第42話 もう一人の悪魔

「こいつだ」

 ティアレシアを庇うように颯爽と現れたルディが、チャドを見て言った。こいつ、というのが何を指しているのか、ティアレシアは頭では理解していたが、わかりたくなかった。

 しかし、心のどこかで否定の声を上げるティアレシアの目の前で、チャドが口を開いた。

「あなたですね、クリスティアン様の亡骸を持ち去ったのは……」

「あぁ、お前のように弱い魔力でつくられたものなど、簡単に消すことができたぜ」

 ルディが得意気に笑う。このやり取りを聞いて、チャドがクリスティアンの遺体を維持していた悪魔なのだと納得せざるを得なかった。

 エレデルトの側にいた時も、クリスティアンの側にいた時も、チャドは普通の人間だったはずだ。

 しかし、チャドは十六年前と全く変わりない姿で目の前にいる。


「本来ならば、私もこんな人間と同じような生活をする必要はないんですけどね」

「お前が弱いだけだろ」

「いえいえ、しかし……この状況はとても面白い」

 抑揚のない声で言葉を紡ぐと、広場に集まった面々、そして審議の間にいたフランツとブラットリーを見て笑った。

「チャド様、何故あなたがここにいるのですか」

 フランツは驚愕の表情を浮かべる。そして、ティアレシアの側に来て剣を構える。

「エレデルト様の代から、若作りだとは思ってたが、まさか歳をとらねぇなんて言わねぇよな」

 十六年前、チャドと同年代だったブラットリーが苦笑を浮かべる。

「ブラットリー、老けましたね。それもそうか。もう十六年も経ったのですね。あなた達が大切に守っていた姫君が亡くなってから」

 昔を懐かしむような口調だったが、そこにチャドの感情は全く入っていなかった。

「お前も、クリスティアン様を可愛がっていただろうが!」

 ブラットリーの怒鳴り声が響き、チャドは少し顔をしかめた。

「相変わらず、うるさい人だ。たしかに、私もクリスティアン様のことが大切でしたよ。でもね、皆から愛されるクリスティアン様ではなく、最も孤独で、最も愛に飢えている憐れな王女に呼び出されて、私は自分の本来の役目を思い出したのですよ」

 チャドがそう言った直後、ルディが素早く動いてフランツとブラットリーを地面に転がした。彼らがさきほどまで立っていた空間には、禍々しい黒い斬り目が入っていた。ルディが険しい顔でチャドを睨んでいる。

 チャドの後ろには、床に座り込むシュリーロッドの姿が見える。彼女には、チャドの言葉など耳に入っていない。ただ、恨み言を延々吐き続けている。ふと隣を見ると、先程まで笑顔を浮かべて立っていたセドリックがいなくなっていた。下を見ると、気を失って倒れているセドリックがいる。ティアレシアは本当に頼りにならない男だと内心呆れていると、急にルディの顔が目の前に現れた。

「悪ぃが、頂くぜ」

 何を、と言う前に彼の唇がティアレシアのそれに押し当てられる。はじめの抵抗も虚しく、公衆の面前でのキスを受け入れてしまう。それが単なる悪ふざけではなく、悪魔であるチャドを止めるために必要なことだと思うから、ティアレシアも大人しくしていた。

 熱いルディの舌が口内に入り込んで来て、ティアレシアの舌を絡め取る。それはあまりに情熱的で、ティアレシアの思考を奪おうとする。ふわりと身体の力が抜け、立っていられなくなったティアレシアの身体をルディが片腕で支えた。


「少し多めにもらい過ぎたか」

 全く悪びれもせず、ルディがにやりと笑う。

 そして、ルディを睨むティアレシアの瞼に軽くキスを落とした。チャドに向き直ったルディは、ティアレシアの身体をフランツに預けた。

「見せつけてくれますね。しかし、そうですか……ティアレシア嬢の中に魔力を溜めていたんですか」

「羨ましいだろ。お前も、その女から奪えばいいじゃねぇか」

 ルディは顎でシュリーロッドを示す。

「彼女は利用できるだけであって、私の好みではないのですよ」

「なるほどな」

「ではそろそろ、主の命を遂行しましょうか」

「俺も、お前を止めなきゃならねぇ」

 互いに笑みを交わした悪魔二人は、人間の目では追いつけない速さでぶつかり合った。それは拳なのか、魔力のぶつかり合いなのか、ティアレシアには判断できない。

 しかし、ティアレシアには何か嫌な予感がしていた。ここでルディがチャドを止めて、それで終わるはずだ。

 すべては思い通りに進んでいるのに、不安が襲う。

「ティアレシア様?」

 身体を支えているフランツが、ティアレシアの顔を心配そうに覗き込む。フランツとて、目の前で起きている戦いに理解が及ばずに険しい顔をしていたというのに、ティアレシアを気遣ってくれる。彼が忠誠を誓ったクリスティアンではなくともこうして守ってくれる。

 ブラットリーはいち早く只ならぬ気配を感じて広場に集まった者たちに逃げるよう指示を出している。悪魔の存在など信じないだろうが、ブラットリーの長年の勘が彼を動かしているのだ。ベルゼンツとヴァルトもその誘導に加わり、徐々に人々は広場からいなくなっていく。彼らのおかげで、シュリーロッドに対する革命は成功した。しかし、往生際が悪いシュリーロッドは悪魔の力ですべてを無に返そうとしている。

 悪魔であるチャドを行使しているのは、シュリーロッドのはずだ。チャドは本来の力が出せていないような口ぶりだった。本来の力が出せていないのはルディも同じだが、彼はティアレシアを通して魔力の補給ができる。では、チャドの本来の魔力はどこにあるのか。それが分かれば、彼を止められるかもしれない。先程の口ぶりでは、チャドもシュリーロッドを利用しようとしているようだった。

(チャドの目的は、一体何なの?)


 ゴォォォ……と凄まじい地鳴りが響いた。地の底から這いあがってくるような、恐ろしい悲鳴にも似たその音は、ティアレシアたちのいる地上を大きく震わせている。

「ふふふ、そうよ。こんな世界、一度滅んでしまえばいいのよ。そして、わたくしのためだけの世界を創りましょう!」

 狂ったように笑い出したのは、完全に正気を失っているシュリーロッドだった。金色の髪を振り乱し、血のように赤い唇で言葉を紡ぐ。その言葉で、ふとティアレシアはつい先日父エレデルトが夢に出て来て言った言葉を思い出した。


『人々が血を流し、天に悲しい悲鳴が届く時、その加護は失われる。そして、力を失っていた悪魔が力を取り戻し、この世界は滅ぶだろう』

 たしか、ブロッキア王国をはじめとする国々が信仰しているレミーア神の加護についての話だった。しかし今ティアレシアが引っかかったのはレミーア神の加護を求めることではなく、「力を失っていた悪魔」についてだった。チャドは、本来の力が出せず、人間として生活している悪魔だ。

(もしかすると、何らかの方法で封印されていたの?)

 悪魔としての魔力が封印され、チャドは人間のように振る舞いながら封印が解かれるのをずっと待っていたのかもしれない。だとすれば、悪魔であるチャドの本体は悪魔が近寄れない場所であるはずだ。ティアレシアは短い間に必死で考える。父の言葉をヒントにして、悪魔を封印するに相応しい場所を。

(天に悲しい悲鳴が届く時……)

 そういえば、とティアレシアは顔を上げる。

「フランツ、娼婦たちが見つかった場所って……」

「たしか、聖レミーア大聖堂です」

「あぁ、なんてこと。こうしちゃいられないわ!」

 ティアレシアは慌てて駆け出そうとするが、ルディに魔力を与えたために身体に力が入らない。フランツを悪魔の件に巻き込むのは気が引けたが、ここまで巻き込んでおいて今更かもしれない。

「フランツ、信じられないかもしれないけど、悪魔の封印が解けはじめているわ。このままでは、この世界は終わるかもしれない。私に力を貸して頂戴」

「もちろんです」

 力強くフランツが頷き、ティアレシアの身体を抱えてくれる。行く先は、王城グリンベルの西にある聖レミーア大聖堂。そこは、シュリーロッドの嫉妬心によって痛めつけられた娼婦たちが捕らえられていた場所だ。神聖な神の守護の下、悪魔は封印されていたのだろう。

(シュリーロッドは、心の弱さを悪魔に利用されたのかもしれないわね)

 同情などさらさらする気はない。ティアレシアは、シュリーロッドのせいでややこしくなったことに苛立っていた。


「行かせないわ。わたくしは自分のために悪魔と契約を結んだの。利用された訳ではないわ。だってね、主導権はわたくしにあるのよ。封印はもうすぐ解けるでしょうね」

 シュリーロッドは自分の腕を見せつけた。その白い肌には、黒い蛇の入れ墨がくっきりと入っていた。その入れ墨は、ただの入れ墨ではなく、シュリーロッドの肌の上を蠢いている。それが、シュリーロッドの悪魔との契約なのかもしれない。

 もう理性など残っていないと思っていたのに、案外シュリーロッドは冷静だった。

 ティアレシアはそんなシュリーロッドを冷ややかに見つめて、言い放つ。


「誰もあなたにはついていかないわ。契約をした悪魔でさえ、あなたを守りはしない」

 フランツの腕から飛び出して、ティアレシアはシュリーロッドの傷ひとつない頬におもいきり平手打ちをお見舞いした。パチン、という小気味いい音がして、シュリーロッドは地面に倒れ込んだ。

「それが、叩かれる痛みよ」

 そして、ティアレシアは頬を抑えて震えるシュリーロッドに覆いかぶさった。

「あなたは何も分かっていない……本当に、憐れなお義姉様」

 シュリーロッドの耳元で優しく囁いて、ティアレシアはその場を離れた。まだ、近くではルディとチャドがやり合っている。

 今はルディが押しているが、封印が完全に解かれればどうなるか分からない。

 ティアレシアはフランツの手を借りて、急いで大聖堂へと向かった。

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