

 私はとりあえず、ずれた眼鏡の位置を正しながら、お嬢様に無言で先を促します。


「……しかし。調査段階で女性関係がなかったとはいえ、あれほどの魅力を持つ殿方を狙う羽虫女性が全くいないとは信じられません」

「はあ……なるほど」

「だから……もしも彼が、そんな羽虫女性の匂いが移るほどベタベタと触られていたらと思うと、慌ててしまって、吐き気がして、制御していた心も暴走してしまって……」


 羽虫と書いて女性と読むとは恐れ入りました。そんな無理矢理なルビ振りをする人間はこれまでお嬢様以外にマガジンの不良漫画でしか見たことがありません。

 というか、動揺に至るルートが何かおかしくないですか? ふつうは『もしかして彼女までいかなくても仲のいい異性がいるのでは』とか考えて動揺してしまうんじゃないんですか?

 好きな人が他の異性に触られていただけで嫌がるとか処女厨もビックリですよ。

 私の思考が横道に逸れて不幸ハードラックダンスっちまっている中、さらにお嬢様は続けます。


「私がそこらの蛆虫羽虫に魅力で劣るなど万に一つも有り得ませんが……しかし、彼との関係性において、現時点で彼と知り合っている他の御器噛蛆虫よりも出遅れていることは事実です」

「お嬢様。ルビで遊びすぎでございます。御器噛ゴキカブリと書いて蛆虫ウジムシと読まれてしまってはもう何も分かりません」

「私の言語センスを理解してもらおうなどとは考えていません。貴方に言いたいことはひとつよ、空岸」


 しゃなり。

 美しい女性は、どの瞬間をどう切り取っても美しく、それはたとえ想い人の前で動揺し壊れた玩具のようになって失態を晒してしまった後でも、自らの羞恥心を消し去るために何年も連れ添ってきた執事を本気で殺そうとした後でも、変わりなく。

 だから、美しいお嬢様は椅子から優雅に立ち上がり。

 美しいまま、凛として、私の鼻先にナイフを突きつけて命じられました。


「明日中に、私の転入手続きを済ませなさい。転入先はもちろん、鳩緒掌さまの通う高校です」


 そして、美しい女性には、人として当然あるべき気遣いや労いをする義務がない。


「仰せのままに」


 この世は、美しい女性が何もしなくても快適に生きることが出来る。そういう世の中であるべきだし、実際にそうなのです。

 美しい女性に対して男性は、たとえ自らの羞恥心を消し去るために何年も連れ添ってきた執事である自分を本気で殺そうとした主人に対してでも、徹底的に紳士で、圧倒的に下僕であるべきなのです。

 美しいお嬢様をお引き立てするためならば、この身、粉にも塵にもして働きましょう。


 それが、執事というものでございます。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る