第2話 紫炎の魔女

◇◇◆◇◇◇◇◇◆◇◇

 その日は太陽が高く登っていた。幼いブラッドは家業の漁業の手伝いとして舟の手入れを行っていた。日用品の取り換えや掃除である。

 今日は街に聖王家の人々が慰問にやって来る日であったため、両親はその準備に追われ、船上にはブラッドただ1人であった。


「ねぇ、なにしてるの?」

 ブラッドが魚籠を積み込んでいると声を掛けられた。振り返ると長く黒い艶髪を潮風になびかせる同じ年頃の男の子が居た。

「手伝いだよ」「それって舟?」「うん」「ねぇ、乗せてよ!」

 ブラッドは単調な仕事に飽きていたこともあり、見知らぬ少年を舟に乗せたのだった。


「すごい!水の上に浮かんでる!」

 黒髪の少年は舟に乗るのは初めてのようで、はしゃいでいる。ブラッドと少年はしばらく舟の上で遊んでいた。ブラッドの教える様々な遊びを少年は全く知らなかった。

 家の手伝いばかりで同年代の友人がいないブラッドは、初めて出来た友人との時間を楽しんでいた。


 あっという間に過ぎていく時間。

 彼らが気がついた時には、港と繋ぐもやい綱は解け、舟は沖に出てしまっていた。

 少年たちがいくら叫んでも、聖王家を迎えるため街じゅうの人間が出払っていたため、その声は届くことは無かった。

◇◇◆◇◇◇◇◇◆◇◇





「ぬうん!!」

 アンジールの持つ騎士槍が紫炎を受けて煌めく。仮面の女は素早く身を翻し槍の軌道から外れた。

 ブラッドは呆然とその光景を見ていた。

 闇の中に広がる、この世のものとは思えぬ紫に光る炎に照らされ、アンジールと仮面の女はまるで神話の世界から抜け出してきたかのようだった。


「愚かしや……死に抗うことは人の身に余る行為ぞ」

 仮面の女が背に負う紫炎の塊から炎を掬い舞うように放つ。アンジールは辛くも回避するが、鎧の縁は炎に舐められ黒紫に炭化した。

「ブラッド!何をしている!チャールズを安全な所まで避難させるのだ!」


「は、はいッ!」

 アンジールの言葉に我に帰ったブラッドはチャールズの肩を抱き林から抜け出そうとする。

 村へめがけ駈け出すと、紫炎に焼かれた木が倒れアンジールとブラッドを分断した。「団長ーッ!」

 紫炎の向こうにはアンジールと仮面の女の激闘。


「せりゃあッ!」

「ふふふ……人の身で何時まで耐えるか」

 互いの攻撃は当たらない、否、紫炎に囲まれるアンジールは次第に行き場を無くし始めていた。

「そんな……!」

 ブラッドが踵を返し掛けた時、チャールズの呻き声が耳元で聞こえた。失われた彼の肘先が目に入る。焼けただれ血が蒸発している。


「先輩……」

 今はアンジールに与えられた使命を果たさねば、チャールズの命が危ない。

「必ず戻ります!」

 ブラッドは振り返る事無くソドスの村へ向かった。林の中を進むが、紫炎の灯りはどこまでもついて来る。

 果たして、村へたどり着くとそこも紫炎に巻かれ惨劇の様相を呈していた。


「なんて事だ……」

 家々は紫炎に焼かれ、紫に燻りもがく様に手を突き出す炭像があちこちに転がっていた。

 すでに何人かの騎士団は消火活動を始めていたがいくら水をかけようと紫炎が弱まる事は無い。

「ブラッド!チャールズ!」

 1人の騎士が2人に気づく。

「先輩が危険なんです!安全な場所は!?」


「おお、チャールズ、なんて事だ!教会に行け!あそこはまだ火に巻かれていない!」

「分かりました!」

 ブラッドは再び歩き出す。通り過ぎる家々から時たま叫び声が聞こえてくる。

 ブラッドは、まるでこの世に地獄が噴き出してきたかのように思えたのだった。


「……!先輩、着きましたよ、教会です!」

 騎士の言う通り、教会は無事だった。

 周囲の家々が紫炎に焼かれる中、木造で有るにも関わらず焦げ一つすら無い様子は、かえって不気味である。

 しかし、安全な場所はここしか無い。意を決してブラッドは教会の扉を開けた。


 教会の中は灯りひとつなく、周囲の紫炎に照らされているために不気味である。

 辺り一面埃だらけの教会は、このソドスの村の信仰の有り様を雄弁に語っていた。

「先輩、聞こえてますか!?」

「ブラッド……俺の腕は一体」

 チャールズは意識が朦朧としているのか、焦点の定まらぬ目で虚空を見た。


 ブラッドは騎士鎧の装飾布を裂くと包帯代わりにチャールズの腕を縛った。

 断面が焼け焦げている為出血は無いが油断は出来ない。

「くっ……先輩、ごめんなさい、俺は団長のところへ……!」

 ブラッドが駆け出そうとしたその時、チャールズの叫び声が響いた。

「あああ!熱い!腕が熱い!」


「そ、そんな!先輩!」

 ブラッドは驚きに目を見張った。チャールズの紫に焼け焦げた断面から紫の炎が燻り始めている。ちらちらと、しかし確実にチャールズの腕を紫炎が昇っていく。

「ああああ!消してくれ!この火を消してくれーッ!!」

 チャールズは半狂乱でのたうちまわる。


 ブラッドは教会のカーテンを引きちぎりそれでチャールズの腕の紫炎をもみ消そうとしたが、紫炎は決して消える事は無い。

「くそっ!くそっ!消えろッ!」

 チャールズは叫び続ける。だがブラッドにはどうする事もできない。

 やがて炎は肩を、胸を、そしてチャールズの顔を焼き始めた。


「助けてくれ!助けてくれブラッド!」

 叫びは最早断末魔の絶叫と化していた。ブラッドも必死、だが紫炎はあざ笑うかの様にチャールズだけを焼き尽くしていく。

「いやだ!死にたく無い!助けてくれ!」

 余りの熱にブラッドが手を離したその一瞬、紫炎は激しく燃え上り、チャールズは炎の中に消えた。


「先輩……?」

 紫炎はチャールズを焼き尽くすと、あっという間に消え去った。

 教会のカーテンも、ブラッドの結んだ装飾布も全く焼け焦げず、チャールズだけを焼き尽くした紫炎は、まるで最初からそこには存在しなかった様に鎮火した。

 ブラッドは膝をつき、呆然とその光景を見つめるしか無かった。


 どれくらいそうしていただろうか、ブラッドはやがて外から聞こえてくる悲鳴や叫び声に、聖騎士団の仲間たちのものが混じり始めた事に気づいた。

 ブラッドはふらふらと教会の外に向かう。そんなはずはない、きっと騎士団のみんながあの仮面の女と戦っているだけだ。俺も早く加勢しに行くんだ。


 ブラッドの脳裏にこびりつくチャールズの断末魔の光景がフラッシュバックし、彼はその場に倒れ込み嘔吐した。

「ゲホッ、ゲホッ!」

 脚が震える。扉を開けたくない。そこに広がる光景を見たくない。

 その場から動けなくなってしまったブラッドの耳に飛び込んできたのは、アンジールの声だった。


「皆怯むな!これこそが託宣にあった試練に相違ない!我々はこれを乗り越えねばならんのだ!」

 その声と共に騎士団の声に力が漲る。ブラッドもまた同じだ。

(((託宣は関係ない。俺は、アンジールに受けた恩を返す為に戦うんだ!)))

 ブラッドは自らを鼓舞し、教会の扉を開け放ち外へ飛び出した。



 教会の目の前には生き残った数人の騎士、そしてアンジールと仮面の女。


 その時、仮面の女は紫炎を纏う大鎌を持っていた。


 アンジールの騎士槍は両断され、紫炎の刃が彼の肩を大きく切り裂いていた。



 紫炎がアンジールの肩を駆け上る。ブラッドは弾かれた様に飛び出した。

 仮面の女は背の紫炎をなぎ払い騎士達を焼こうとする。逃げ遅れた騎士の1人が悲鳴をあげて燃え尽きる。

 紫炎の間を縫ってブラッドが仮面の女の側面に肉薄する。

「喰らえッ!」

 大上段から振り下ろされるブラッドの剣戟。


 仮面の女はブラッドに向き直るため鎌を引き抜こうとする。しかし、抜けない。肩を焼かれながらアンジールが刃を掴み、離さない。

 不敵な笑みを浮かべていた仮面の女の口元に初めて嫌悪の表情が浮かぶ。

「人の子めがッ!」

 仮面の女は鎌を捨てブラッドに向かうも、既に剣は振り下ろされていた。


 泥を斬るかのような奇妙な手応え。仮面の女を斬ったブラッドは一瞬そう考えた。

 ブラッドの騎士剣は仮面の女の肩口からバッサリと腹まで切り裂いていた。

「ハァーッ、ハァーッ……!」

 ブラッドは違和感を覚えた。剣が引き抜けない。仮面の女の裂創から紫炎の光が漏れ出す。


 何かが不味い、ブラッドが確信を得るより先に、仮面の女の体内からこれまで以上の紫炎がほとばしった。

 焼かれる、ブラッドの目に紫炎が飛び込むのとほぼ同時に、彼は胸目掛け飛んできた何かに突き飛ばされた。

「うわッ!」

 地面を転がるブラッド。傍には折れた騎士槍の柄。アンジールの物。


「まさか、アンジール!!」

 燃え盛る紫炎の向こうには哄笑する仮面の女の影。そして大鎌を持ち上げる男の影。

 大鎌を閃き、仮面の女の胸を突き刺し地面に縫いとめる。噴出する紫炎が爆発し、そして次の瞬間には周囲の炎ごと消え去っていた。

 辺りを包んでいた紫の妖光は消え、月明かりだけが残った。


 爆心地には女の仮面と地面に突き立った大鎌、そしてそれを振るったであろう炭像が立っていた。

「嘘だろ……?アンジール……?」

 ブラッドはふらふらと像へ歩く。もはやそれは形を保つ事が出来ず、パラパラと崩れ始めていた。

「アンジールッ!」

 ブラッドの伸ばした手に、炭像の頭部が崩れ落ちる。


「うわああああッッ!!」

 ブラッドの両手の中で、アンジールだったものが崩れてゆく。ブラッドは叫んだ。

「落ち着け、ブラッド!」

 生き残った2人の騎士が暴れるブラッドを抑える。

「団長は立派だった、お前を助け災厄を打ち砕いた。」

 彼らも涙を溢れさせている。


「アンジール……」

 ブラッドはがくりと肩を落とし地面に座り込んだ。

「他に生存者はいないか探すんだ。託宣の騎士として務めを果たそう。それが我らの父の思し召しで生き延びた我々の役目だ。」

 生き残りの騎士が重々しく言った。だが、今のブラッドにはその言葉は酷く虚しく響いた。


「父の思し召しだって……?」

「ブラッド?」

「なら何でアンジールは死ななきゃいけなかったんだ!あの女に勇敢に立ち向かったのはアンジールだ!ぶっ殺したのもアンジールだ!なんで神サマは俺なんかを生き残らせてアンジールを殺したっていうんだ!」

「おい!バカな事を言うな!」


「もし神サマが見守ってるて言うなら、何でチャールズ先輩は教会で助けを請いながら死ななきゃならなかったんだよ!そもそも、こんな託宣が無ければ誰も死なずに済んだんだ!」

「もう止めろ」

「俺はまだアンジールに何も恩返し出来てないのに!二度と返せない借りまで作って!」


「ブラッド、いい加減にしろ」

「アンジールの代わりに俺が死ねば良かったんだ!」

「馬鹿野郎!」

 ブラッドの顔面を騎士の拳が捉えた。地面に這いつくばるブラッド。

「ブラッド……お前が本当に団長の恩に報いたいと思ってるのなら、今やるべきは悔いる事ではなく騎士の本懐を遂げる事だと思わんか」


 殴った騎士の拳はわなわなと震え、涙を流している。もう1人の騎士も、涙を必死にこらえ俯いていた。

「……すいません」

「きっと団長やチャールズ達は父の御元でその功績を讃えられていることだろう。我々は彼らを想い、出来ることをするのだ」

「…………はい」

 ブラッドが顔を上げたその時だった。


「……何だ?」

 突き立った大鎌の根元、女の残した仮面がカタカタと震えている。ぽっかりと空いている眼孔に紫の妖光が灯る。

「そんな馬鹿な……」

「父よ……」

 騎士達の表情が再び恐怖に染まる。

「2人とも、離れ……」

 振り返った騎士は、そのまま再び噴き出した紫炎に呑まれた。


「うわああああ!」

 逃げ出そうとしたもう1人の騎士の心臓を矢のような紫炎が貫く。糸の切れた人形のようにバタリと倒れた騎士は、そのまま声もなく紫炎に包まれた。

 2人を呑み込んだ紫炎が一つになり巨大な火柱となる。妖しく光る仮面が浮かび上がり紫炎の渦から現れた妖艶な手がそれをつかんだ。


「少しは驚いたが……所詮は人の子よ……死から逃れる術を知らぬ……」

 燃え盛る紫炎の中から進み出たのは、最初に現れた時と同じ、戦闘など無かったかのように綻び一つない黒いドレスに身を包んだあの仮面の女であった。

「しかしまあ、日に二度も……ふん、おぬしで終いにしようぞ……」

 女はブラッドの眼前にふわりと舞い降りた。


 ブラッドの胸中に去来したのは恐怖ではなく憎悪。

 アンジールの、騎士団の皆の仇、仮面の女を殺す。

 ブラッドの思考は殺意に塗りつぶされた。

「うらあああッッ!」

 剣を手に飛びかかる。仮面の女は残酷な笑みを浮かべながらブラッドを指差す。指先から紫炎の閃光がブラッド目掛け飛んだ。


 紫光を知覚する間も無く、ブラッドの意識は失われた。

 彼は空中で突如猛牛にはねられた様に、無様に吹き飛ばされた。

 砕かれた騎士鎧の破片が舞い散り、ブラッドはそのまま地面に仰向けに投げ出された。

「生は泡沫の夢……死こそが永遠不滅の真理……」

 仮面の女は宙に浮かび上がり両手を掲げた。


「ああ……今宵は供物がこれ程までに……」

 恍惚の笑みを浮かべていた仮面の女だが、やがてその眉をひそめた。紫炎に貫かれたはずなのに炎上しないブラッドに気づいたのだ。

「こやつ……何故……」

 仮面の女はブラッドの胸元に光る物を見た。それは騎士鎧の中に隠されていた、古びた十字架であった。


「これは……ふふふ……ふふふふ」

 仮面の女は得心した様に頷くと肩で笑い出した。

「ふふふふ!大いなる運命の輪はここに繋がりおるとは」

 仮面の女はブラッドの十字架を掴もうとした。

「ん……」

 十字架に触れた仮面の女の指先が黄金色の光に変わる。

「驚いた……我を呼びし者が聖柱とは」


 仮面の女は黄金色の光を振り払うとあっさりと十字架を取ることを諦めた。

 ブラッドの意識が微かに戻る。

「う、ぐく……!」

「人の子よ……お前の命は既に祭壇に捧げられた羊……」

 仮面の女の背後の空間から現れた時と同じ様な紫炎が現れる。

「ま、待て……!」

 仮面の女は徐々に紫炎に飲み込まれる。


「案ずるな人の子よ……最早お前の意思に関わらず……お前は我の前に現れよう……」

 女の姿は紫炎の中に消え、仮面だけが炎の中に浮かんでいる。

「しばしの別れだ……神に捧げられた魂よ……」

 女の声が遠くなり、やがて聞こえなくなると、仮面は粉々に砕け散った。


「ふざけるな……!逃げるのか!殺す!必ず殺してやるッ!うわああああ!!」

 ブラッドは女が掻き消えた空間に向け叫び続ける。

 やがて声が枯れ涙が尽きた頃、今度こそブラッドの意識は闇の中へ落ちていった。


 ――――――――――――


 遠くから正午を告げる鐘の音が鳴り響く。柔らかい日差しを感じ、ブラッドは目を覚ました。

 身体中に痛みが走る。清潔な絹の布団をはぐると、体のあちこちに包帯が巻かれているのが見えた。

 聖都の病院だろうか。ブラッドがベッドの傍らを見ると、椅子に座ったままうたた寝するエノクが目に入った。


「エノク……?」

 ブラッドの声に、エノクは目を覚ます。

「ん……ブラッド……?ブラッド!気がついたんだね!」

 エノクは椅子を派手に転かし、ブラッドの肩を掴んだ。

「エノク……俺は……」

「君は三日三晩目を覚まさなかったんだ。無事で……目を覚ましてよかった……!」


「三日三晩……俺は……俺は……!」

 ブラッドにあの夜の惨劇がフラッシュバックする。

「エノク!俺は、俺は!」

「落ち着いてくれ、ブラッド。聞かせて欲しいんだ。」

 エノクは優しく諭す様にブラッドに語りかけた。

「エノク……」

「僕は君の口から聞きたいんだ。君の言葉で聞くまでは信じない」


「ああ……分かった」

 エノクの目に見据えられ、ブラッドは少し落ち着きを取り戻した。彼はソドスの村での出来事を、記憶を一つずつ辿るようにエノクに語って聞かせた。

 ブラッドの話の間、エノクは相槌も打たずにただひたすらブラッドの言葉に耳を傾けていた。何かと照らし合わせるかのように。


「……結局、俺のせいでアンジールは……!」

「もういい、ブラッド、ありがとう」

 エノクは血が出るほど固く握り締められたブラッドの手を握り、彼の話を遮った。

「ああ……」

 我に帰ったブラッドは、ベッドに横になった。エノクは立ち上がり、思い詰めた表情のまま窓側へと歩いて行った。


「エノク、俺の話を聞くまで信じないって何のことだ?」

「……託宣が、あったんだ。ソドスの村の災厄の、続きが」

 エノクは窓の向こうの景色を見たまま振り返らない。

「なんだって?」

「ソドスの村を襲った災厄の為に村人は皆死に、騎士1人を残して騎士団は父の御元へ旅立ったと……!」


 エノクは壁に手をつき、かぶりを振った。

「救援の騎士達が向かった時には、君1人を残して皆炎に巻かれて死んでいたというんだ。僕は……僕はその託宣を信じたくは無かった。託宣が真実になるだなんて」

 エノクは振り返る。

「……もう深くは考えない、君だけでも無事で良かった、それだけだ」


 エノクは微笑んだ。

「ありがとうエノク」

「ブラッド、目覚めたばかりの君に言うのは心苦しいんだが、実は父上が君と2人だけで話したいというんだ。」

「聖王が?」

 ブラッドは驚いた。一介の騎士と聖王が直接話す?普通はそんな事はあり得ない。エノクとこうして話しているのは例外中の例外なのだ。


「父上には僕から進言しておく。明日からでも構わないから……」

 エノクの言葉を、ブラッドは手で遮った。

「いや、大丈夫だ。出来るなら、今からでも」

 自分でも説明が付かないが、ブラッドには聖王と直ぐにでも話をするべきだという奇妙な直感があった。

「……分かった、近衛に取り次がせよう」


 エノクは病室から出て行き、室外に控えていた近衛に2、3言ほど話掛けた。

 近衛は深く頭を垂れ、病室を離れていった。

 エノクがベッドの傍らの椅子に戻ってくる。ローブの首元から、紐につながれたあの十字架を取り出した。

「ああ……ちゃんと返せなくて悪かった」

 エノクは首を横に振った。


「いや、いいんだ。治療の邪魔になってはいけないと預かっていたんだが、君の話を聞いた限り、この十字架が君を守ってくれたに違いない。これはやはり、君が持っているべきだ。」

 そう言うとエノクはブラッドの首に十字架を掛けた。

「ありがとう……」

 ブラッドは改めて十字架を見た。


 そこにはあの日の黄金色の煌びやかさなど何もない、鈍色に光る古びた十字架が有るだけだった。

 病室のドアがノックされ、近衛が外から声を掛けた。

「聖王様がお会いになるそうです」


 ――――――――――――


 ブラッドが通されたのは、託宣の祭壇の間であった。

 ここは聖王の許なく何人たりとも入る事は出来ない(たとえエノクでさえも)。聖王は、それ程までに人を遠ざけ、何を語るのだろうか。

 ブラッドには言葉に出来ない確信めいた予感があった。祭壇の前に、聖王が控えていた。


 聖王の顔は、出征前にブラッドが見たよりも更にやつれていた。目に見えぬ何かを恐れるかのように、彼の眼には怯えの感情が常に浮かんでいた。

「ブラッドか……お前が……」

 聖王のしゃがれ声が託宣の間に響く。跪こうとしたブラッドを止め、聖王は続けた。

「アンジールではなく……お前がか」


 アンジールの名を聞かされ、ブラッドの脳裏にあの晩の惨劇がフラッシュバックする。

「思えばお前がエノクと共に国に戻って来た時から定められていたのかも知れぬな」

 聖王は祭壇の傍らに置いてある銀の十字架を手に取った。

「あの日、聖国の民に告げた託宣は全てでは無かった」


 ブラッドは驚かなかった。エノクから聞かされていた違和感とはこの事だったのか思うだけだった。

「あの日託宣には先があった……ソドスの村は災厄に焼かれ、騎士達は父の膝下にて安らぎを得る。しかし、紫炎の災厄の中よりただ1人だけ楽園には迎えられぬ……と」

 聖王がブラッドを指差す。


 ブラッドの胸中は、氷のように冷え切っていた。

 つまり聖王は騎士達が、アンジールやチャールズが死ぬと解っていて死地に追いやったのだ。

 それがこの国の為に尽くした騎士達に向ける仕打ちだろうか。ブラッドは口を開きかけたが、聖王はそのまま続けた。

「ここまでは既に民の知る所だが……」


 聖王は手の中の十字架を見つめながら言葉を探している。

「託宣には……最後の一節がある」

 聖王は十字架をかざし声を張り上げた。まるで民の前で託宣を告げるかのように。

「残されし騎士よ!その命は捧げられし魂!自らの手により災厄の根源を討つべし!」

 わんわんと託宣の間に聖王の声が響く。


 託宣を告げ終えた聖王は立つ事すらままならずその場に膝をついた。

 ブラッドはぞっとする程冷たい目で、聖王を見下ろしていた。

「ブラッド……お前だけが頼りだ。この国に纏わりつく災厄の影を払ってくれ」

 聖王は最早地に頭を着けてブラッドに懇願していた。


(((この男は……いや、この国は……託宣とやらに従い騎士を……アンジール達を見殺し……同じ口で助けを乞うのか……)))

 ブラッドの視界に、祭壇に掲げられた剣が入る。眼前には地に伏す惨めな男がいる。

 ブラッドの手が少しずつ、剣に伸びてゆく。剣の柄に、指が触れた。


 キィ……と、扉が鳴った気がした。ブラッドは振り返ったがそこには誰も居なかった。

 もう一度聖王に向き直ると、弱々しい視線がそこにはあった。

 一瞬あの夜のチャールズの怯えた顔が思い浮かんだ。そして仮面の魔女に剣を突き立てた時の憎しみが再び湧き上がった。

(((俺の目的は……復讐だ)))


 ブラッドは聖王の前に跪き、頭を垂れた。

「騎士の名誉にかけて、父の刃となりましょう」


 聖王の顔が希望を取り戻す。

 だがブラッドの胸中にはただ、仮面の魔女に対する復讐しか無かった。


 つづく

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