或る格闘技者の哀歌

格闘技に憧れ、いつかは習いに行きたいと思っている方は、その前に是非このエッセイを読むべきだ。
底辺格闘技界を生きた著者は警告する。格闘技をやることは素晴らしいことではないと。

こういうサイトでこういう前置きをすることには是非があるかもしれないが、私は著者とは知己の間柄である。なので、彼が格闘技を学ばざるを得なかった経緯を知っている。そして格闘技によって人生を救われたという経緯もだ。
しかし、それでも彼は言う。格闘技をやることは素晴らしいことではないのだと。

私たちが格闘技を見る時、そこにあるのはテレビの中で華やかに演出されたスター選手の物語ばかりだ。だが、一握りのスターが浮かび上がった沼の底には、多くの選手や関係者が、腐臭のする暗闇の中でもがいている。まともな神経をしていれば人をぶっ叩く術を、金を払ってまで学ぼうという人間はまずいない。ましてや、いい大人になってもそんな界隈で生きていこうという時点で、どこかの配線が狂っているに違いない。そして、そんな人間が形成しているコミュニティが、常人とは相容れないのは当然のことなのである。磁場が歪んでいる。好んで集まる人間はそうはいない。故にそこに集まるのは、そこに集まらざるを得なかった人々ということになる。会費集めしか興味のないトレーナー、選手のファイトマネーをピンハネする会長、イキがる場所が欲しいだけのチンピラ、方やそれらを“武道”という言葉で美化し、健全な青少年の育成を装う者さえもいる。

著者もそういった人間の一人だった。しかしその世界にこそ彼の救いはあった。だが彼は、その“救い”は虐げられた者が手にする矛のようなものであり、そもそも虐げられなければそれに越したことはないことを知っている。救いを必要としない人生こそが素晴らしいのだ。

とはいえ、著者の人生が格闘技で救われたのは紛れもない事実であり、故に救われた物への愛や想い入れがある。文中、著者はジム経営やキックボクシング界の未来を色々と憂う。だが上述したように、やる気のない経営者にビジョンのないキック関係者と、やはりイビツな磁場は厄介な者をおびき寄せ明るい未来はなかなか見えてこない。今日も彼の不満は溜まっていくばかりである。しかし、それでも著者はこの界隈をきっと愛し続けていくのだろう。捧げることで救われる人生も、また存在するのだから。