第2話 バーバ・ヤガーの家の朝

 朝方、ニャオがカリカリと部屋の引き戸を引っ掻く音で目が覚めた。眠いけれど、ニャオはわたしの眠さを上回るくらいお腹が空いているようだった。仕方なく、毛布から出て引き戸を開いた。ニャオは大急ぎで廊下を走っていく。

 ひんやりとした朝だった。耳に包丁の音がとんとんとん、と響き、ああ、ここはすみちゃんの家なのだ、とやっと気づいた。寝ぼけていた気分がすっかり去った。わたしは立ち上がり、身支度を始めた。台所の横の洗面所に顔を洗いに行くと、すみちゃんが気づいて手を振った。台所の引き戸は開け放たれていて、食べ物のいい匂いがこちらに漂ってくる。

「おはよー」

 と、すみちゃんは笑った。髪は一つにまとめられ、今日は低い位置から垂らしてある。ニャオは台所の床で、一足早く朝食に舌鼓を打っていた。

「すみちゃん、手伝うよ」

 わたしが慌てて言うと、すみちゃんは、ほんと? と顔を輝かせた。家でもよく手伝いをするのだ。すみちゃんの家では居候なのだから、やりたい。

 顔を洗ってからすみちゃんの横に立ち、茹でたオクラを切る。ねばっとした中身が手に着くのはあんまり好きではないけれど、おいしい朝食のためだ。我慢をする。すみちゃんは味噌汁の準備をしている。シンクに置かれたものを見るに、昆布から出汁を取った、わたしにとっては特別なやつだ。どうやら揚げ豆腐とネギの味噌汁のようだ。すみちゃんが使う味噌はおいしくて、スーパーで売っているのとは違うのだそうだ。ママも一時期使っていたけれど、取り寄せる手間が面倒でやめてしまっていた。

 切ったオクラをゴマや醤油などと混ぜて、わたしの料理はこれで終わりだ。すみちゃんも味噌汁の火を止め、グリルを開いてうなずいた。どうやら食事の準備は終わったようだ。わたしは二人分のご飯を茶碗によそった。わたしは茶碗半分、すみちゃんは茶碗の七割。二人とも、少食だ。

 いただきますを言って、アジの開きを食べる。骨のある魚は食べつけないけれど、すみちゃんが焼いたアジはおいしい。口の中で甘味がとろける。味噌汁も、わたしが作ったオクラの和え物も、全部おいしい。

 すみちゃんは、しばらくぼうっと何かを考えていた。じっと見ると、すみちゃんは気づいてわたしにおずおずとこう言った。

「デッサンのね、モデルになってほしいんだけど……」

 わたしは驚き、しばらく考え、慎重にうなずいた。そんなわたしを見て、すみちゃんは大慌てで手を振った。

「大丈夫だよ。デッサンって、習作だし。本番の絵じゃないよ。絵が下手くそにならないように毎朝描いてるんだけど、ニャオや静物もちょっと飽きたかなって」

 ニャオがすみちゃんの足元にやってきて、三毛の毛をすりつけた。わたしたちは笑った。まるでニャオが「飽きたなんて言わせませんよ」と言っているみたい。

「いいよ。わたし、じっとしてるのはどうかなって思っただけ」

 わたしが言うと、すみちゃんはほっとしたように笑った。

 すみちゃんは、毎朝三十分ほどデッサンの時間を取るのだ。すみちゃんはイラストレーターで、絵本の挿絵もやっているから子供の絵をよく描く。だからわたしで練習したいのだろう。

 すみちゃんの絵は、不思議な絵だ。水彩画で、光と闇がくっきりとしている。闇は真っ黒ではなく、藍色で表され、子供はその中に佇んでいる。寂しそうな、孤独に怯えているような目でこちらを見つめている。

 すみちゃんの絵は、少しだけ人気があって、暮らしていけるだけの仕事をもらえているのだと、ママは言っていた。

「三十分だから、そんなにかからないよ」

 すみちゃんは機嫌よくオクラの和え物を口に入れた。そんなとき、玄関から声が聞こえてきた。聞いたことのあるおばあさんの大声で、「寿美子さーん」とすみちゃんを呼んでいる。すみちゃんは、「あ、都築さんのおばあちゃん」とつぶやき、大慌てで台所から走り出た。わたしは一人、耳を澄ませながら自分のご飯を食べる。

「今日なってたの。最後のピーマン! 食べてね」

「ありがとうございますー!」

「元気?」

「元気ですよー、皆さんのお陰で」

「それはよかった。わたしなんか、最近腰も痛いし、目も見えなくなってたからもう死ぬかもしれない」

「そんなこと言わないでください。都築さんは元気ですよ」

「でもこの間病院でね……」

 それから、都築さんはずっと自分の持病の話をした。すみちゃんは聞き役に徹し、相づちを打つ。田舎に住むのも大変だなあ、と思う。こんなに朝早く、近所の人がやってきて玄関の扉を開け、自分を呼び、話をする。とても面倒だ。でも、すみちゃんはここに住むことにしたのだ。そういうのが好きなのかもしれない。

 ご飯を食べ終え、茶碗を洗っていると、すみちゃんは疲れた顔で戻ってきた。

「都築さんのおしゃべり、長いー」

「断ればいいのに」

 すみちゃんは困った顔でわたしを見る。

「新聞の勧誘じゃないんだよ。気を遣って来てくれてるんだし、無下にはできないよ」

 気を遣って? わたしは首を傾げたが、すみちゃんはわたしも疑問を晴らす気はないらしく、再び自分のご飯を食べ始めた。テーブルのわたしがいた場所にはビニール袋に入ったピーマンが載っていて、転がり出たピーマンは黄色や赤が混じる緑色をしていた。

     *

 すみちゃんと一緒に、庭に出る。一通り植物の状態を見て、虫や病気で傷んだ植物の手当てをして、庭をほうきで掃いて枯れた葉っぱなどを掃除した。庭の隅の鉢植えコーナーに行き、土を触って乾いていたら大きなじょうろで水をやった。鉢植えの下からは、どくどくと水が溢れてくる。

 きれいになった庭を見渡し、ハーブやバラの香りでかぐわしい中、すみちゃんは背の低い脚立を持ってきた。わたしは野外用らしい木製の粗末な椅子に座り、片ひざを両手で抱え込むポーズを取る。すみちゃんは脚立に座り、デッサンノートに鉛筆を走らせ始めた。

 自分を無言でじっと見られているのも、絵に描かれるのも、慣れない。すみちゃんはいつもとは別人みたいに、鋭い目でわたしを見つめ、描く。どう描かれているのかわからない。かわいく描いてくれるかな、なんて最初は思っていたけれど、今はそんなことはどうでもよく、早く逃げたいという気持ちでいっぱいだった。すみちゃんは描く時間よりも見る時間のほうが長い。目が合っているようで合っていない今の感じは、ひどく居心地が悪い。

 ポーズが変えられた。わたしは少しすみちゃんに近づいた。顔を描きたいということだった。それも何だかやだなあ、と思いながらも横顔をすみちゃんに向ける。すみちゃんの鉛筆の音が、しゃっ、しゃっと聞こえてくる。

 気づけば、すみちゃんは手を止め、道具類を片づけ、にっこり笑いながらこちらを見ていた。

「ありがとー。終わりだよ」

「うまく描けた?」

「うん、まあまあ」

 すみちゃんがデッサンを見せてくれたので、わたしは駆け寄って見た。何だか黒い絵、と思うけれど、これがデッサンというものなのだろう。陰影がくっきりと描かれ、わたしの頬のてっぺんは白い画用紙のままで、影となった部分は思っているよりも黒く濃く塗ってある。わたしにそっくりのその女の子は、遠くを見つめ、今にも振り向きそうだった。そっくりなのに、別の人間を見るようで怖かった。

「上手いね」

「ありがとー」

 すみちゃんはわたしの心のこもらない褒め言葉に大して喜ぶ様子もなく、デッサンノートを閉じた。すみちゃんって、絵を描くことで魔術を使ってるんだろうな、と思う。そうじゃないと、あの怖さは説明できない。

「しばらく絵を描いて、お昼を済ませたら、図書館に行こうか」

 すみちゃんはわたしに笑いかけた。わたしは霧が晴れたような気分になって、うん、と大きくうなずいた。

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