3-5 深仙脈-レイライン-

 蒼き天の下で、暖かくも輝く庭のごとく、都市に永続とした平穏をもたらす――その決死の心構えが、蒼天機関ガーデンという、どこか現実離れした組織名の由来であった。

 混沌の中から秩序を拾い上げるのは、機関の責務であり流儀でもある。その流儀を象徴するギガストス・バベルの頂上部が、暮れ往く日輪の縁に鋭く重なる姿は、誰の目にも雄大さと神話性を伴って刻まれた。

 新宿区に威風堂々とそびえたつ蒼天機関ガーデンの本部庁舎は、そのシンプルな外観ゆえに、天に向けて掲げられた白い牙とも例えられる。言い得て妙だった。確かにそれは、善良なる都民を危難から遠ざけ、外道を邁進する悪党や、人に害を為す有害獣ダスタニアを狩る為の牙に他ならなかった。


「びくびくしなくていいわよ。簡単な取り調べだけで終わるから」


 大通りに面した長大な階段を昇りながら、先頭を歩く動力機動甲冑マニューバ・アーマーの女が振り返り、ぴったりくっつくように後ろを歩く琴美に、安心させるように言った。

 妖触樹テンタクレイの後始末と、半壊した陽紅亭の修繕保障に関する協議を部下たちに任せ、女は単身で、再牙と琴美の二人をここに連れてきたのだ。


「なんだって、ここなんだ?」


 琴美の少し後ろを歩く再牙が、僅かばかりの困惑とほとんどの不満さを露わにして、足元を指差しながら女に訊いた。女は言葉の意図が上手く掴めなかったのか、怪訝そうに眉を寄せた。


「ここ、とは?」


「そのままの意味だ。本部庁舎なんて大それた場所に連れてこられる覚えはないぞ。俺達は巻き込まれただけだ。言うなれば被害者さ。まさか、あれっぽっちの事件で大がかりな取り調べでも始めるってのか?」


「そちらの事情は関係ないわ。私がここ・・に勤めているから、ここで取り調べる必要があるってだけ。あの辺りは、私の管轄下にある区画なの」


 そこで女は、重要なことを忘れていたとばかりに口を開いた。


「階段の上から見下ろすような恰好で申し訳ないけど、自己紹介させてもらうわね。私は夜城真理緒やしろ まりお蒼天機関ガーデンの副機関長を務めているわ」


「おいおいちょっと待て」と、再牙が難問にぶつかった数学者が如く、銀色の短髪を右手でくしゃくしゃと掻いた。


「副機関長といったら、組織のナンバー2じゃねぇか。そんな立派な肩書きつけた御仁が、デスクワークをほっぽりだして、現場に首を突っ込んでいいのか?」


「ナンバー1の許可は貰っているわ。新宿は私の生まれ故郷だから、常に目を光らせておきたいの。それに、私のお陰で危機を逃れることが出来たんだから、文句は言えない筈よ?」


 夜城は涼やかに言ってのけると、さっさと階段を上がっていってしまった。再牙と琴美は、何とも言えない表情で顔を見合わせたが、すぐに彼女の背を追った。

 階段を登りきったところで、立派な門構えの正面玄関が目に入った。その何とも言えぬ莫大な威圧感に琴美は圧倒されかけたが、再牙は特に驚く風でもなかった。

 玄関を潜った先。広いエントランスフロアへと続く通路の途中に、改札口に似た入館ゲートがあった。そのゲートを見下ろす形で、精巧なガラス造りの釈迦十大弟子の彫像が左右に並び立っている。吹き抜け構造の二階部分にまで到達しかけるくらいに彫像は高く、放つ気迫は十分過ぎた。それが意外にも、メディアセンター然としたエントランスの造りに見事マッチしていて、設計者のセンスの良さが光っていると言わざるを得ない。


 夜城が入館ゲートの読取装置に右手をかざした。生体認証。扉が開いて、再牙と琴美は少し緊張した足取りで女の後に続いた。受付口の真正面に位置するエレベーターの前で夜城は足を止めると、上階へのボタンを押した。百階建ての本部庁舎のうち、それは二十五階まで到達可能なエレベーターだった。


「着替えないのか?」


 エレベーターが到達するまでの間を繋ぐためだろうか。再牙が居心地の悪さを誤魔化すように、夜城の着込む動力機動甲冑マニューバ・アーマーの武骨さに、わざとらしく眉をしかめて言った。


「そんな大層な着物を着込んでいたら、エレベーターの重量制限に引っ掛かるぞ」


「ご心配なく」


 夜城は不敵な笑みを浮かべると、甲冑の中心部に埋め込まれている黒い菱形のボタンを強めに押し込んだ。動力機動甲冑マニューバ・アーマーが縦に細長い虹色の粒子に包まれ、およそ三秒と経たぬ間に消失した。代わりに、バイオレットカラーのぴっちりとした防護スーツに包まれた夜城の肢体が現れ、そのモデル顔負けの美貌に得意げな面持ちを宿して言った。


「私たちは空間転移技術を限定的に実用化させ、質量問題を解決した。その賜物がこれ」


「空間……転移……」と、呆然自失気味に呟いたのは、琴美ではなく再牙だった。


「パソコン上におけるファイル移動みたいなものよ。ここの地下一階にある武装保管庫に、装備一式を転移したの。当然、一方通行じゃないわ。転移有効範囲内だったらどこへだって、どこからだって、さっき着ていた甲冑だけに留まらず、ありとあらゆる兵器を瞬時に転移可能。数年前に実現化された技術でね。実装当初から大いに役立っているの」


 名を馳せた先祖の偉業を語るように誇らしげな表情を見せる夜城だったが、喋るのに夢中なあまり、彼女は気づけなかった。空間転移という言葉を聞いた途端、時が止まったかのように立ち尽くし、視線をふと夜城から逸らした再牙の様子に。琴美だけが、そんな再牙の不自然な素振りをはっきりと知覚していた。

 最初は、再牙が空間転移の技術に驚いているのかと思ったが、そうではないと悟った。思えば、彼が愛用しているオルガンチノのポケット機能だって、空間転移技術の応用のようなものだし、あんな馬鹿でかい拳銃を軽々と操る男が、いまさら都市の技術力の高さに驚くのはどこか変に思えた。

 どちらかと言うと空間転移技術そのものより、その技術の背後にある何かの気配に驚愕しつつ、どういうわけか後悔の念を浮かべているようだった。


 チンと、グラスとグラスを重ね合わせたような、エレベーターの到着を知らせる音が鳴った。再牙と琴美が乗り込んだのを確認して、夜城が十七階のボタンを押す。エレベーターは揺れを全く感じさせない安定性を保ちながら、三人をあるべき場所へ送り込んだ。

 二十三階へたどり着き、ドアが開いた時だった。一人の若い男性機関員と出くわした。


「副機関長、丁度良かったです。実は、機関長からご伝言を預かっています」


「私に?」


「はい。先ほど歌舞伎町で発生した妖触樹テンタクレイの一件で保護した男性を、別室に案内して欲しいとのことです」


 男性――火門再牙のことに他ならない。

 伝言を受け取った夜城は振り返ると、その宝石のような瞳に若干の不可解さを滲ませて、自身の右後方で佇む再牙に視線を向けたが、


「分かったわ。それじゃ、あたしはこの子の取り調べに行くから。後はお願いね」


 とだけ言って、再牙をその若い機関員に預けた。琴美と夜城だけがその場に残り、再牙はエレベーターに乗ったまま、若い機関員が同乗する形で上階へ向かうことになった。

 エレベーターの扉が固く閉ざされ、再牙と隔絶された状態になった途端、琴美は一抹の寂しさを感じたどころか、首を真綿で締め付けられるような感覚に陥った。頼りがいのある人物と一時的に離されてしまったことが、自分でも予想外に思えるほどショッキングだった。じっとエレベーターの扉を睨めつけながら、肩を無意識のうちに震わせてしまう。


「大丈夫よ」


 夜城が務めて明るい声を出し、不安を搔き消すように琴美の小さな背を叩いた。


「あの男性も、貴方も、ただちょっとお話を聞くだけだから。拘留したりなんかしないわ。ましてや、バッタの遺伝子を埋め込んで改造人間にさせてしまおうなんてこともないから、安心して」


 夜城が放った前時代的なジョークを受け、琴美はどう反応して良いか分からなかった。その無反応っぷりを見て、場が気まずくなるのを恐れたのだろう。夜城が慌てるような顔になって、さらに付け加えた。


「ま、まぁ貴方みたいに可愛い女の子だったら、バッタなんかより奇紋蝶アロマの羽なんかが似合いそうだけどね」


「出来るんですか?」


「技術的には可能だけれど、やったら犯罪よ。私が取り調べられる立場になっちゃうわ」


 そんなことを話しながらリノリウムの廊下を歩いていると、一番奥のブロックにそれが見えた。『取調室』の表札がかかった部屋。夜城がドアを開け、琴美がおずおずと中に入る。

 部屋の壁際に、簡易なパイプ椅子が二つと地味なテーブルが一つだけ置かれている。刑事ドラマでよく見るセットそのままだ。一方で、窓からは光が入り込み、天井部に設置された排塵装置が常時稼働しているため、埃っぽさや陰鬱とした雰囲気とは無縁だった。


「じゃ、そこに座ってね」


 促されるがまま、先にパイプ椅子に座った彼女と対面になる形で、琴美は静かに腰を落ち着けた。

 夜城が部屋の壁を撫でる。すると、反対側の壁の一部が組木パズルのように立体変形を遂げ、自動書記の作業アームと筆致感圧式の電子ノートが現れた。


「それじゃ、今から取り調べを始めます。こちらから幾つか質問をするから、それに答えてくれるだけでいいわ」


 頷いて、言う通りにした。名前と年齢、《外界》での住所などといった、来訪者端末を通じて分かる情報も念のために聞かれた。もちろん、陽紅亭での一件のことも含めてだ。

 夜城が投げかける質問の一つ一つに琴美が短く答えていくたび、自動書記アームが電子ノートに調書を取っていく。

 話しているうちに、琴美の中で緊張感が少しずつ薄れていき、心の天秤が均衡を見せ始めた。バリが削り取られていく感覚に近かった。そうしているうちに、無意識のうちに作業へ没頭していた。幻幽都市で生きるのに相応しい形へ、心の輪郭を整える作業に。そんな行動に自然と没入できたのには、理由があった。

 夜生真理緒という人物が、肩書に胡坐を掻いて相手を威嚇するような性格とは正反対の人物であったことも影響していたが、それ以上に心が慣れているのだ。

 言葉に悩まされる獣人に出会い、内臓がひっくり返るほどの銃声を聞き、触手の群れに襲われる。どれだけ波乱万丈な人生を送ったとしても《外界》では決して体験できない出来事の数々が、今になって琴美の胸にすとんと落ちてきていた。その、ずっしりとした重りが柔らかな皮膚に食い込んでいくような感覚に必死に寄り添いながら、琴美は自然と目を伏せた。

 空間そのものに身を隠すように。もう後には戻れないという決意を、心の内で唱えながら。


 先へ往くしかない。

 過去を清算ゼロする為に――


 何度も反芻しているうちに、奇妙な実感が沸いてきた。自分は今、確かにここに立っているのだという感覚だ。その自覚こそ、彼女が幻幽都市の『常識』を現実のものとして、正しく受け止めるだけの器を手に入れた瞬間だった。

 見事なものだった。突発的な事件に出くわしても怖気づくことなく、自らの精神を都市の異形さに溶け込ませるなど、この短期間でそうそう出来る芸当ではない。それを実現できたのは、ひとえに彼女自身が何時の間にか手にしていた、精神的な武器のおかげだった。

 自らの精神をコントロールして環境に順応する。どんな過酷な環境にも。 

 それが、これまで琴美が培ってきた習慣が形を変えて現れた武器であり、彼女が頼ることのできる唯一の武器でもあった。他に取るべきものが何も無かったから、琴美は自然とその武器で自らを守るしかなかった。

 そうして、懸命に奮い続けた。武器を。ただ自分の為だけに。辛抱を続ければ、ささやかな幸せが自分のような人間にも、いつか訪れると信じてやまなかった。


 友人もおらず、教師からは相手にされず、父は蒸発し、母は虚無感に喘いで亡くなった。十五年間の薄暗い人生で経験してきた数々の障害が、彼女の世界に囁きとなって現れたのは何時からだったか。

 確かにはっきりと思い出せた。父が蒸発してからだった。

 学校で誰からも相手にされずとも、家族がいれば、それだけで琴美には十分だった。しかし父が家を出て行ったせいで、家庭は静かに崩壊した。唯一の安息の地すらも奪われたのだ。 

 そして囁きだけが、まるで土地を荒らす債権回収業者のごとく彼女の脳裡に棲み付いて離れない。


 お前は、誰かに愛されなければ誰かを愛せないのか? 

 父に愛されたという実感がなければ、父を恨むか?


 そうではないと強く被りを振る。決してそんな不幸で惨めな思想に染まっているような人間ではないと否定する。

 それでも囁きは拭えず、だから彼女は学ぼうと決心した。他者の世界、他所の世界に染まろうとした。自身の世界、つまりは己の価値観を打ち壊すことに執心し、見知らぬ世界に自らを曝け出したくて仕方が無かった。琴美にとって、その行為は今までの人生との決別を意味していた。

 そうしなければいけないと思った。いままでとは違う自分になりたいという願望を抱くようになった。呪言のような囁きを消したくて。そこから逃れたくて。

 だからこそ幻幽都市に……いや、違う。

 目的は父の足跡を追うことだ。そのために、この都市にやってきたのだ。勘違いしてはならない。


「なるほどね。貴方もその年で、難儀な目に遭ったわねぇ」 


 のんびりとした調子で放たれた夜城の言葉に、琴美はぎくりとなって顔を反射的に上げた。一瞬、心の内を見抜かれたのかと思った。誰にも打ち明けたの事ない、浅ましい心の内を。

 しかし、夜城が電子ノートから転送された内容を手持ちのタブレットで確認している姿を見て、そうではないのだと分かり、悟られぬように胸を静かに撫で下ろした。

 彼女が難儀だと口にしたのは、あくまで陽紅亭での一件を指してのことだ。そして、確かに電子ノートには『難儀』と断じてよい出来事がおびただしく書き連ねてあった。


「都市にやってきて新種の妖触樹テンタクレイに襲われるなんて、そうそうあるものじゃないしね」


「あれって、何なんですか? 動物か、それとも植物なんですか?」


 琴美が少しだけ身を乗り出して尋ねた。危機を免れたとはいえ、自分が一体どんな存在に襲われたのかは確かめておきたかった。


「色々研究されているんだけれど、良く分かっていないの」


 壁に手を触れながら、なんとはなしに夜城は話を続けた。


「生態は植物に近くて、でも動物的本能も持ち合わせているから、その中間って感じの生物って仮説が一般的になってる」


 壁の一部が引き出しのように前にせり出し、中にプラスチック製のマグカップがあった。どちらも白い湯気を湛えていた。壁の中に、自動販売機と同等の仕掛けが施されているのだろう。

 こんなところにも都市の科学力は及んでいるのかと、琴美は驚きと共にほんの少しの呆れも抱いた。


「お茶とコーヒー、どっちがいい?」


 気心の知れた友人に話しかけるような口調だった。それだけで、しこりのようにあった緊張感がどこかに消えていくようだった。


「あ、それじゃあ、お茶で……」


 琴美は遠慮がちに希望を伝えてから、片方のマグカップを受け取った。そうして、一口だけ啜ってみる。体の芯に柔らかく届くような暖かみが、精神的なリラックス効果として作用した。


「あの触手たちは、この街が大禍災デザストルに襲われた直後に誕生した怪物でね。くらーい地下に潜んでいて女性ばかり襲う事から、マスコミからは散々な蔑称で呼ばれているの。あれに比べたら、ストーカーや痴漢なんてかわいいものよ」


「気持ち悪かったです。あの触手」


 思い出したのか、げんなりした様子で琴美が正直な反応を見せた。夜城が口に運びかけたマグカップの手を止めて、クスリと笑みを浮かべた。


「そうよね。そう思うのが普通だわ。私も本当はイヤなのよ? あんなセクハラにしか興味なさそうな怪物を相手取るのは」


「すみません」


「ああ、いいのいいの。別に貴方の事を責めているわけじゃないから。それにああいった害獣を討伐するのも、れっきとした私たちの仕事だし。文句は言ってられないから」


「駆除しに来て頂いたのが早くて、本当に助かりました」


 話しているうちに夜城への警戒心が薄れていったのか、琴美は自然な感じで感想と感謝を口にした。


「種明かしすると、あいつらの出現場所は大体予測できるから、こっちも対策は立てやすいのよ。琴美さんは、平将門って人物の事は知ってる?」


 いきなり意表を突くような質問がきた。どうしてそんなことを聞いてきたのか、琴美は戸惑いつつも軽く頷いた。


「学校の授業で少しはやりました。たしか、朝廷に対して反乱を起こした武将で……」


「そうそう、良く知ってるのね」


「最近習ったばかりですから。あの、その人があの触手と何か関係しているんですか?」


「直接関係しているって訳じゃないんだけどね。平将門は反乱を起こした末に捕えられて処刑されたんだけど、その魂を鎮める目的で首塚が建てられたの。この都市に。それでね」


 夜城はマグカップを机に置くと、少しだけ目を輝かせながら続けた。


「その首塚を守護する形で、これまでに色々な寺社仏閣が建立されてきたって話は知ってる?」


「いえ、初耳ですけど……」


「国が主導してそういう事をやってたのよ。江戸時代の頃からずっと。当時の権力者たちは、将門の持つ強い怨念の力を逆手にとって、江戸を、つまりは東京を害悪なるものから護ろうと計画したの。大地震に襲われたり空襲に遭ったりもしたけれど、それでも東京が復興を成し遂げてきたのは、守護神として奉られた将門の力と、その力を都市中に流動させる役目を与えられた寺や神社のおかげよ」


「でも、大禍根デザストルが……」


「そりゃあ確かに、あの災害でも沢山の犠牲者は出たけど、結果的にみれば技術も文化も発展したじゃない。《外界》の力でも及ばないくらいに、立派にね」


 夜城の言葉の端々からは、自信が見て取れた。生まれ故郷である街に対する自信が。

 都市の姿かたちが変わっても、彼女の中でそれはマイナスには働いていなかった。むしろ、優れた技術を獲得した都市に住む住人としての自負があった。それが、幻幽都市で生きる上で大切な心構えの一つなのだろうかと、琴美は漠然と思った。


「それだけ、将門さんの力は大きかったってことですね」


「今でも続いているのよ。将門の力は」


「そうなんですか?」


「あの大災害を、首塚は傷一つなく乗り越えたからね。首塚を守護し続けてきた寺社仏閣も。後で、それらの箇所の地下を探査して分かったんだけど、どうも人間の目には見えない『気の流れ』が循環しているようなのよ」


「気の流れ、ですか?」


「それを、この都市では深仙脈レイラインって呼んでいるわ。パワースポットの発生場所。害悪なる存在を跳ね返す『結界』としての役割を持つ。つまりは深仙脈レイラインが正常に働いているおかげで、この都市はなんとかバランスを保っていられるの」


「まさか、その深仙脈レイラインに沿って、あの触手たちが棲んでいるって言う訳じゃないですよね?」


 へぇ、と夜城が感心した声を出した。


「勘が鋭いわね。まさしくその通りよ。あの怪物たちが常日頃から出現しているってことは、それはつまり深仙脈レイラインが正しく機能して、都市を崩壊の危機から護ってくれているってことなの。逆に言えば、深仙脈レイラインが何らかの方法で傷つけられると、良からぬ事態を都市に呼び込む事になるわ」


 そこまで話し終えると、夜城は一区切りをつけるようにマグカップを口に運び、コーヒーを啜った。


「何事も一長一短よ。都市の技術は素晴らしいけど、必ずどこかに綻びがある。ジェネレーターもそう。完璧な能力者なんていない。完璧なんて、どこの世界にも存在しないのよ」


 マグカップを机に置くと、ところで、と夜城が話を変えた。


「あなたと一緒にいたあの男性についてだけど、彼は何者? まさかと思うけど、都市渡世トライブの人じゃないわよね? すごく人相が悪いけど、なんであんな人と一緒にいたの?」


「万屋さんですよ。私、あの方に依頼をお願いしているんです」


「万屋……なるほどね。一応念のため、名前も聞いておこうかしら」


「火門再牙さんっていう方です」


 それまで穏やかな物腰でいた夜城が、琴美には気取られないレベルで表情を強張らせた。

 今この場面でその名前が飛び出た事に驚き、それでも持ち前の自制心で無理やり抑え込んだ。

 代わりの反応として、琴美には見えない角度で夜城は唇をゆっくりと動かした。

 かもんさいが……と言う風に。

 それから、これは何かの間違いだと言い聞かせたいのだろう。夜城は長髪を軽く揺らすように頭を振ると、念入りな口調で琴美に訊いた。


「変わった名前ね。どんな字なのかしら」


「ええと、『火』に門番の『門』、それから、再起の『再』に、『牙』という字です」


 言葉のピースをそっくりそのまま、夜城は自分の頭の中で組み立てていった。そうして出来上がったパズルの完成形を見て、今度こそ自制できぬほどの衝撃に見舞われた。

 火門再牙。夜城真理緒は、その名を知っていた。

 報告書に記された彼の素性も、頭の中に叩き込んでいる。

 彼が如何なる人物であり、如何なる因縁を機関と結んでいるかまで。


「あの、どうかしたんですか?」


「あ、ああ、ごめんないさい。いや、だいぶ変わった名前の人だなと思って、驚いちゃった」


「ですよね。私の獅子原って苗字も珍しいってよく言われるんですけど、あの人はそれ以上だと思います」


「まるで、偽名みたいね」


「ああ、確かに。そう言われても、不思議じゃないですね」


 琴美はついに気が付かなかった。 

 夜城が垣間見せた、複雑な心の動きに。







 琴美と別れた再牙が若い機関員の案内で連れてこられた場所は、二十五階のとある一室だった。いわゆる応接室というところだ。取り調べに向いた部屋ではない。相手に何かを訊き尋ねるより、何かを要請するのに向いた一室だった。

 電子開錠されたドアの向こうに目をやれば、黒壇のテーブルと高級感のある白革のソファーが、来客を待ち構えるように置かれていた。

 機関員が「そのままお待ちください」と言って応接間を後にしたので、一人残された再牙はずっと立っているわけにもいかず、部屋の中に足を踏み入れ、窓側のソファーに浅く腰を下ろした。

 彼にしては珍しいことに、面持ちから硬さが抜けない。これから自分が邂逅するだろう男の姿を思えばこその反応だった。だが、こんな気持ちでいることを相手に悟られる訳にはいかなかったので、ぐるりと部屋の内装を観察し、少しでも気分をこの場の環境に慣れさせようとした。


 自室のボロアパートが猫の額に思えてしまうほど、応接室は広大だった。縦にも横にも広く、奥行きを演出するような設計の下に組み上げられたのが良く分かる。大理石の床は、一切の不浄を拒むように磨き上げられていて、壁という壁は白粉を練り込んだように白かった。立派な額縁に収められた風景画が、さながらコレクション・ルームじみて際立って見えるのは、そのせいだろう。 

 部屋の奥まった箇所には、がっしりとした造りの事務机が配置されていて、その近くには背の低い本棚がずらりと並べられていた。小難しいタイトルが刻印された背表紙が、囚人に浴びせる監視の視線さながらに、再牙を睨み付けている。そう思えてならない。

 どうしてお前のような大罪人・・・がここにいるのだ、とでも言いたげに。

 実際、彼らに口と知性があれば、そのような台詞を口走るかもしれないと想像した時だった。


「やあ、待たせてしまって悪いね」


 昔懐かしい旧友に再会したような調子の声を耳にしても、再牙はうろんな視線をその人物に向けただけで、一言も挨拶を口にしなかった。

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