第22話
「課長」
思わずすがる思いで目の前の男を見た。
「俺は、」
喉がカラカラに渇いている。
俺は男ですよね。
「君は男だよ。しかも勇気がある立派な男だ」
下世話だけどね、と課長は矢口に顔を寄せ、声をひそめて話した。
「出産に成功すれば君はうちの市役所職員第一号と言う事で莫大な報奨金が出る。退職金に匹敵するかもしれないぞ。昇進ももちろん私からも推すが、子持ちになるんだ、君はもっと身軽になった方がいいんじゃないか? 身体に負担もあるだろうし。まあこの話はおいおい」
無事に出産さえすればお払い箱になる可能性を言われた気がするが、矢口の頭の中は別の疑問が渦巻いており、それに頓着する余裕はなかった。
もし出産に失敗すれば俺はどうなるんですかと尋ねる勇気はない。男性の帝王切開手術は、一度子宮移植手術をした負担がある為か、現在の所失敗すればほぼ死ぬことは免れなかった。出産がうまくいかなかったとしたら、かなりの確立で自分は死ぬだろう。却って挑戦するだけして死ねるのだから悔いはないのかもしれない。しかし俺は恐れているのはそこではない。
出産以前の段階で妊娠しなかったら、受精しなかったら、そもそも俺の精子が使い物にならなかったとしたら。
こんな恐ろしい、足元の地面が今にも崩れ落ちそうな、寄るすべもない不安定な気持ちを妊娠できない女達は抱えていたのか。
元妻はどうだったか。離婚届を静かに受け取ったあの女の顔は、当時どんな様子だったかは、はっきりと思い出せない。ただ、あの時の妻はひどく疲れていたような気がする。いや。
矢口はなぜかこの状況で唐突に思い出した。
そうだ。彼女は用紙を受け取った時、なんとも形容しがたい、しいて言えば泣き出しそうな顔になったのだ。湿っぽい展開は御免だと思いその場から離れたが、その後妻が泣いた様子はなかった。あれは泣き出しそうだったのではなく、安堵した表情だったのではないか。終わりが見えない不妊治療から開放され、「赤ちゃん待ちの誰々さんの奥さん」から個人名で呼ばれる自由を取り戻した顔をしていたのではないか。
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