老兵は少年となって第二の青春(戦場)を歩む

立花秋連

第1話 覚醒




 悪夢から目覚めるよう唐突に、意識は光を取り戻した。

 微睡みすら許されない寝起きの良さが眠気を霧散するが、十分過ぎる睡眠をとった代償か、脳が思考回路を繋げるより早く、金槌で殴られ続けているような鈍痛が襲ってくる。

 苦悶から逃れるよう瞼より先に大口を開くと、猛烈な吐き気を催してしまった。


「げ、げぇ、げぇぇぇっ、げほっ、ウエェェェ……!?」


 何度もえづきながら、顔を横向きにして胃の中にあるモノを全てぶちまけた。

 胃液とは違う妙にドロッとした苦い液体。いや、張り付く感じから粘液に近いのかもしれない。薬剤のような味のするドロドロとしたそれを、鼻と口から垂れ流し続け、息苦しさから閉じた瞳の中から、自分の意思とは無関係に涙が溢れ出す。

 全て吐き出し粘液地獄から解き放たれた安堵からか、心臓が強く鼓動を奏でる。

 げひ、げひと汚らしく鳴らす呼吸音とは違い、確かな命を感じる心音は不思議と気分を落ち着かせてくれた。そこでようやく気が付く。自分が仰向けになって寝かせられているという事実に。横になっているのはベッドのようだが、それにしては硬く板の上に乗せられているようだ。

 何故こんな場所にと疑問に思いながら、周囲を確認しようと瞼を開きかけたが、止めた。

 自分の直ぐ真横に、人の気配を感じたからだ。


「心肺機能の稼働と共に、体内に取り込んでいた培養液を排出したか……どれ」


 男の呟きが聞こえると同時に、呼吸を細め全身を脱力させる。相手に意識が覚醒している事を悟らせない為だ。

 横を向いた顔を正面に直すと、男の指先が強引に左の瞼を押し開いた。まだ視界が開けていない眼球にライトが当てられ、数秒間覗き込まれるような気配に耐え忍ぶ。数秒後、短く息を吐く音と共にライトを消し、瞼を開いていた指を離した。


「まだ完全に意識は覚醒していないようだな」

「失敗ですか?」


 気取られなかったと安堵する間も無く、反対側から別の男が難しい声を漏らす。


「それは何とも言えん。実験段階ではインストール後、直ぐに発狂死した事例も報告されているから、変化が無いのなら現状は静観するしかないだろう」

「本当に生きているんでしょうか?」

「肉体的には問題ない。呼吸も……脈拍も正常だ」


 手首を取り脈がある事を確認してから、上司らしき男は断言した。


「データ量こそ少ないが、長い年月をかけて臨床実験を重ねてきた末に今日へと至る。もし、正常に意識が覚醒するのならば、我々は医学的……いや、人類史に残る偉業の、最初の観測者になるやもしれん」


 口調は普通だが、隠し切れない興奮が鼻息となって漏れ聞こえる。反対側では、ゴクリと唾を飲み込む音。サラサラと何か擦れる音が聞こえるのは、彼が何かにペンを走らせているのだろう。

 目を閉じ微動だにしないまま、自身は異常な状況に置かれていると判断する。

 不明な薬剤でも投与されたのか、頭の中には靄がかかったよう曖昧で、何故自分がこの場所にいるのか思い出せない。ここが実は病院で、横にいる彼らが献身的に治療してくれているとも考えられるが、会話の内容からそんな献身的な連中とは思い難い。


(まるで実験動物扱いだな)


 二人の自身に対する会話に内心で苦笑する。

 出来るならもう少し状況が判断出来る材料が欲しいところだが、目も開けられない状況では得られる情報にも限りがある。唯一の手掛かりである二人の会話も、専門的な単語が多くなってきて、自身の知識では判別が難しい。


(恐らくだが、現状は意識を失う前の俺が望んだ状況じゃないだろう。左右の二人も友好的ではないようだ。情報が乏しい段階で動きたくはないんだが……)


 次の行動を決める為、意識を集中して丹念に周囲の気配を探索する。

 別に視界が封じられたまま、周辺をサーチ出来る超能力があるわけではない。聴覚で音や反響具合を図り、嗅覚で危険、不審な匂いが無いか。肌の触覚で風の流れ、熱源などは無いかを判別しているだけだ。

 後は長年の間に蓄積された知識と経験に照らし合わせれば、ぼんやりとだが周囲の様子を伺い知る事が出来る。


(ここは室内……まぁ、当然か。それほど広くは無い上に、微かに聞こえる電子音から電子機器の機材がある。時折、カチャカチャと聞こえる金属音は医療器具かな? 音の反響から手の届く近い範囲にあるのだろう……やはり病院。いや、研究室の一室に似た場所にいるのか)


 何故そんな場所にいるのか、心当たりは全くない。


(幸運な事といえば、室内には研究者か医者らしき男が二人だけということ)


 声の質から一人は年嵩を重ねた人物で、もう一人は二十代の若者だろう。

 どちらも声色からは、筋肉質な人物像は想像し難いが、決めつけるのは早計。世の中には愛らしい少女の声と姿で、一個小隊を全滅させる化物も存在する。

 相手が本当に悪意ある連中なら、強硬手段に出るのだが……どうしたモノか。

 思考が上手く働かない事もあり行動を決めかねていると、室内に設置されているらしい電話のベルが鳴り響く。


「はい、処置室です」


 若い男が3コールで電話に出ると、向こう側の話を聞いてか「はい、はい」と相槌を打つ声色が徐々に強張っている事がわかる。

 電話は一分も立たない内に終了。

 そのタイミングを見計らって上司の男が問い掛けた。


「何かあったのかね?」

「詳しい事はわかりませんが、どうやら施設に侵入者が潜り込んだようでして」

「侵入者? 全く。警備部は何をやっているんだ。この施設で行われている研究の重要性を、本当に理解出来ているのか?」

「同感ですね」


 侵入者という物騒なワードにも、二人の男達は動揺を見せない。それだけこの施設の防衛力に自信があるのか、それとも研究以外の事に興味が無いのか。どちらにせよ、状況に変化が訪れたのは確かだ。


「用件はそれだけかね?」

「いえ。上からの指示で機密保持を最優先させる為、被験体を別の施設に緊急輸送する事が決定したとの事です」

「なんだって!? 被験体の蘇生は終わってしまったんだぞ」

「仕方がありません。上からの指示ですから」


 繰り返す若い男の言葉に上司の男は苛立つよう歯を噛み鳴らすが、やがて諦めたのか大きく息を吐きだす音が聞こえた。


「研究者が優先すべきは研究結果ではなく、スポンサーの意向か……残念ではあるが、万が一も引き起こしたくない上層部の考えも理解出来る。輸送班の手配は?」

「既に此方に向かっているとの事です」

「よろしい。ならば、直ぐに準備を始めよう。被験体が意識を取り戻して暴れ出しても大丈夫なよう拘束具を……いや、筋弛緩剤を投与する」

「それは、流石にやり過ぎでは?」

「薬剤に対する適正、抵抗力を図る意味でもある。どちらにせよ薬物実験は行う予定だったのだ、好都合だろう」


 言い切った上司の男の声には、一切の慈悲は宿っていなかった。あるのは研究者としての探求心だけ。それは助手らしき若い男も同様だった。

 これは決まりだな。と、内心で次に行うべき行動の方向性を決定する。


「直ぐに準備します」

「うむ」


 一切の反論もなく流れるように若い男は作業へと移行し、聴力だけを頼りに気配を丁寧に探る。

 一度離れた気配がもう一度左側面に近づいてくる。

 注射針を打つ為、左腕に手が触れた瞬間、素早くその手首を握り締めた。


「――ッ!?」


 驚き息を飲む音を聞きながら、腹筋の力のみで上半身を起こすと、掴んだ腕を自分の方へと引っ張り、目を見開く若い男の顔面に右の掌底を叩き込んだ。


「――ぶふっ!?」


 引っ張られて突き出した顔面に、掌底がカウンター気味に突き刺さり、顎を綺麗に打ち抜かれた若い男は頭を跳ね上げて、そのまま白目を剥きながら失神した。


「お、お前気が付いて……!?」


 急いで離れればいいのに、驚き過ぎて止まっているもう一人の男。口髭を生やした神経質そうな初老の人物の胸倉を掴み、同じよう引き寄せて首に腕を絡ませるよう巻き付けると、肘の裏側で相手ののど仏を挟み込み頸動脈を圧迫する。苦しむよう足をばたつかせるが、数秒続けると力尽きるよう全身を脱力させた。

 完全に落とした事を確認し、男をベッドの上に乗せ自身は床の上へと降りる。

 上手くいった事に短く息を吐きながら手の平で口元を拭うと、最初に吐き出した粘液がべっとりと付着したので、近くにあったタオルで自身の顔と粘液を丁寧に拭い去った。

 確認する自分の姿は、後ろをマジックテープで止めた患者着を身に着けている。気になるのは、視界は以前より低いような気がする点だ。


「こっ……ゲホガホッ!?」


 言葉を発しようと息を吸い込んだ瞬間、激しく咳き込んでしまった。

 気管支に異物でも入り込んだかのような違和感。普通に呼吸する分には問題無いが、声を出そうとすると途端に咽てしまう。

 おまけに身体も酷く怠く、風邪でもひいたかのよう発熱しだしている。


「ぐっ……ぎ、ぎゅうにいっだい、だにがおごっで」


 声を絞り出すも喉が潰れているのか、自分の声じゃないよう甲高く掠れている。

 意識を取り戻した時も何とも無かったわけではないが、急激な体調の変化に耐えきれず、近くにあった電子機器に寄り掛かってしまう。


「はぁ、はぁ……ぐっ」


 苦しげな吐息に混じり、心音がうるさいほど鼓動を叩く。

 本当なら今すぐ座り込みたい気分だが、話によれば此方に人が向かっているらしいので、のんびりと体調を整えている暇はない。


「あ、あだばが、いでぇ」


 血管が脈動するような頭部の痛みを耐えながら、必死で現状の把握を続ける。

 思った通り病院の処置室に似た室内は、ストレッチャーのように可動式のベッドを真ん中に様々な機材が置かれている。出入り口は何処かと首を巡らせると、直ぐ正面に扉があるのが見えたので慎重に一歩踏み出した。しかし、体調不良が注意力の散漫を招き、足元に伸びるコードに気づかず爪先を引っ掻けてしまう。


「――ぐっ!?」


 前のめりに倒れ込む瞬間、堪える為に飛びつくよう近くの机にしがみ付くが耐えきれず、ズルズルと滑り落ちるよう床の上に突っ伏してしまう。ひんやりとしたリノリウムの床が、燃えるような肌の熱さに心地よい。

 手を付いた時に、一緒に引き摺ってしまったのだろう。周囲にはバラバラと、机の上に束ねてあった書類が散らばるよう舞い落ちる。

 不意に直ぐ側に落ちた書類の一文が無意識に目に止まった。


『オールドマスター量産計画書』


 古き達人とでも訳すべきか。

 研究施設らしき場所の一室で、研究者の手の届く範囲にある計画書にしては、随分とファンタジックなタイトルだが、量産計画という部分が気にかかった。

 自分がこの場所で寝ていた事と関係があるのか。

 気絶している研究者を叩き起こし問い質せば理由を聞けるかもしれないが、泥酔したように覚束ない体調では余裕がなかった。


(人が来る前に、身を隠さなければ)


 確信があるわけじゃない。もしかしたら、自分を保護してくれた友好的な集団なのかもしれないが、何故だかそんな希望的観測は欠片も湧かなかった。

 この場に留まるのは危険だと、長年の経験からくる勘が告げている。

 胃が裏返るような吐き気を堪えながら、一度寄り掛かろうとして失敗した机によじ登るように身体を立て直す。


「……はぁ、はぁ」


 荒い吐息を上げながら、やはり先ほどの書類が気になり机に視線を巡らせる。

 書類の大半を床にぶちまけた所為で、机の上には殆ど物が残っておらず、唯一目を引いたのはスタンドミラーだった。女性職員が他にいたのだろうかと、不意に鏡を覗き込んだ瞬間、意識と身体が硬直する。


「……えっ」


 鏡の中にちょうど映り込む自分の顔。角度的に自分しか映らない筈なのに、視界が捕えたのは見慣れぬ誰かの顔立ち。黒い頭髪を持つ東洋人の少年で、まだ幼い子供と区分される顔立ちは、小動物のような庇護欲をそそる愛らしさに満ちていて、日焼けとは無縁な青白い肌色が少年の中性的な魅力を引き立てていた。

 一見すれば少女と見間違う美少年の顔は、此方を見詰め返すよう絶句している。


「……だれだ、これは?」


 口に出した言葉が、先ほどまでよりハッキリと自分の耳に届く。

 だが、それも聞き覚えの無い声色。風邪をひいたとか喉を傷めたとか、そんなレベルでの変化ではなく、まるで声変わり前の少年のよう。確かに鏡に写る少年の声だと言われれば、それらしいと素直に頷く事が出来ただろう。


「ばかな……わかがえって。いや、これはまるきり、べつじん」


 痰が絡むような感覚から何度も咳払いをし、確認するようワザと声を出す。

 何が何だかわからない。出口の無い迷宮に迷い込んだようで、問い掛けだけが頭を駆け巡り答えを導き出す工程すら構築出来なかった。


(俺は六十に近い爺だったはずだぞ。くそ、くそっ、どうなってる?)


 噛み合わない精神と肉体の違和感に、体調不良も相まって思考を巡らすのも難しくなってきた。


「……うぐっ」


 混乱の所為か再び激しい頭痛が襲ってきて、耐え切れずに顔を顰め床へと蹲る。


「おれは……俺は、だれ、だ?」


 記憶が無いわけでは無い。

 目覚める前の出来事は曖昧だが、送ってきた人生での出来事の殆どは、今でも思い出す事が出来るし、自分の名前だって、コードネームだって口にする事が出来る。しかし、それを否定するよう鏡の中の自分は、記憶とは全く違う少年の顔で此方を見詰めていた。

 あれが本当に自分なら今の自分は誰なのか。本人すらその答えを見失いかけた。

 混乱の所為で集中力を失い、部屋に接近する人間がいる事に気が付いたのは、蹴破るよう勢いよく部屋のドアが開け放たれた時だった。


「――ッ!?」


 不味いと思考が素早く浮上してくるが、蹲った身体を動かす事は出来なかった。

 現れたのは一人。軍人のような迷彩柄の戦闘服に身を包み、手にはアサルトライフルを持っている。髪の色は金で目元はゴーグルで隠しているが、身体つきや顔立ちから女性である事は予想が付いた。

 女性は警戒するよう素早く銃口を、遮蔽物など敵が隠れていそうな場所に向けてから、室内の安全を確保する。手慣れた動きから彼女がプロである事が予想され、同時にこの施設の人間ではなく、侵入者であるという事は容易に想像が出来た。

 安全は確保出来たと判断したのか、ゴーグルで隠された視線を此方に向ける。

 反射的に身じろぎをするが、熱と頭痛の所為で軽く身体が震えるに留まった。


「……くそっ。やくたたずめ」


 隠れる事も出来ない情けなさに、自分で自分に毒づく。


「…………」


 銃口を向けた状態で警戒を解かず、ゆっくりと彼女は此方に近づいてくる。

 動けないまま蹲る直ぐ側まで寄ると、彼女は無言のまま肩を掴み、強引に振り向かせるよう引っ張った。

 瞬間、振り向いた反動を利用し、隠し持っていたペンで相手の首筋を狙う。


「――ッ!?」

「っと、あぶねーな」


 が、彼女はそれを予測していたらしく、ペンを持った右手首を、ライフルの銃身部分を添えるようにして受け止めた。反対側の手で銃を奪おうと試みるが、それより早く女性は自ら銃を投げ捨てると手首を掴み、身体を持ち上げ背中を叩き付けるようにして、此方の身体を仰向けに押さえ付けられてしまった。


「――うぐっ!?」


 背中を強打された痛みに顔を顰める間もなく、腹部に息が詰まるような圧迫感を受けた。

 女性は馬乗りの形で此方に跨ったかと思うと、尻の位置を胸の方へと乗せながら、振り払えないよう腕を膝で踏まれ、完全に動きを拘束されてしまう。子供の力というのもあるが、女性自身の力も異常なほど強く、幾ら暴れても足をバタつかせてもびくともしなかった。


「くそっ、はなせっ!」


 無駄な足掻きを続けるのを無視して、女性は顎から頬を鷲掴みにすると、強引に顔を正面に向けさせ、もう一方の手で自身にゴーグルを外した。

 真上から覗き込むように、青い瞳が向けられる。

 見覚えは無い筈だが、微かに感じる違和感……既視感とでも呼ぶべきか、不意に浮かび上がったあり得ない名前が、自然と唇から零れた。


「はんな……べるん、しゅたいん?」

「……やっぱり。アンタ、ジョーカーだね?」


 問い掛けに対して問い掛けが返される。

 自身がハンナと呼んだ女性は、自分の事を聞き馴染みのあるコードネームで呼んだ。ジョーカー。姿も年齢も違う今の自分が記憶通りの人間であると、糸一本の頼りない物ではあるが確かに繋がった。


「おれがわかるのか?」

「ああ。事前に聞いてたってのもあるし、見分けられるか疑問だったけど、容赦なく殺しにかかる判断と生意気そうは目ん玉は、確かにアタシが知ってるジョーカーだ。はは、ガキの姿になっても変わらねーな」


 頬を挟んだ手を離して、ハンナは屈託なく笑う。その顔には確かに、記憶の中にあるハンナの面影を宿していた。

 何度か深呼吸をし、解すよう口を大きく開閉してから。


「……お前は随分と育ったな。近頃の子供は、一年も合わない間にグラマラスな身体つきになっちまうのかい。最後に会ったのは、ハンナが九歳の誕生日パーティだったか」

「ああ、そうだ。アンタがプレゼントにくれたリボルバーの拳銃は、今でも大切に持ってるんだぜ」

「……この一年で一体、お前に何があった?」


 真剣な問い掛けに、ハンナは少し言い辛そうに言葉を溜めた。


「何かあったのはアタシじゃない、ジョーカー。アンタの方さ」

「出来れば聞きたくないんだが、聞かなきゃならないんだろうな」


 冗談じみた返しに、強張ったハンナの表情は僅かに緩む。


「ジョーカー。今が西暦何年か言えるか」

「西暦20XX年だろ。思い出す必要も無いくらい簡単なクイズだ」

「そうだな。だが、外れだ」

「…………」

「今は西暦20XX年。ジョーカー。アンタが死んでから、もう十五年が立ってるんだ」


 漠然とした予感はあった。

 事実を知らされても、軽いジョークを交えて茶化せる余裕と度量くらいはあると、ジョーカーは自身を過大評価していたが、突き付けられた真実に自らが取れた行動は、嘘だと叫びたい感情に無理矢理蓋をして沈黙する事だけだった。


「今は無理に考えるなよ。後でゆっくり、事情を説明してやるからさ」


 ハンナはゆっくりと押し倒した身体から退き、背中と足に手を回して、ジョーカーの身体を抱きかかえる。


「……オムツを変えた事もある小娘に、介護される日がくるとはな」

「うるせぇよ。変な事を思い出すな爺……体調はどうだ?」

「最悪だ」


 間髪入れずに答えると、ハンナは「だろうな」と苦笑した。


「急いでこの施設を脱出する。大半は制圧しているけど、増援もあるかもしれないから、悪いけど詳しい事情は無事に逃げおおせてからだ」

「ああ、わかったよ」


 ため息交じりに言ってから、ジョーカーは両目を閉じる。


「んじゃ、俺は寝るからエスコートは頼んだ。到着したら起こしてくれ」

「……アタシはタクシーかなにかかよ」


 愚痴りながらも、声色には何処か嬉しげなモノが宿っているように感じ取れた。

 目覚めたら子供だったんなんて、悪い夢を見るより悪趣味だ。

 疑問は山のようにあるが、考えても解決に導ける自信は無い。頭痛が治まったかわりに今度は急激な睡魔がこみ上げてきて、ジョーカーは次目覚めたら地獄の底だったら嫌だなと軽く笑いながら、抗えぬ眠気に引きずり込まれるよう意識を手放していく。




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