第三章 少女はふたりきり(1)






 目覚めた時の伽奈かなのささやかな期待は、起き上がった瞬間に目に入った少女の姿によって完膚なきまでに打ち砕かれた。


『あら、おはよう。早いのね』

「…………おはよう」


 ところどころが半透明の少女、ほのかは、昨晩と寸分違わぬセーラー服姿でフローリングに転がっていた。伽奈は眩暈にこめかみを押さえながらも、これが自分の幻覚であるという仮説が揺らぎつつあるのを感じた。

 仕方がないので、絶対に部屋から出ないようにと厳命してシャワーを浴びに行った。湯を浴びていると、じんわりと身体が温まるのが心地良くて思わず現実逃避したくなったが、浴室から部屋に戻っても残念ながらやっぱり仄はそこにいた。


「……やっぱりあなた、本当に幽霊なの?」

『うふふ。享年18歳よ』


 何がうふふ、なんだか。


 制服に着替えてダイニングへ向かうと、仄もついてきた。一人(二人?)で朝食を摂っていると、父が現れる。昨夜のことを気にしていたのか、珍しく「よく眠れたか」と声をかけてきた。そのこと自体はどちらかと言えば喜ばしいものの、伽奈は苦虫を噛み潰したような顔になりそうなところをなんとか堪えて、「まあまあ」と当たり障りのない答えを返した。

 味気ないどころか、横でうろうろしている仄を気にしすぎてまるで味のない朝食を終え、一度自室に戻る。


「もしかして学校までついてくるつもりじゃないわよね」

『だって他にすることないもの』

「……ていうか何でわたしにつきまとうわけ!?」

『いいじゃない。どうせ友達いないんでしょう? 私が友達になってあげるわ』

「ぜ、全然嬉しくないんだけど……」


 冬の風は今日も冷たい。ひんやりとした空気の中を泳ぐように、仄は伽奈の後ろをついてきた。そういえば満員電車ではどうなるのかと思ったが、どうやら伽奈にははっきり見えていても実際透けていることに変わりないらしく、仄はサラリーマンや学生に綺麗に重なって――この時ばかりは少々不機嫌そうにしながら――扉にもたれるようにして浮かんでいた。伽奈から見ると若干気持ちの悪い光景だったし、電車から飛び出してしまわないのかとも思ったが、何故だかその心配はないようだ。


 ひょっとすると、高校に入学してから初めての――一人きりではない登校だった。


 学校の最寄り駅に着くと、しかし例によって心臓が嫌な感じに締め付けられ始めた。仄がいるとはいえ、誰にも見えないのなら実質伽奈は一人だ。それに、そもそも仄のこともまだよく分かっていない。急に現れて、急につきまとってきて――常に何だか人を食ったような笑みを浮かべているし、幽霊であるという先入観を取っ払って見れば美人の部類だとは思うのだが、配慮のはの字もなしにずけずけと物を言う。


 伽奈の顔色が悪いのに気付いているのかいないのか、仄はふらふらと校門に向かう生徒たちの顔を眺めて回っている。教室に辿り着いた時、戸を開けるのに伽奈は一瞬躊躇した。しかし、今更仄の顔色など窺っていても仕方がないと、平静を保って引き戸を開ける。


 今日は、机の上は綺麗なままだった。だがよく見ると、引き出しから何かが覗いている。ぐしゃぐしゃにされた紙の山――広げて見てみれば、それは歴史の教科書だった。嫌な予感がして教室の後ろに並ぶロッカーを見てみると、置いてあったはずの自分の教科書が何冊か見当たらない。


(しまった……)


 伽奈がロッカーの中を呆然と見つめていると、お決まりの声をひそめた笑い声が教室の隅から聞こえてきた。思わず睨みつけたくなるが、そんなことをしても今は無意味だ。


『ねえ、伽奈』

「…………」

『教科書、ないと困るんじゃないの?』

「う、」


 うるさい、と反射的に怒鳴りかけて、はっと口を噤んだ。

仄の存在をすっかり忘れていたが、ちらりと周囲を見てみると奇妙なものを見る目で生徒たちが伽奈を凝視している。自分の失態に顔が熱くなった。当の仄は我関せず、といった表情でロッカーに腰かけるようにして浮かんでいる。


「なにあれ、超キモいんですけど」

「マジで頭おかしくなったんじゃない? こわー」


 水を得た魚のように女子たちの声が高くなる。昨日、伽奈の机に付箋を貼り付けたグループだ。伽奈は怒りに火照った頬を冷まそうと手のひらを押し当てた。二つに結った髪を乱暴に翻して自分の席に戻る。ぐしゃぐしゃになってしまった教科書のページの皺を一枚一枚伸ばしながら、先生に頼めば教科書を注文してくれるだろうか、と考えた。


 今日はいつもより気を付けなくては。何せ仄がいるのだ。彼女のことだからどうせまた一方的に話しかけてくるだろうし、学校にいる間は徹底的に無視しなければ。


 しかし、いないと想定すべき仄がいる位置をつい避けてしまったり、耳を貸すまいとしていてもつい反応してしまったりと、伽奈の思うようにスムーズに事は運ばなかった。昨日よりも更なる疲労が肩にのしかかる。授業中に窓の外で体育をしている生徒たちを見下ろして何やら喋り続けている仄を視界から締め出しつつ、もう早く帰りたい、と伽奈はそっと溜息を吐いた。






***






 しかし、これ以上何事も起こらぬようにと願っている時ほど、何かが起こってしまうものである。


 六限目を終えて、掃除の時間を知らせる放送が流れた。伽奈の高校は週替わりで班ごとに掃除の担当場所が変わる。今週伽奈の班の当番は、自分たちの教室前の廊下および二階から一階へ続く階段だった。伽奈が一階の階段を一段一段箒で掃いている間、仄は手すりに腰かけてそれを眺めていた。


『ねえ、伽奈、貴女本当に友達いないのねえ。今日一日誰とも会話してないじゃない』

「…………」

『ま、私がいるから寂しくなかったでしょう? ね?』

「…………」


 二人きりになったら思い切り文句を言ってやる、と心に誓いながら、伽奈は埃を隅へと掃き集めていく。


『――あら』


 ふと、仄の声につられて顔を上げると、二階と一階の間の踊り場で女子生徒が仁王立ちをして伽奈を睨みつけていた。茶色がかった髪をたっぷりとしたポニーテールにして結んでいるその生徒は、さかえという少女だった。いつも伽奈を虐めているグループのリーダー格のようなものだ。少女の後ろには三人ほどの取り巻きが顔を見合わせつつ栄の様子を窺っている。


 伽奈が無視して掃除に戻ろうとすると、「ちょっと、あんた」と刺々しい声が投げつけられた。


「あんたさあ、いつもキモいけど、今日めちゃめちゃキモいんだけど。見てるだけでイライラするんだよね」

「…………」

「っていうか何でいつまでも学校来るわけ? 頭おかしいんじゃないの?」

「…………」

「ちょっと、聞いてんの?」

「うるさいんだけど」


 黙りこくっていた伽奈が急に反論したことに驚いたらしく、栄は一瞬目を丸くして言葉を飲み込んだ。仄はにやにやと楽しそうに伽奈を見つめている。

 掃除の手を休めないまま、伽奈は冷たい声で言う。


「イライラするなら見なければいいんじゃないの? わたしが学校に来るも来ないもわたしの勝手でしょ。あなたにどうこう言われる筋合いない」


 うっすらと化粧をしている栄の顔が、怒りにかっと紅潮した。


「な……何なのお前、偉そうに! 何様のつもりだよ!」

「うるさいってば。わたしに構ってる暇があったら掃除すれば?」

「なっ……!」


 実は、伽奈は今まで彼女たちの仕打ちをただ耐え忍んでいたわけでは決してなかった。自覚していることだが、実際のところ伽奈の沸点はわりと低い。時折こうやって反抗――彼女たちにとっては――するから、定期的に虐めもエスカレートして終わらないのである。


 栄は一方的な獲物だと思っていた相手にプライドを汚され、般若のような形相になった。普段、気になる男子生徒の前で見せているような媚びた表情からはまるで想像できない顔だ。掴んでいた箒を振り上げると、取り巻きの女子たちがおそるおそる声をかけるのも無視して伽奈の方へ階段を下りて来ようとする。伽奈もそっと自分の箒を握る力を強めた。


 その時、伽奈は見た。

 傍にいたはずの仄が、いつの間にか栄の真後ろに立っている。

 仄は浮かべる微笑に似合わない、冷え冷えとした目で栄を見つめていた。


「え」


 それは誰の声だっただろうか。


 一瞬後には、栄の身体が中空に投げ出されていた。伽奈は何が起きているのか即座に理解できず、ただ固まってそれを見上げていた。栄も自分に何が起きているのか分からない様子で、きょとんと強張った表情を張り付けていた。


「ユミぃ!!」


 取り巻きの上げた悲鳴に伽奈は我に返った。その瞬間、自分の背後で何か重たいものが落下するどさりという鈍い音がした。振り返ると、栄が階段の一番下に奇妙な格好で投げ出されていた。


 一拍の静寂の後に、ひしゃげた呻き声が伽奈の耳朶を打った。


「うあ――い、たい……いたいぃ……!」


 ユミ、ユミ、と、踊り場で立ちすくんでいた女子生徒たちが口々に栄の名を呼びながら駆け下りてきた。伽奈は反射的に彼女たちから一歩距離をとりつつ、呆然と踊り場を見上げる。


 仄が笑っていた。


 伽奈の胸のうちに、恐怖と胸がすくような気持ちがない交ぜに広がった。その居心地の悪い気持ちは、真水に落とした墨汁の雫のように伽奈の思考を侵食していく。


「ば、化け物っ……!」


 そう、栄の声が聞こえた。それは伽奈のことだろうか。栄は振り乱した髪の間から、怯えと怒りの混ざった激しい目つきで伽奈を睨んでいた。

 一刻も早くここから逃げ出したい衝動に駆られたが、伽奈のプライドはそれを許さなかった。ただ伽奈は、栄の苛烈な目を睨み返す。生徒の一人が呼んだ教師が駆けつけてくるまで、二人は互いを睨み続けていた。

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