7話 軒猿
虎千代に夜遅く夜襲され、あれよあれよ言う間に言い包められて知らぬ間に漢詩を教えることになって早数か月。
毎晩のように俺の部屋に来る虎千代の事を天室光育和尚は絶対に気付いている。しかし一向に何も言って来ず、それどころか昼間の勉強中に『自習しておる様じゃな、関心関心』などと激励する始末。
何か考えがあるのだろうが飄々とした好々爺みたいな見た目をしているのに何を考えているのか一向に分からない。本当にああ言った人を相手にするのは大変だ。
裏の裏まで読んだつもりでも平気でその上を行ってくるのだから。
今日も今日とていつもの様に部屋を抜け出し俺の部屋へとやって来た虎千代は幾つかの書物と筆を持って来ている。
将来軍神と言われるほどにまで兵学に関しては最高峰にまで上り詰めただけはあって兵学の内容を覚えるように、漢詩の読み方もスルスルと覚えていく虎千代の姿を見ていると、俺の教えることなどほとんどないように感じてしまう。
漢詩の読み方などの基礎的な部分のほとんどは天室光育和尚から教わり理解しているようだし、寧ろ俺が教える事と言ったら俺の時はこうだった、という過去の体験談という部分がほとんどである。
今では漢詩の他に、漢詩に対比される日本語詩を意味する和歌に挑戦している。
俺の居た現代では和歌と言えば三十一文字の歌、
しかし和歌には古くから短歌の他にも長歌や
「だから、戦ではまず機動力が一番大切だと思うのだ。いくら大群で攻めてきたからと言っても、それが
今和歌を習っているはずなのだから、俺の元に来るのならば普通は和歌について色々質問してくるのが普通だろう。しかし虎千代は普通ではない。虎千代は和歌よりも兵学に興味がある。
漢詩を一通り習い終えた虎千代は何処から持ってきたのか兵学に関する巻物を、和歌そっちのけで読み耽っていた。
「機動力を生かすためにはやはり大軍では無く少数精鋭の方がいいだろうと思うのだ。大軍を動かすのであれば
部屋では夜な夜な史実にあったような2メートル四方のジオラマで戦の時の兵の動きに関して自分独自の仮想戦を行っている虎千代。部屋の中で一人ブツブツ言っているのは気味が悪いし、一体どうやってそんな大きな物を持ってきたのか疑問を感じている。
そんな事をする時間があるなら小僧としての修行をしっかりしろよ、と思ってしまう。無理な事はもちろん史実で知ってはいるのだが、それも思わずにはいられない。
「それに情報が全てを握っていると思うのだ。日ノ本には多くの忍びが存在する。このような者達は他家に忍び込み兵数や作戦を盗み出すという。もしこれらが相手方に伝われば事前に準備され、最悪大敗を規す事になってしまう。だからこそ、相手方の情報を盗み出す事だけではなく、こちら側に忍び込んでいる忍びを狩る事が出来る忍び。そんな者達を育てる事が勝利に導く一番の近道なのではないか。そう思うのだがどうだろうか」
「いや、和歌を勉強しましょうよ」
言わずにはいられなかった。
先ほどから永延と自分が考える兵学や勝利の方程式について熱弁を
「確かに言う様に自らの情報を晒さず、相手の情報を盗むことが出来るのならばこの時代最強の情報網を敷くことが出来るかもしれないです。でも今は少しでも多くの教養を身に着けた方がいいのではないですか?そうすれば兵学に関しても様々な観点から観ることが出来ると思うのです」
「嫌だ、和歌はつまらん。漢詩も兵学を読みたかったから習ったのだ。それに私は僧に成りたいのではなく武士に成りたいのだ。
「確かに虎千代様なら軍団の先陣で戦っている姿が似合うでしょうがね……」
史実でも謙信は陣営の後方で指揮するのではなく、先頭を切って戦を仕掛けるような勇猛果敢な性格であったようである。それを考えると今の虎千代の様な幼少の頃からその片鱗が垣間見えているのかもしれない。
「そうだろう、そうだろう。だからこそ俺は兵学の方が必要だと思っているんだ。ゆくゆくは私も一介の将に成り戦場で指揮したいものだ、それも頼りにされるような将になるのが夢なのだ」
「それで情報にも精通したい、と。欲張りですね」
「欲張りでも結構。それで少しでも他の兵が無事に帰れるのならば私はどう思われても構わないさ」
いくら乱暴者と言われてもさすがに守護代とも言われる長尾家の者、一応は農民の事を考えているのだ感心させられる。
戦国時代の子供は現代の子供よりも多くの者が大人びていると言われている。それは時代がそうさせ家族が厳しかったからそうさせたと言うが、今の虎千代の様子を見ると確かに数え7歳の子供とは思えない考えを持っているようだ。
俺は少しだけその夢に加担したくなった。だからだろう、自分でも知らない内に自然と口が開いていた。
「ここから
「何?その様な忍びの集団がこの越後にあるのか?だがどうしてそのような事を知っているのだ?」
「以前読んだ書物の中に忍びの事が書いてあったので、少し虎千代様の夢を応援しようかと。今は無理でしょうが、いずれ役に立つやもしれません。その時今の言葉を思い出して頂ければ何かの助力にはなるでしょう」
「お前は、よく分からない奴だな」
「そうですか?こう見えても素直で正直者の雪君として通っていると自負しているのですが」
「それは一体何処の界隈での話をしているのだ……。それはそうと雪。お前はいつも敬語で話しているな」
「えーと、それがどうかしましたか?」
言われてみれば確かに俺はいつも虎千代に対して敬語で話している。
世話役として虎千代に付いている事もあるが、やはり初対面の頃から社会的地位が大きく違っている事や頭の中が大人である事で相手がすごい人物であると勝手に認識してしまっている事。
いずれは寺を出ていく事を知っているからこそ、虎千代を無意識の内にお客さん扱いしてしまっている事。
他にも要因はあるかもしれないが、パッと思いつくだけでもこれだけ考えられるのだからそれなりに俺自身虎千代に対し気を遣っていたのかもしれない。
「私に対して敬語を使うのはやめてくれ。仮にも私は
不満な感情を隠そうともせず口を突き出しだから自分の考えを伝える虎千代の表情は年相応の純粋さを持っていた。普段と明らかに違うその幼さを持つ表情を俺は初めて見たかもしれない。
普段俺が見ているのは和尚との勉強中は真剣な表情か不服そうな太々しい顔。作務中はやる気の感じられないだらけ切った顔。寺に来た時の不機嫌そうな怒った顔と兵学を楽しんでいるオタクの顔と……正直まともな顔が思い浮かばない程酷いものばかり。
そんな中で見たこの顔は非常に新鮮で、日常に新しい色を足されたように鮮やかにしてくれた。
「ですが虎千代様。私は対外的には寺男と言う低い地位であり、しかも世話をするという役も持っている身です。そんな私が敬語を使わずに虎千代様と話している事が知られれば文句を言われるのは必至。人によっては最悪手討ちとなる事だって考えられるでしょう。敬語で話さないなど無理ですよ」
「……確かに人前で話している事が分かればそうなる事もあるかもしれない。だが二人の時、二人しかいない時ならばどうだ?」
「二人の時、ですか」
「そうだ。二人だけしかいないので誰に聞かれる事もなく、敬語であろうがなかろうが関係ない。人前に出た時だけ話せば良かろう」
「いや、しかし壁に耳あり障子に目ありと言いますし」
「大体私の様に寺に出家した者に対してそこまで気を遣う方がオカシイのだ。出家すれば地位など関係ない、そう思わないか?」
「それはそうでしょうけど、しかしですね」
そこまで言って俺は出そうになった言葉を飲み込んだ。
君はいずれ
イレギュラーである俺の存在がもしかしたらそんな歴史を少し変えてしまうかもしれないし、何よりも今の虎千代に言った所で絶対に信じないだろうから。
というか誰に言ってもこの時代の人は信じないだろう。天室光育和尚だって信じないさ。
虎千代は俺が言葉を呑んだ事を受け入れた、という意味に取ったのか。
先程とは打って変わって満面の笑みになり一つ頷いた。
「よし、それでは今後は二人っきりの時に限り敬語は禁止だ。決定な!」
兵学を初めて学んだ時の満面の笑み。その時の太陽の様な眩しい笑顔がそこにはあった。
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