第九章 飛行機とか重力とか、黙れ

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 早朝、煙水家を訪ねて鍵を手に入れた鎌倉は、飛行機に興味を持った大学の年下の同級生、久米田と小澤の二名を招集し、八幡山へ登った。

 煙水花火商会の花火工場の倉庫にビニールシートを掛けられて保管されていた飛行機鎌倉・零式を外へと運び出し、煙水花火商会事務所から電源を引いて、さっそく整備に取り掛かる。製造から約三年の月日が経過しているにも拘わらず、故障や損傷部分は少なく、劣化した部品は全て、煙水中が切削した部品で代用が利くものだった。

「今、何時だ?」

 鎌倉は久米田、小澤に聞いた。久米田は流れ続ける汗を拭い、真上でギラギラと照る太陽を睨み付けて「えーと、お昼ぐらいじゃないですかね。太陽が高い位置にあるし」と、すこぶる適当に答える。腕時計を見た小澤が一拍遅れて「えっと、十二時三十分です。作業開始が午前六時三十分だったんで、約六時間が経過してますよ」と続けた。

 なんだ、もうそんな時間か。どうりで頭と背中がメチャクソに暑いと思ったぜ。トマトの湯剥きみたく、暑さで皮がベロンと捲れてるみてぇに、やたらヒリヒリしやがる。

 鎌倉は首に巻いたタオルで汗を拭い、ペットボトルの水を飲み、残りを頭から被った。

 青いビニールシートの上で三・五メートルもの長さを持つ主翼を広げる《鎌倉・零式》を睨み付け、ぽつりと零す。

「お前、もうちっと、簡単に飛べねえかなぁ。主翼なし、スイッチ一つで、ビューンってよ」

《鎌倉・零式》の主翼には、胴体に一基、右左翼に各二基ずつの、プロペラ・エンジンを搭載するための窪みがある。

 鎌倉たちは午前中で、窪み部分も含む機体に生じた亀裂などの損傷部分をベニヤやバルサ材や接着剤などを使用して修理を行い、主翼や尾翼などの動きの確認を終えた。昼からは機体にモーターを固定し、プロペラを取り付けて駆動させるベンチ・テスト作業に流れ込む。ベンチ・テストでは、モーターの回転数、機体に搭載したバッテリーの電圧と電流を計測し、実際の性能を確認する。

 鎌倉は《鎌倉・零式》の正面に回り込んで、しゃがんだ。胴体のプロペラを人差し指でくるくると回しながら呟く。

「プロペラじゃなくてよ、もっと、マッハでかっ飛ぶ、便利な設計にすりゃあ良かったなぁ」

 久米田が垂直尾翼の方向舵を動かしながら「そうなると、飛行機じゃなくて、もはやロケットです」と笑う。久米田は帽子代わりに被ったタオルを取ると、両手で掴んで胸の前に広げ、熱弁を振るう。

「鎌倉さん、飛行機っていうのはね、抗力、重力、推力、揚力の上に、微妙なバランスで成り立っているんです。それに、翼の大きさ、つまり翼面積や、速度、空気の密度などの要素が関係してくる。いわば空に憧れる人間の芸術ですね、芸術。スイッチ一つで飛べたら、そりゃあ便利かもしれませんけど、ロマンがゼロじゃないですか」

 なぁにが、空に憧れる人間の芸術だ。てめえに都合いいように解釈しやがって。そもそも飛行機は、空が飛べたほうが便利だから開発されたんだ。物資の輸送や人の往来をクソ便利にして、鼻血が噴き出るくらい金儲けしようってぇ魂胆が根底に有るんだよ。芸術やロマンだぁ? くっだらねえ。芸術やロマンじゃ、飛行機は飛ばねえし、飯は食えねえっての。

 鎌倉は久米田の脇腹を軽く蹴り、肩を竦めた。

「口を動かすくらいなら、手え動かせ。機械弄りのマスターベーションしか興味がねえ貧乏苦学生のてめえらに、今回の作業で、いくら時給を支払ってやってると思ってんだ?」

 小澤が《鎌倉・零式》の胴体にモーターを固定するためのプレートを、ビスで取り付けながら、右手を挙げる。

「えーっと、最高にテンション上がる飛行機を弄らせてやるから、タダで手伝えって、朝五時集合で俺らに召集を懸けたの、鎌倉さんです」

 え? あ、そう? 俺、そんなこと、言った? あっそう、お前ら、タダで手伝ってくれてんの。へえ、お前ら二人いい奴だな。いい奴だけど、時給は払わないからな、決して!

 鎌倉は久米田と小澤の肩をポンと軽く叩き、へらへらと笑って、愛想を振り撒く。

「お前らが来てくれて、本当、心強いよ。俺一人だったら、孤独で自害してた、うん、確実自害! やっぱ、飛行機って芸術とマロンだよな!」

 久米田が蹴られた脇腹を擦りながら、鎌倉をじとっと睨み、呟く。

「ま、いいですけどね。タダ働きでも、蹴られても、収穫は、かなりあったし」

 久米田の言葉に小澤も同意し、取り付けた《プレート》にモーターを固定しながら深く頷いた。

「俺らにとってはね、この飛行機が収穫物なんですよ。いや、正直、鎌倉さんに呼ばれて倉庫を開けて、この飛行機を見るまでは、高校生が作った飛行機なんて、小型ラジコンに毛が生えた程度だなぁとしか思ってなくて、期待してなかったんですけどね」

 鎌倉は首に巻いたタオルを解き、両手でギュッと絞った。タオルに滲み込んだ汗と水を地面にぽたぽたと落としながら、耳を傾ける。

 あのな、お前ら。小型ラジコンって、当たり前だろ。《鎌倉・零式》は、バカデカイ電動ラジコンなんだからな。モーターとプロペラ見りゃあ、一発で分かんじゃねえか。しかも、なんだよ「小型ラジコンに毛が生えた」って。え、ラジコンって、毛ぇ生えるの? むしろ、そっちのほうが凄くね?

 久米田が目を輝かせながら「はいはいはいっ」と、小学生のガキのように手を挙げて、小澤に意見を被せる。

「俺も、びっくりしたんですよ。この飛行機と一緒に、設計図が何十枚も残ってたでしょ? それがまた、凄いんですよ、とにかく緻密で、高揚力の確保のために主翼にファウラー・フラップまで設計されてて、骨組みは主に木材なんですけど、ファウラー・フラップのところが、アルミ製の細かい歯車が噛み合って稼働する仕組みになってるんですよ!」

 仕組みになってるんですよ、って当たり前じゃねえか。そういう仕組みなってるから、この《鎌倉・零式》が飛んだんだろ? あー、とうとう、暑さで脳ミソ沸いたか。

 鎌倉は持ち込んだクーラー・ボックスから、冷えたペットボトルを取り出し、首の付け根に当てる。

 久米田が言うファウラー・フラップとは、主翼後縁側の下面に内蔵されている、高い揚力を確保するための装置だ。動作時に斜め後ろに伸び、気流を逃がし、翼面積に伸び代を与える効果を持ち、高い揚力を確保することができる。離陸時になるべく短い滑走距離で離陸させ、着陸時、なるべく低い速度で着陸させることができ、帝国陸軍の四式戦闘機疾風にも用いられていた。

 鎌倉は絞ったタオルを首に巻き直し、首を冷やしていたペットボトルを、汗を滴らせながら、満面の笑みで《鎌倉・零式》の素晴らしさを語る久米田に向かって放った。

「冷やせ、冷やせ。ちっとの暑さで、脳ミソ沸きやがって。これだから、貧弱大学生は困らぁな。俺にはな、お前らが発情期の猫みたく、《鎌倉・零式》のことをフンフン、ヤイヤイ言ってる意味が、さーっぱり分かんねえ」

 久米田はペットボトルの蓋を捩じ切り、水を頭から被る。

「いや、ですからね、凄いんですよ! 分かりませんか? だってこれ、電動ラジコンですよ。ガソリンじゃなく、電動!」

 だ、か、ら、電動ラジコンって、さっきから言ってんだろ。ガソリンだったら、ガソリン・ラジコンって言うっつうの。《鎌倉・零式》は、電動なの。ロボコンの規定がそうなってたから、規定に従ったまでなのぉ。もしも、ロボコンの規定が「核、使用」だったら、核ラジコン作るっつうの。分かんねえかな、お前も! 

 鎌倉は地面に茂る雑草をブチブチと引っこ抜きながら、苛立った口調で怒鳴り返す。

「さっきから、当たり前のことばっか言うんじゃねえよ。てめえが言いてえのは、禅問答か? 持ってる鞭でひっぱたこうとしてる馬の顔が、両親の顔だったら叩けるか、っつう、仙人様の禅問答なのか? ああん?」

 鎌倉はクーラー・ボックスから冷却ジェルシートを取り出し、封を開けて額に貼った。残りを小澤に投げる。

 おい、小澤! お前、久米田になんか言ってやれ。日本語を学べ、クソヤローとか。

 小澤は受け取った冷却ジェルシートを地面に置き、汗を拭いながら、切々と鎌倉に《鎌倉・零式》の魅力を訴え始めた。

「鎌倉さん、凄いことなんです。一から起こした図面は完璧で、電動ラジコンにも拘わらず、三・五メートルの大きさを持つ主翼は安定している。とことん軽量化された機体と部品、どれも神業だ。併せて、飛距離だって結果が出ている。電源に至っては、リチウム・イオンポリマー二次電池という、的確な選択じゃあないですか!」

 お、ま、え、も、か! なんだよ、結局、なにが言いたいんだよ。だらだらだらだら、当たり前のことばっか、並べ立てやがって! 《リチウム・イオンポリマー二次電池》は、パワーが強いの。地球は丸いの。砂糖は甘いの。夏は暑くて、飛行機は空ぁ飛ぶから飛行機なの。馬っ鹿じゃないのぉ! 俺のほうが、脳ミソ融けそうだわ!

 鎌倉は、クーラー・ボックスの縁を両手で掴み、氷が解けて中に溜まった水を、ザバッと被った。空になったクーラー・ボックスを崖の下へと投げ捨て、叫ぶ。

「俺が鎌倉・零式の全部を考えて、てめえらが言うような仕様で作らせたんだから、当たり前だろ。喋ってねえで、手え動かせ!」

 お前らに、いってえ、いくらの時給を払ってると思って……。まあ、タダ働きだけど、俺はしっかりと煙水のクッソ眼鏡に報酬貰ってんだからな! 俺は、貰った報酬分の仕事は後腐れねえように、シッカリ・キッカリ・バーッチリこなすんだよ! 飛行機の仕様になんぞ、変態チックに欲情してねえで、俺の作業を黙って手伝えって!

 濡れた地面の上で地団駄を踏む鎌倉を、久米田が宥め、小澤が説く。

「いや、ですからぁ、つまり、高校三年生で、この飛行機を作り出せる鎌倉さんは、天才ってことなんですって」

 知らねえよ。天才でも狂人でも、馬鹿でも阿呆でも頓馬でも、俺のヒエラルキー最上ランクは、いつだって金持ちだ。

 ついでに言うと、俺は天才じゃねえ。高校時代はアフロのモジャモジャのジミヘンっつうセンコーが、俺のことを「ロボコンの鬼」って呼んでたからな。

「おら、さっさと作業開始っ。もたもたすんな。まだまだ、やるこたぁ、山ほどあんだ」

 鎌倉は宥める久米田の脛を蹴飛ばし、小澤の頭を叩いて、踵を返した。

 泥で汚れたスニーカーで、木陰に置いてあるダンボール箱を軽く蹴り、指を差すと、揃って首を傾げる久米田と小澤に、鎌倉は提案する。

「この箱ん中に、落下傘花火が入ってんだ。飛行機から打ち上げる仕組みを、夕方までに作るぞ」

 久米田と小澤が合わせて「鬼!」と叫び、鎌倉は笑う。

 そうだよ。俺は、鬼のほうが性に合ってるんだよ。天才っつうのは、とどのつまり、究極の人格者だ。

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 野外ライブに必要なアンプなどの音響装置を準備するため、辻村とアイロン・ワークスは練習用の楽器やアンプを積んだ台車と共に、浅間通り商店街の大鳥居前で、ジミヘンが運転するトラックを降りた。

 大祭当日を迎えた浅間通り商店街は、予想以上の集客で賑わっていた。アーケードには掻き氷やリンゴ飴など、様々な露店が並び、商店街の店舗が軒先に店を広げる。歩行者天国になった車道では、大道芸人たちがところ狭しとパフォーマンスを繰り広げて、観客の拍手喝采を浴びていた。

 トラックの荷台に乗っていたミヤコは、毛布を被って身を隠した状態で、辻村に拳を掲げる。

「音響、頼んだぜっ」

 辻村は上機嫌な猫のように目を細めて笑い「本業ですからね、お任せください」とブイサインで返す。アイロン・ワークスも、ミヤコの言っている言葉の意味が理解できたようだ。ギュッと強く握った拳を、ミヤコに向かって掲げた。

 言ってることは、やっぱり全然、これっぽっちも分かんねえや。でも、言いたいことなら、分かるぜ。ああ、頑張る。だからアイロン・ワークスよ、お前らも頑張れってんだ!

 トラックは、大鳥居前を離れ、ステージのパーツと酸素ボンベやアセチレン・ボンベなどの熔接器具を荷台に積んだ状態で、浅間神社を迂回した。

 浅間神社の東側に位置する、長谷通りの石鳥居前に停車。ミヤコは被っていた毛布を投げ捨てて、荷台から飛び降りる。

「ワタセン、さっさと降りて手伝えっ。後続の車が詰まっちまう! パーツとボンベ、熔接器具一式を社務所前に運び込むぞ!」

 ミヤコが助手席に声を掛けると、返事が後ろから聞こえた。振り返ると、ワタセンが手押し車を地面に置き、熔接器具一式が入った布袋を肩から下げて待っていた。ワタセンはミヤコに怯えながらも、やや震えが止まった口調で聞く。

「ボンベと熔接器具は社務所の玄関前に置いて、熔接作業は舞殿での神楽奉納が終わってから随時、でいいんだよね?」

 お、なんだ、なんだ? ワタセンめ、急にしっかりと喋れるようになりやがった。……どうした、なにがあった? 新手のカルト宗教か? それとも謎の啓発セミナーか? 変なブレスレットとかペンダントとか、付けてねえだろうな、おい。

 ミヤコはジロジロとワタセンを観察した。だが、これと言って変わった様子は見当たらない。

 ワタセンはミヤコの視線に気付き、ぎこちなく笑い、頭を掻く。

「そんなにビックリしないでおくれよ。いやさ、ミヤコくんたちの頑張る姿を見てたら、感動してさ。僕もしっかりしなきゃなぁ、って思って」

 いまさら? お前、アタシの担任を三年間も務めて、いまさら? つうか、ワタセンは教える側の人間だろ? てめえが、アタシたちに触発されて、どうすんだよ、気持ち悪ぃな……。

 ミヤコはワタセンの発言に戸惑いながらも、トラックの荷台から酸素ボンベとアセチレン・ボンベを両脇に抱えて飛び降りた。ワタセンが支える手押し車に、どっかと載せる。ワタセンは、二本のボンベにゴムバンドを掛け、しっかりと固定しようとした。ところが、力を入れ過ぎて手からゴムバンドが抜け、バチツと顔に跳ね返った。

 ワタセンは泣きべそを掻きながら、両手で鼻を擦った。鼻血が出ていないか、確認している。神経質に確認しているところに、バランスを失った手押し車が、脇腹を目がけて倒れ込んだ。見事に二本のボンベと手押し車の下敷きになったワタセンの状況を見て、ミヤコは思わず拳を握り、ガッツポーズを取った。

 おお、ゲロ以下、ダッセエ! いつものトロくせえ、ワタセンだ! するってえと、今さっきの、ほんの一瞬だけテキパキ動いたのは、暑さのせいだな。よし、いつもの泣き虫ワタセンが戻ってきたぜ。これでこそ、鍛え甲斐があるってもんだ!

「なぁにやってんだ、ワタセン。さっさとボンベ拾って、固定して、走れぃっ」

 ミヤコは再び荷台に飛び乗った。残り二本ずつの酸素ボンベとアセチレン・ボンベを運び、送り出す。ワタセンは転がったボンベを拾い、荷台から追加のボンベを受け取り、よたよた、よろけながら、一本ずつ地面に置いていく。「ふう」と一息ついてから、ボンベを持ち上げ、のろのろと手押し車に積み込む。ゴムバンドの反発を恐れながら、おどおどと固定する。

 ミヤコは、ステージのパーツを入れた十個の布袋を地面に置いた。降ろし忘れた工具や部品がないかを指差し確認して、荷台から飛び降りる。ワタセンの尻に軽く回し蹴りを食らわせ、運転席に駆け足で回り込みながら、運転席のジミヘンに声を掛ける。

「ジミヘン、荷降ろし完了。トラック、出してくれ。静工に帰って、一年坊主を解散させたら、舞殿に来てくれよ。待ってるからっ」

 ジミヘンは運転席のサイドウィンドウを全開にして、肩で息をするミヤコと視線を合わせた。デジタル盤の腕時計を人差し指でコツコツと叩き、しっかりとした口調で諭す。

「時間が限られているからといって、浮足立つんじゃないぞ。熔接・熔断の鬼。最後の熔接作業が終わるまでが、熔接だ」

 そりゃ、遠足だ。しかも、時間が限られてるつっても、十七時の神楽奉納が終わるまで、あと一時間三十分も有るんだぜ。準備時間としては、焦るほど少なくねえし、間延びするほど多くもねえピッタリの時間帯だ。……でも、ま、そうだよな、分かってる。アタシは、熔接と出会ってから約三年間、最後の最後で気ぃ抜いて火傷した経験ばっかりだもんな。両手両足で数えても足りないほどで、てめえの馬鹿さ加減には散々、愛想を尽かした。だから、最後まで油断はしねえさ。

 アタシに任せな。頭の中に響くロックンロールに最後まで耳を澄ませるよ。

 ミヤコは顎を引き、ジミヘンの目を見て、拳で胸の中心を叩いて見せた。

「ああ、ジミヘンが教えてくれたよな。工業において、最も大切なことは、片付けが終わるまで油断しないこと、だって」

 ジミヘンは白い歯を見せてニッと笑い、ミヤコの頭を鷲掴みにして左右に振った。

 クラクションを蒸気機関車の汽笛のようにパーッと鳴らし、一気にアクセルを踏み込む。

        3

 浅間通り商店街は、とにかく賑わっている。

 天気がすこぶる良いせいか、喉の渇きを潤そうと、掻き氷やラムネを扱う露店には絶えず行列ができ、行列を諦めた人々は店舗に入って涼を取っている。午後三時を過ぎて小腹が空き始めたのか、たこ焼きやお好み焼きなどの粉物を扱う露店や惣菜屋にも、行列が形成され始めた。金魚掬いやヨーヨー釣り、輪投げなどの商店街振興組合が企画したアトラクションも、大盛況の様子だ。なにより、車道やアーケードで華麗にパフォーマンスを繰り広げる大道芸人たちが、集客の起爆剤となっている様子で、大道芸人たちの周辺にできた大きな人だかりは、気象衛星で捉えた台風の如く、渦巻いている。

 辻村とアイロン・ワークスは、浅間通り商店街の人混みに頭を下げながら《ミセス・ロビンソン》の店内に入った。

 防音壁に囲まれた店内は、靴音が響くほど静かだった。空調は、焼けた肌を心地よく冷やす強さで、絶えず送風を続けている。

 辻村は店の扉を閉めて、外の音を全て遮ると、アイロン・ワークスに視線を投げ掛け、目を細くして咽るように笑った。笑われる理由が分からないといった表情で首を傾げたアイロン・ワークスに、目の下の柔らかい皮膚の部分を人差し指でなぞりながら、辻村は語り掛けた。

「皆さん、ひどい隈ですねえ」

 彫りが深いと、こうも顕著にお顔に現れるものなんですね。彫りの浅い僕とは大違い、文字通り、歌舞伎の隈取りみたいですよ。

 まあ、夜通しずーっと演奏の練習をされていれば、無理もないでしょうね。夜通し、ロックンロールの生演奏をBGMに作業をするのは、なかなか風流でしたがね。

 辻村はカウンター・テーブルの上に寝かせてあるロイドのベースに優しく触れた。ダニーが「オッ!」と声を上げてベースを指差し、アイロン・ワークスはカウンター席に駆け寄った。

 辻村は鷹揚に頷きながら、亀裂が入ったヘッドとネックの繋ぎ目を固定する万力を静かに外し、テーブルの上へ。顔をぐっと近づけて、接着部分の歪みの有無を注視した。指の腹で、歪みに加え、繋ぎ目がしっかりと接着されて、目立った凹凸がないかを確認する。

 よし、読み通り。ベースは亀裂が浅かったので、丸一日ここに置いただけで、しっかりと接着されましたね。歪みも、強度も問題なさそうです。

 辻村は、隣で眉を顰めながら長身の体をそわそわと揺らすダニーの肩を叩く。

「大丈夫ですよ。ダニーさんのベースは、退院できます」

 ダニーは無理に聞き取ろうとしない。辻村の表情をじっと観察して、言葉の意味を読み取る。辻村がベースを指差してダニーにっこりと笑い掛けると、ダニーは表情をパッと明るくした。ベースと辻村を交互に見るダニーに、辻村が深く頷いてみせると、ロイドとエリックと、肩を組んで喜び合った。

 おや、どうやら伝わったようですね。三人とも、嬉しそうにピョンピョン跳ねて、まるで犬のようですね。まあ、外国人さんでも、犬でも、言葉が通じなくとも、一つの物事を一つの方向に動かそうとする意志あれば、どうにかなるものです。

 バンドを転がる石に例えるのだとすれば、機械設計上は、物体に対する回転の動きですから、意志すなわち《力のモーメント》といったところでしょうか。

 辻村は、ダニーにベースを預け、カウンター席奥の収納棚へ。

 工具箱とペグ、ベースのセット弦を数種類ほど調達し、両手に抱えて、カウンター・テーブルの上へ静かに置いた。工具箱を開けて、ドライバーを取り出し、寝かせた慎重にベースにペグを取り付けながら、ダニーに話し掛ける。

「さあ、ダニーさん、音を作りましょう。弦なら、ダダリオ、アーニーボール、スミス、ヤマハといった具合に、一通りは揃っていますから、好きなものを。時間は、たっぷりとはいきませんが、納得できるだけの音を作るだけの時間はあります」

 ダニーは何度も頷いた。数あるベースのセット弦の中から、迷うことなく、赤色と黄色のパッケージのヤマハの弦を選出する。

 おや、弦もヤマハですか、ダニーさん。あなた、華奢で細長い見た目の割に、随分と太い芯が通っているようですねえ。ヤマハ、僕も好きですよ。ヤマハの作る楽器は、個性が強い割に、使う人の手に、水のようにすっと馴染みますからね。なにより、ヤマハの楽器には、日本の時代を、音で切り開いてきたプライドと、ハングリー精神が宿っている。

「手と魂に合った楽器のほうが、尖った音にしろ、丸く優しい音にしろ、作りやすいですからね」

 辻村はペグを取り付けたベースをダニーに渡し、目を細め、ニッと笑った。

 ダニーは両手でベースを抱き締めた。潤む目を咳でごまかしながら、弦を張って音を作るため、エリックと一緒に店内奥のライブ・スペースに足を向けた。

 辻村はカウンター席に腰を下ろし、一人だけ残ったロイドに座るように勧める。ロイドは愛嬌のある笑顔で頷き、辻村と向かい合う形でカウンター席に座った。

 見れば見るほど、犬に似ていますねえ。優しい目と、肩まである髪は、毛足の長いゴールデンレトリーバーみたい。……さて、この優しいゴールデンレトリーバーさんに、なにから伝えればいいやら。

 辻村はカウンター・テーブルに両肘をついて、両手の指を組み合わせ、顎を載せた。俯き加減にロイドに視線を投げ掛ける。ロイドは笑顔のまま、辻村の真似をして目をギュッと細くし、深くゆっくりと頷いた。

 言いたいことは分かっている、といった頷き方だ。

 辻村は座ったまま上半身を捩じり、カウンター奥に置いたもう一台のテーブルの上に置いてあるギターに視線を投げた。万力で体中を固められているギターは、全身ギプスで固定されている入院患者のように、見ていて痛々しい。

 辻村は声のトーンを落とし、ロイドに語り掛けた。

「レスポールは、残念ながら、今日は退院させることはできません。接着液は固まっているかもしれませんが、いかんせん、破損個所が多すぎます。弦を張って弾くことはできるかもしれませんが、接着面が再び折れる可能性が有るうちは、大事を取らせてあげたいものです」

 ロイドは英語で短く「オーケイ」と返事をした。ギターを弾けないことに落胆した声音でもなければ、消化不良で詰まった声音でもない、静かで耳に馴染む返事だ。むしろ、ロイドの表情は、ギターが弾けない事実に、胸の痞えが取れたような、穏やかなものだった。

 ロイドの優しい青い目の中に、得体の知れない闇の中の怪物の怯えるような、弱々しい光が見えた。

 辻村は首の後ろを掻く振りをしながら、視線をカウンター・テーブルにゆっくりと視線を落とした。カウンター・テーブルの上に置かれたロイドの大きい手を観察し、辻村は確信を強める。

 やはり、僕たちが修理したレスポールは、ロイドさんの楽器では、ありませんね。

 たとえ、レスポールを購入して知識が浅いと仮定しても、知識が浅すぎます。数十万円は下らない大きな買い物ですからね。一目ちらっと見て気に入ったにしても、無知のままでは購入しないはずです。なにより、ロイドさんの両手は、指先が固くなった、いわばギタリストの手なのにも拘わらずレスポールのボディーには、まるで初心者が夢中で掻き鳴らしたような、新しい傷が無数にありましたしねぇ。

 なぁに、犯人捜しじゃないですからね、僕は掘り下げて聞くつもりは一切ありませんよ。

 まあ、あえて犯人に位置付けるなら、アイロン・ワークスが浅間通り商店街までやってきた経緯の説明を、故意に省略した煙水中でしょうかねえ。

 辻村は顔を上げ、ロイドの表情を捉えると、鷹揚に頷いて口を開いた。

「ギター、今、お貸ししているものでしたら、差し上げますよ。昨晩の演奏を聴く限り、ロイドさんの手に合っているようですし。タダ同然で譲り受けたものですが、一応レスポールですから、どう間違っても悪い音にはならないでしょう」

 ロイドが、辻村の手振りで言葉の意味に気付き、首を横に振った。辻村は胸の前で腕を組み、目を細くして遠慮するロイドを笑い飛ばした。

「おやおや、なぁーにを今さら、遠慮なさってるんです。散々、静岡おでんや、カレーを食い散らかしておいて。いいから、持って行ってくださいな。僕ぁ、ロイドさんには、黒色のギターより、サン・バーストのほうが、ずーっと似合ってると思いますがね」

 それにねえ、ロイドさん、首の振り方がなってませんよ。そんなんじゃ、街中のキャッチ・セールスだって、断れやしませんからね。

 日本人はね、ものを言わない分、頭を下げたり上げたり、振ったりしますから。もっとね、石臼で蕎麦の実を引くようにして、ゴリゴリと擂り潰すように動かさないと、永遠に断れませんよ。

 辻村に押し切られたロイドは口を軽く結んで、眉尻を下げて、困ったように笑った。笑いながら、少し俯き、礼を言おうと軽く結んだ口を開く。ところが、口を開いた分だけ、目が潤む。潤む目に力を入れて、また笑おうと試みる。が、今度は鼻水が邪魔をした。鼻を啜る音か重なって響き、辻村がライブ・スペースに視線を向けると、ダニーとエリックが肩を震わせて、顔を赤くして立っていた。

 おやまあ、やですねえ。揃いも揃って、口を富士山みたく結んで。涙脆いロッカーはモテませんよ。ロッカーなら、毎晩お酒をかっ食らって、悲しい出来事を笑い飛ばして、嬉しい出来事には唾を吐くぐらいじゃないと、本当はいけませんよ。

 エリックがピアスを空けた大きな耳までも赤くして、湿った声でモニョモニョと辻村に尋ねた。

 辻村は眉間に皺を寄せて、聞き慣れない英語に口の端と鼻をぴくぴくと動かす。

 はて、なにを言っていらっしゃるのか、さっぱり分かりませんねえ。まあ、僕がここまであなたたちに肩入れする理由を尋ねていらっしゃるなら、答えることは一応できますよ。

 理由は至って簡単でね、滑稽なほど優しいアイロン・ワークスの奏でる、最高に尖ったロックンロールが、ロックンロールは死んだと言われたこの時代に出るべき音楽なんだと、僕が勝手に思っているだけです。ただ、それには、もう少しの《力のモーメント》が必要になるのですが。


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