第一章 潜行 オモイデアゲイン1




 あの子の一周忌が終わったら離婚したいの。


 玄関を出てすぐに私は何の前触れもなく昨日の妻の言葉を思い出した。


 なぜだろう? 今の今までいつものように彼女と一緒に朝飯を食べていたのだ。その時は全く思い出さなかったというのに。


 家を出た瞬間、私は昨夜の「あれ」が確かに現実だったと気付かされたのだ。


 昨日は博人の四十九日、納骨の日だった。親類が大勢集まり朝から忙しかったが、天気に恵まれたし、納骨は何の問題もなく終わり、予約していた食事処にて法要後の食事会、いわゆる「お斎」が行われた。皆が口々に改めて息子の若過ぎる死を悼んでくれたし彼女もそれに対し涙ながらに礼を述べていたはずだ。


 彼女がそれを口にしたのは、親戚たちが帰り、二人きりになり、ほっとした矢先のことだった。私も彼女もまだ喪服を脱いでさえいなかった。


 ……なぜだ?


 僅かな逡巡の後に私が吐いたのはそんなつまらない疑問の一言だった。自分でも不思議だったが私はひどく驚くとか取り乱すという至極当たり前の反応が出来なかった。いや、前もって予感など無かったはずだ。現に今、じっくり考えてみても博子が離婚を申し出るような大きな理由は思い当たらない。だからこそ口から出た言葉だったのだ。


 ……驚かないのね。驚かないってことは理由はもうわかっているってことじゃない?


 博子はどこか寂しそうにそう答えた。答えになっていないと思ったが私はそれ以上追求できなかった。


 会話はそれっきり終わってしまった。彼女は着替え、その後、何事もなかったかのように洗濯を始めた。いつものようにテキパキと家事をこなしていた。その間、私は呆然と喪服姿のままソファに座っていただけだった。私は彼女と違い「選択」など出来なかった。


 結局、彼女は今日の朝もいつもと変わりなかった。最低限の挨拶、仕事、表情。それでいてやはりどこか違って見えた。見えないカウントダウンは確実に昨夜から続いている。正直どうすればいいのか、わからなかった。いや、それは詭弁だろう。私は「自分がどうしたいのか」さえ自分で良くわかっていないのだ。別れたくないはずなのに「そうなっても仕方ない」という思いも心のどこかに存在していた。おかしな感情だった。


 「一周忌」と彼女は言った。つまりこれから一年もない。それが私と彼女に残された時間だというのか? 


 もやもやした気分のまま私は車の鍵を開けドアを開いた。


「あの、すいません。広川博文さんですか?」


 車に乗り込もうと屈んだ瞬間、誰かが私の名を呼んだ。子どもっぽい声。振り返るとやはりそれは少年だった。学生服を着ている。度の強そうな眼鏡に朝日が当たり、きらりと光っていた。


「そうだけど、君は? ひょっとして博人の友達かな?」


 息子の友人関係のことは全くわからなかった。葬式にもたくさんのクラスメイトたちが来てくれたが、その一人だろうか。しかし全く記憶にない顔だった。


「友達か……、まあ、友達なのかな? 直接会ったのは一度だけだけど」


 一度だけ? 彼の言っていることがよくわからなかった。


「とにかく、これ、約束だから。万が一の時は頼む、あなたに渡して欲しいって」


 彼は一枚の紙切れを差し出した。私は訳の分からないまま反射的にそれを受け取っていた。


「博人も俺も苦労して創ったんですよ。じゃ、確かに渡したからね。頑張ってね、おじさん」


 彼はそう言って立ち去ろうとした。私は慌てて彼を呼び止めた。


「き、君、これは? ちょっと待って、君は博人とどういう関係なんだ?」


 彼はそれに答えず、ただ「見ればわかります」と言い残し、駆け去ってしまった。


 いったい何だと言うのだ? 「万が一の時は」と頼まれていた? 様々な疑問が浮かんでは消えた。


 遺書。


 ふいにそんな言葉が浮かび、私の動悸は速まった。馬鹿げている。あいつは自殺したわけじゃない。そうわかっていてもなぜか私の手は震え出した。


 恐る恐るゆっくり紙を広げてみた。


 クリエーション! 作品名「オモイデアゲイン」作者名「ヒロト」


 書かれているのはそれだけだった。一体これは何のことなのか。作者名という言葉の後に博人の名があったが、あいつが何か作品を製作しているなんて話は聞いたことがなかった。


 ひょっとしたら博子なら何か知っているのだろうか? 


 家の中に引き返そうとも思ったが時計を確認すると時間が無かった。一瞬迷ったが私は紙をジャンパーのポケットに入れ、そのまま車に乗り込んだ。


 博子には帰ってから話せばいい。仕事に遅れてしまう。博人のことで会社には大分迷惑を掛けている。遅刻できるような身分じゃない。


 頭に浮かぶ言葉は全て言い訳だった。自分でもわかっている。私は妻と顔を合わして会話するのが怖いだけなのだ。


 ちらっと玄関のドアに眼が向いた。


 昔は妻が外まで出て見送ってくれたものだ。いつからだろう、あのドアが当たり前のように開かなくなったのは。


 今日も開かないドアに少し残念な、それでいてどこかほっとした気持ちを抱きながら私は車を出した。


 会社の駐車場に入った時、まだ私はどこかぼうっとしていた。昨日から自分では処理しきれない問題が次々に起きているせいで世界がぐるぐる回っているような気さえした。


 いかん、しっかりしなくては。今日は運良く大丈夫だったが、このままだと気がついた時には交通事故みたいなことになりかねない。


 私は気合を入れるように自分の頬を両手で何度か叩いてから車を降りた。砂利が敷いてあるだけの駐車場をジャリジャリ歩き、正門近くの事務所の脇を通り抜け、タイムカードの置いてある作業場の方に向かった。入口前のタイムカードを挿し込むと誰もいない構内に「ガチャッ」という音が鳴り響いた。部屋の中に入り電気のブレーカーを上げる。天井の蛍光灯が一斉に点き「ティイン」というどこか冷たい音がした。それを聞くといつも私はなんとも言えない虚しい気持ちになった。


 まだ誰も来ていない。遅くなどなかった。


 私は今日、というよりいつものことだが、いったい何をそんなに焦っているのだろう?


 そんなことを考えていると後ろから声を掛ける者があった。


「おはようございまっす! 広川さん」


 毎日の付き合いだ。振り向かなくとも誰かはわかった。


「おはよう、品田君」


 私が振り返りながらそう答えると彼は再度頭を下げた。


 品田佑(しなだ たすく)だ。


 なんとかブラウンという色の茶髪、パッと見では字であることすらわからないほどデフォルメされた英文が書かれた派手な上着、ジャラジャラと鎖の付いたジーパン、もし街で会っても普通なら声を掛けない風体の若者がそこには立っていた。しかし彼と知り合ってからもう三年ほど経つ私にとってはすっかり見慣れた姿だった。


「昨日、良い天気で良かったっすね」


 さりげなく彼が掛けてくれた言葉には気遣いの優しさが滲んでいた。彼を見ているといつも思う。人を見た目で判断してはいけないと。この歳にして彼から学んだことだった。


「ああ、おかげさまでね、無事に納骨が終わったよ」


 私と彼はロッカーの前で私服を脱ぎ作業着に着替え始めた。


 私の勤める会社は地方の小さな電機関連の会社であり、現在はある企業の下請けの下請け、いわゆる孫請けとしてデジタルカメラの部品を作っていた。社員は十数名、同じくらいの数のパート社員や人材派遣の女性たち。決して多くはない人数だが幾つかの製造ラインがあり毎日忙しく活気のある現場だ。私は品質管理全体の責任者、品田君はあるラインのライン長という立場であった。


「あれっ、なんか、紙みたいな奴、落ちましたよ」


 私は品田君にそう言われて足元を見た。畳まれた紙を見て、やっとそれが何だったか思い出した。


 そうだ、若くて私よりも博人に近い彼ならこれについて何か知っているかもしれない。


「品田君、これが何かわかるかい?」


 私は紙を拾い上げると広げて彼に見せた。彼はその書かれた文字をじっと見始めた。


「クリエーション? どっかで聞いたことが……、ん、ああ、そうか、あれのことか!」


 彼の顔がぱっと輝いた。なぜか興奮気味だった。


「これ、あれっすよ。今、若い子の間で結構流行っているゲームみたいな奴です」


 彼はそれから色々と説明をしてくれた。ところが私には聞き慣れない言葉ばかりで理解が容易ではなかった。仕事の前ということもあり時間がなかったため話は改めて昼休みに続けられることになった。それでも私はなかなか理解が出来ず、結局残業時間、生産が終わってからの機械の調整、片付けの時まで彼の話は続いた。


「……なるほど。それで『クリエーション!』っていうのはつまりテレビゲームのことなんだね?」


「まあ、テレビに繋いでやる奴もありますね。ただ他にも携帯型ゲーム機でやる奴とかパソコン用の奴とか色々あるんすよ。マルチ展開って奴で。そこが売りなんですけどね」


「ふーん、そういうものなのか。最近のゲームのことなんて全然わからなくてね」


「ユーザーが沢山いた方が仲間を集めやすいじゃないですか。やっぱりゲームを作るってのは作業量も多くて一人じゃ大変ですから。個人製作よりグループ作ってやった方が……」


「その、さっきからゲームを作る作る言っているけど、そんなの簡単に出来ることなのかい? ほら、ゲームってプログラムだとかそういう専門的な知識がいるんだろう?」


「それを専門知識無しでも簡単にできるようにしたのが『クリエーション!』ってソフトなんです。そうだな、例えば写真みたいに精密な絵を描くにはそれなりの技量がいるじゃないっすか。でもそれがジグソーパズルなら根気さえあれば誰でも絵を完成させられるっしょ?」


「ああ、なるほどね。まあ、理屈はわかったがいくら何でも中学生じゃ……」


「充分可能っすよ。一人で作るのが大変な時はネットで仲間を募って共同制作すればいいんですから。クリエーションってのはネット関連の専用機能がすごく便利で簡単に仲間の募集が出来るらしいですよ。絵を描く人間とか作曲する人間に連絡をとって自分が創りたいゲームに合わせた素材を提供してもらうわけです。それに今は中学生くらいの方がそういうことには詳しいんじゃないすか?」


「しかし博人は入退院を繰り返していたわけだし、あまり出掛けたりは出来なかったんだ」


「仲間っていっても実際会って何かするわけじゃないっすよ。クリエーションには専用の掲示板、SNS機能が用意されていて匿名でも気軽に相手と連絡が取り合えますから。つまり顔も知らないネットだけの仲間ですね。まあ、最近は『オフ会』っていって実際集まったりもするらしいっすけど、それは強制ってわけじゃないっすし」


 あの少年の言葉が思い出された。「一度しか会ったことはないけど友達」という意味はこのことだったのか。あの少年は博人がインターネットで知り合った仲間なのだろうか。


「そうだとすると、結局この紙に書いてあるのはどういうことなのかな?」


「作者名が『ヒロト』ってなっていますよね? つまり博人君が中心になって『オモイデアゲイン』っていうゲームを作っていたってことじゃないですか? そして広川さんが会った少年は博人君のゲーム制作へ参加していた。博人君はそいつに自分の病気のことも打ち明けていて、万が一自分がゲームを作れなくなったら続きを作ってくれるように頼んでいたのかも知れないっすね。本人確認のパスワードさえ教えておけば本人に成り代わって続きが作れるはずですから。たぶんそれが今になって完成したんすよ」


「でも、それを私にどうしろと?」


「うーん、ゲームなんだからやっぱ『やれ』ってことっすよ。クリエーションで作れるのは主にロールプレイングゲームって奴ですから話に沿って根気強くゲームを進めていけば誰でもクリアーしてエンディングを見られるはずっす。それを見ろってことっしょ?」


「私にゲームをしろと? いったい何のために……」


「だって『遺言』なんですよ? 息子さんの思いが詰まっているゲームなんですから見てあげなくちゃ」


「いや、『思い』って言ってもたかがお遊びだろう? 中学生の素人が作ったものだろうし」


「……広川さん、わかってないっすね。決して遊びじゃないんすよ。中学生だろうが素人だろうが一生懸命真剣に創られたものは『マジ』なんすよ。だからやる方も真剣にやらなくちゃいけないっしょ!」


 参ったな、彼は時々変に熱くなる。それが煩わしくもあり微笑ましい部分だった。少しはこの熱さを仕事で見せて欲しいものだ。私は苦笑いを浮かべながら彼に聞いた。


「わ、わかったよ。それで君はゲームとか得意なのかい? よくやる方?」


「えっ、ま、まあ、やりますけど、人並みには」


「じゃあ手伝ってくれる気はあるか? 私一人じゃとても自信がないんだ」


「もちろんっすよ! 大魔王だろうが破壊神だろうがぶっ倒してクリアーさせますから任せてください」


「よ、よくわからんが、そりゃ頼もしいな。それじゃあ帰ったら早速博人のゲーム機を探してみるよ」


 私と彼はその日会社の真っ暗な駐車場で固く握手をして別れた。


 車を走らせながら私は考えた。


 品田君の予想が正しいなら家のどこかに「クリエーション!」というゲームソフトがあるはずだ。博子に今朝の話をして何か知らないか聞いてみるしかないだろう。


 そう決意しながら家に到着した私はそっと自宅のドアを開けた。すると目の前に博子が立っていた。驚いた私は「ただいま」を言うことさえ忘れてしまった。


「お帰りなさい。ご飯は出来ています。今、温めますから」


 それだけ言うと彼女は私の返事も待たず台所へと消えていった。何も話をさせてもらえなかった。小柄で無口な彼女から途轍もないプレッシャーが発せられているのを感じた。とても気軽にゲームのことを聞ける状態じゃないと思った。それを聞けば、なぜ朝それを話して行かなかったのかと責められそうな気がした。


 私は途端に怖気付き、ただ黙々と用意された飯を食べた。着替えを用意してもらい風呂に入って出てくると食器はもう洗って片付けてあり彼女の姿はなかった。数年前、私の仕事が忙しく遅くなることが多くなった頃から彼女とは別々の部屋で寝ていた。もう寝室に行ったのだろう。


 仕方ないと言い訳がましく自分に言い聞かせ私は博人の部屋へと向かった。持ち主を失った部屋は気のせいか他の部屋よりずっとひんやりと感じられた。電気を点け、いつも博人が座っていた椅子に座ってみた。あてがあったわけではないが何気なく机の引き出しを開けてみて、思わず「あっ!」と声が出た。博人がよく遊んでいた携帯型ゲーム機がそこには入っていた。過去の記憶を辿り、その機械のソフトを入れる場所を確認すると確かにそれはあった。


 「クリエーション!」というラベルが貼られたソフト。


 はやる気持ちを抑えながら私はどうにか主電源を入れてみた。動かなかった。一瞬壊れているのかと焦ったが冷静になってみるとバッテリーが切れているだけだろう。持ち主が触らなくなって大分経っているのだから当然だ。引き出しに一緒に入っていた電源コードを繋ぎ、改めてスイッチを押してみた。テレビのコマーシャルで見覚えのあるロゴが映し出された。このゲーム機を作った会社らしい。その後、幾つかのロゴが映っては消え、「自動でネットに接続している」という説明を行う文章が表示された後、画面は「クリエーション!」というタイトルを映し出して止まった。


 矢印が点滅しているところに「作る」、「参加する」、「遊ぶ」という言葉があった。品田君に教えてもらっていたとおり「遊ぶ」の所にカーソルを合わせ決定のボタンを押してみた。画面が変わった。ネットの検索サイトのように検索したい言葉を入力する部分、その下には「おすすめ」の一覧が表示された。ずらずらとたくさんのタイトルが画像付きで並んでいた。これだけ素人の作ったゲームが投稿されているということなのか。こういうものはプロにしか作れないと思っていたが知らないところで時代はどんどん進んでいるようだ。私は浦島太郎のような気分で検索枠に「オモイデアゲイン」と入力した。ゲーム機にはキーボードがないため時間が掛かったが、決定を押すとすぐに検索内容が表示された。


 あった!


 確かに作者名が「ヒロト」となっていた。説明欄には物語の内容の簡単な紹介の文が表示されていた。


 ある魔女に襲われた街。人々は魔女の魔法により良い思い出を全て奪われ、悲しい思い出だけが残された状態になってしまい苦しんでいた。さらに悲しみに負けた一部の人間は魔女の残していった魔力と混じり合い怪物となって人々を襲うようになってしまった。そんな時、街で唯一思い出を奪われなかった少年ゲンは突然話が出来るようになった母の形見のフランス人形フランと共に怪物退治の冒険に出発した。


 親馬鹿かもしれないが、あらすじを見た感じ面白そうな物語だと思った。しかしなぜこれを私にやらせたかったのかはそれだけ見てもわからなかった。


 本当に博人は自分の死を覚悟して、あの少年にこれを託したのか?


 そんなのは信じたくないことだった。いつも私や博子の前で笑顔を見せていたあいつが内心「死」を覚悟していて、そのことに私は微塵も気付けなかったなんて。


 私は品田君に聞いていたとおりダウンロードを選択した。これでいちいちネット接続しなくてもゲーム機に保存されたゲームを遊べるはずだ。ダウンロード状況を表す表示が続き、数分後にはダウンロード終了と表示が出た。


 ゲームから「今すぐ遊びますか?」と聞かれた。当たり前だ。「はい」を選択した。また、あのロゴが表示され、次の瞬間、画面には大きく赤い文字で「オモイデアゲイン」のタイトルが表示された。


 ゲームが始まったら「最初から」と「続き」の選択肢があるから「最初から」の方を選べばいい、そう品田君に聞いていた。私はボタンを押した。息子の作った物語が始まった。





 ベッドに眠っているキャラクター、それがパッと目が開き「うーん」と伸びをした。吹き出しには「ゲン」という名が書かれていた。


「うーん、眠いよぉ。誰か、僕を呼んだ? まさかね、こんな夜中に」


「呼んだわよ、ゲン」


 ゲンの頭の上にびっくりマークが出た。彼の前へ動くフランス人形が現れた。


「わわっ、ふ、フランが喋った!」


「ふふっ、あなたとは十一年の付き合いだけどこうしてお話しするのは初めてね」


「な、なんで人形が? 僕、まだ、夢見ているのかな?」


「私が動けるのは魔女が残した魔力のせいよ。あなたが寝ている間にこの街に魔女がやって来たの。そして魔女はみんなの心の中にある良い思い出だけを奪っていった。そのせいでみんなの心の中に悲しみだけが残ってしまったのよ。人は辛いことだけじゃなく楽しいこともなければ生きられない生き物よ。負の感情に囚われた人間たちは魔女の残した魔力と結びつき怪物になってしまったの。たぶんあなたのお父さんも……」


「お父さん? そ、そんな嘘だ!」


 ゲンはベッドを飛び降り父の元に向かった。お父さんは「こら、何を騒いでいるんだ? 夜中だぞ!」と怒るだろう。その時はほっと苦笑いを浮かべながら「怖い夢を見た」と言えばいい。


 そう思いながらゲンは父の寝室のドアを勢い良く開けた。誰もいなかった。それどころか家中探しても父の姿はなかった。ゲンは泣き出した。外に飛び出し近所を歩き回ってみたが父はもちろん誰の姿もなかった。疲れ果て家に帰ったゲンをフランが出迎えた。もう彼の涙はとうに乾いていた。


「……どうして僕だけ無事だったの?」


 現実を受け止めたゲンはフランにそう聞いた。


「私がいたからよ。私にはあなたの死んだお母さんの『あなたを守りたい』という思いがたくさん残っていたの。その思いが魔女の魔力をプラスに変化させた。だから私は命を持つことが出来たし、あなたを魔女の魔力から守れたの」


「そうか。母さんが守ってくれたんだね。……フラン、僕はこれからどうしたらいいの? 父さんはどこにいったの? どうすれば街は元に戻るの?」


「魔女を倒す、それが最終目的ね。でもその前に怪物に変わったみんなを元に戻さなくちゃ駄目だわ。魔女を倒すには一人の人間の力では不可能だもの」


「戻すってどうやって?」


「どんなに悲しい思い出も小さな光を含んでいるの。悲しいという感情は持っていた幸せを失った証拠だもの。だから悲しみの奥底には必ず幸せのカケラがある。それを引き出せばいい。そのためにはあなたの光、つまりあなたの良い思い出の力が必要なの」


「僕の思い出?」


「そう、私の力であなたの良い思い出を武器に変えられる。それを使って怪物を倒すのよ」


「うん、わかったよ。僕がやらなくちゃ。父さんも街の人もきっと僕が元に戻してやる!」 


 ゲンとフランは暗闇に包まれた街に閃光のごとく飛び出した。





 オープニングが終わったようだ。方向キーを色々押してみると画面の中のキャラクターが押した方向に動いた。普段ゲームをしている人間にとっては当たり前のことなのだろうが妙にわくわくした。しかしこれからどうしたらいいのかわからない。わからないことがあったらいつでも電話をくれと言っていた品田君の言葉を思い出し、私は早速携帯で彼に電話をした。すぐに声が聞こえた。ところが電話に出たのはなぜか女性だった。


「もしもしぃー、ごくろうさまー、ですぅー。今、『たすくん』はお休みですぅー」


 テンションの高さに思わずぎょっとした。かけ間違いかとも思ったがどこかで聞いたことがある声だった。子どもっぽい、いわゆるアニメ声。それは突然途切れ、ごそごそと騒がしい音が聞こえてきた。次にかすかな「おい、勝手に出るなよ」という怒った声。やはり品田君だ。


「あ、あの、すいません。ちょっと連れが勝手に電話出ちゃいまして」


「今の声、ひょっとして杉川さんじゃないかい?」


 杉川メイはうちの会社に人材派遣会社から派遣されている女の子だった。確か品田君と同世代、そう言えばよく休み時間に二人で話しているのを見かけた気がする。


 なるほど、そういうことか。


「いや、あの、そうです。すいません、ちょっと二人で飯食ってまして」


「別に謝ることじゃないよ。でもあんまり彼女を酔っ払わせるなよ、たすくん」


「ぶっ! ちょ、ちょっと広川さん、茶化さないでくださいよー。勘弁してほしいっす。あの、それで何か用っすか?」


 私は今までの経緯を彼に説明した。


「うーん、ロールプレイングゲームの基本は街の人間から情報を得ることっすから、方向キーでキャラを動かして他のキャラが居る所を探してください」


「今、ずっと左の方に行ってみているんだけど……、うーん、動いているキャラクターはいないな」


「そうっすか。そうだな、電話じゃちょっとわからないっすね。それじゃあ明日ゲーム機ごと会社に持ってきてくださいよ。休み時間とかに一緒に少しずつやりましょう」


「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらおうかな」


 それから私はゲームの進行状況を途中保存する方法、「セーブ」の仕方を教わり電話を切った。


 最後までワイワイと杉川さんの声が後ろで聞こえていた。二人は食事を楽しんでいるようだ。私と博子にもあんな時期があっただろうか? いつからだろう、彼女と一緒にいる時に僅かな息苦しさを感じるようになったのは。それは自分だけなのか、それとも彼女も感じていることなのか、私にはわからなかった。


 さて、博人のこのゲームのことを彼女にどう伝えればいいだろう?


 思い悩むことが多すぎて混乱してきた。疲れからか、ぐらりと目眩がした。


『この恩知らずめ! 私を裏切るようなことをしおって!』


 ……えっ、な、なんだ!?


 目眩と共に何かが脳裏に浮かんだ。記憶だ。記憶の中で私は誰かに怒っていた。恩知らず? 裏切り? おかしい、私にそんな経験はないはずだ。それに相手は誰だ? 怒った記憶ははっきりあるのにその相手の名前はおろか顔さえ思い出せなかった。あれは博人でも博子でも品田君でもない。


 得体の知れないまとわりつくような不安に私は包み込まれた。


 私は慌ててゲーム機の電源を切ると、それを持って逃げるように博人の部屋を後にした。





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