8-1

 エリオットが意識を取り戻して、まず気づいたのは酷い匂いだった。吐瀉物と排泄物の入り混じった悪臭だ。目を開き、その原因は何かと確認する。自分の服は茶色く汚れていた。吐瀉物が乾いたのだろう。周りを見ると、そこら中に糞が落ちている。最悪の場所だ。エリオットは落胆した。身体は鉄の椅子に縛り付けられている。少し先にテーブルがあった。その上には剣、斧、短刀、ハンマーが並んでいる。壁にも大体同じようなものが掛けられていた。窓はない。壁は石造りで、横穴を掘っただけのような簡素な場所だった。どこかの地下にある拷問部屋だろう。専用の器具も見える。

 エリオットは溜め息を吐いた。

 口の中が切れていた。痛む。鼻は穴の中で血が固まって呼吸がし辛い。両手が塞がっているので、ほじくろうにもどうにも出来なかった。

「誰か――」

 声を出したが、思いのほか小さい。エリオットは気力が尽きかけていることに気づく。どこも動かしていないのに身体の節々が痛んだ。

「起きたか」

 小さな鉄の扉が開いた。入ってきたのはハンスだった。

 エリオットは笑ってしまう。

「何がおかしい」とハンス。

「いや、だって」

「気でも狂ったか」

「そりゃそうだなって思って。誰かを呼んだところで、自分を助けてくれるような奴が来るはずないなって、あんたを見て思ったんだ」

 エリオットは笑い続けた。

「あぁ。お前、やっぱり気が狂ったのか」

 ハンスはエリオットを殴った。「これで目が覚めたか」

 怒声が響く。

「悪い。悪かった」

 身体を固定されている分、衝撃が流れず全てがエリオットに降りかかる。涎が口から垂れた。どうしようもない。垂らし続けるしかない。

「お前、これから死ぬぞ。わかってるのか?」

 エリオットは息を呑んだ。ハンスの言葉はこうなった時点でわかりきっていたことだが、面と向かって言われるときつい。

 返事が出来ない。死にたくない、と考えてしまう。

「拷問の末、死ぬんだ」

 ハンスは壁にかけられていた鞭を持った。

「ほら」

 しなり、エリオットの肩へ、鞭の痛みを知るのは初めてだった。

「あぁ」

 思わず声が漏れる。抑えきれない。すぐに二度、三度と振り下ろされた。痛みは増す。これがどれくらい続くのか。考えるだけで絶望した。汗が止まらない。

「死にたくないだろ」

 ハンスは言った。鞭に飽きたらしい。テーブルの上にある短刀を手に取り、刃をなぞった。

「返事がないな。反抗的な態度だ」とハンス。「死にたいのか?」

「死にたくない。決まってる」

「一言多いんだよ」

 左腕を切られた。

 痛みが声になる。出血を確認した。勢いは思った以上だ。傷口を目視したら痛みは増した。

「あの女はどこだ」

 ハンスは言った。

「あの女ってのは誰だ。名前を言わなくちゃわからない」

 殴れらた。

「お前の相棒だ。アンナって女だ。ご主人様の帳簿を持って逃げた女だよ」

「知らない。あいつがどこに行ったかなんてわからない」

 もう街を出ているかもしれない。

「お前ら仲間なんだろ?」

「違う。お前のご主人様に雇われて一緒に行動した。それだけだ」

「じゃいいだろ。アンナの居場所を吐け」

「知らない。本当だ。どこへ行ったかなんてわからない」

「歩きたいか?」

「何がだ」

 話題がそれた。

「このままだとお前は歩けなくなるまで拷問されるって言ってんだよ」

 ハンスの顔が近づいてきた。

「それは困るな。ニュルンベルクまで歩くつもりだったんだ」

「生意気だ。話す気はないか」

「本当に知らないんだ」とエリオット。

「それじゃいくか」

 ハンスは短刀を振り下ろした。エリオットの右太ももに刺さる。ラツァルスの気持ちがわかった。悪いことをしたと謝りたくなる。

「痛いか?」

 汗が噴出して止まらない。

「あぁ」とエリオット。

 顔を殴られた。肩から上に力が入らない。俯いた。右の太ももに赤く滲んでいた。

「話す気になったか?」

「わからないものは言えない」

「妹はカテリーナって名前だったな。俺たちが知らないと思うか?」

「お前――」

 エリオットは叫んだ。身動きが取れないが腕に力がこもる。前に出て、ハンスの頭をふっ飛ばしたいが出来ない。奥歯を噛み締めた。

「アンナはどこだ」

 エリオットは考えた。だがカテリーナのことが頭から消えない。妹に危害が及ぶ可能性がある。

「どこへ行ったかはわからないが、俺たちは『白い鶏亭』っていう宿屋に部屋を取っていた。そこへ行けば何か手がかりがあるかもしれない」

 エリオットは目を伏せたまま話した。右の太ももは血で赤い。足元に血だまりが出来つつある。

「次は殺し来る」

 ハンスは短刀を置いて、部屋から出て行った。

 ほぼ無音。殺風景な拷問部屋にエリオットは残された。深い傷口は容赦なく血を吐き出す。鼓動に合わせて痛みが身体中に響く。

 一人になり、身動きが取れず痛みに耐えるだけの時間。これならまだハンスに甚振られたほうが良かった、とも考える。

 死ぬのか――。

 そう思う。

 エリオットは目を瞑った。妹のカテリーナのことが思い浮かんだ。

 自分はニュルンベルクのお尋ね者だ。その妹となったら、評判はがた落ち。持参金も自分が使い込んでしまった。結婚は出来ないだろう。何よりも、カテリーナに何一つ真実を話せないまま、果てていく。それが辛く情けなかった。カテリーナは兄が陥れられた陰謀などに気づくことなく、これからは世間を呪いながら生きていく。想像するだけでエリオットの胸が締め付けられるようだった。出来ることなら、持参金を使い込むあの日に戻りたい。盗賊に奪われた荷のことは忘れて、またやり直せばよかった。損失を埋めるために、博打に出た自分を責める。

「クソ――」

 死にたくない。死んでたまるか。

 後悔と怒りがエリオットの中で渦巻いた。無駄な足掻きとわからいながら、縛られた身体を必死に動かす。

 だが縄はきつく縛られており、緩む気配はない。

「死ぬもんか」

 鼓舞するつもりなんてなく、自然と言葉に出していた。何かにぶつけるように身体を縄の中で動かし続けた。

「あぁ!」

 肩に痛みが走った。左肩が外れた。あの時と同じだ。ハンスに追われてアンナに助けられた夜だ。どうやら骨が外れるのが癖になったらしい。

 だが肩が外れ、腕が弛むと、その分、エリオットを縛っていた縄に余裕が出来た。右半身を捻ると、右の肘が縄から抜け、そのまま右腕全体が解放された。

「やったぞ。クソったれ」

 大声は出さない。小さな声で悪態を吐いた。エリオットは足の縄を解く。立ち上がった。左の腕を掴んで肩に押し込んだ。息が止め、痛みに耐えた。

 ハンスに対する怒りが沸いてきた。あいつは最後になんて言った。奴は「次は殺し来る」と言った。

 エリオットは思い出して、テーブルにある斧を手に取った。確実に仕留めたい。どうすればいい。

 足音が聞こえてきた。大きくなる。近づいてきている。ハンスだ。言葉通り戻ってきた。

 空席となった椅子。椅子が赤く汚れている。足元も同じだ。エリオットは再びそこに座り、すぐに解けるよう身体に縄をかけた。椅子の後ろに斧を置いておく。完全じゃなくてもいい。ハンスが近づいてくれば良かった。エリオットは俯く。まるで死人のようにハンスが戻ってくるのを待った。

 エリオットの準備が出来てからすぐに、足音が止まった。

 扉が開く。

「また来たぞ」

 エリオットは上目遣いでハンスを見た。皮袋を持っている。口に近づけた。ワインだ。紫色のワインがハンスの口の端からこぼれた。汗が滲む白いシャツを汚す。

「死んでないか? これから拷問の時間だ。しっかり甚振ってやるからな」

「あぁ」

 ハンスはテーブルの短刀を取った。刃を眺めて笑っている。もう一回、皮袋に口をつけた。ワインが好きらしい。

「お前らはご主人様に逆らったからな。宿屋には兵士を走らせた。アンナも時間の問題だ」

「どうして俺たちはこんな目に遭わなきゃならない」とエリオットは呟いた。

「それはお前、邪魔だからだよ」

 エリオットは話を聞いた。

「ご主人様はこれから帝国を手に入れる」

「帝国ってどこのだ」

「この神聖ローマ帝国だ。ご主人様は神聖ローマ帝国の新しい皇帝になるのだ」

「ヴァレンシュタイン卿がか。確かに大物だがニュルンベルクの話だ。だが皇帝にはなれない」

「お前はここで死ぬ。だから全てを教えてやる」

 ハンスはしゃっくりをする。「ご主人様は皇帝マクシミリアン一世を殺す。このフライグルクでな。そして新たな皇帝となる」

「随分と急な話に聞こえる」

「お前みたいな馬鹿にはそうだな」

 ハンスが近づいてきた。「これからお前をじっくり殺す。なるべく残虐に痛みを与えることをご主人様は望んでおられるからな」

 エリオットは唾を飲み込んだ。そうだ。もっと近づけ。

「まずは爪と肉の間にこいつの刃をゆっくり差し込む。両手十本、その後は両足十本。じっくりとお前の爪を剥がしていく」

 エリオットは黙って聞く。

「次は耳を削ぐ。ゆっくり丁寧に皮からちょっとずつ切れ目を入れて削ぎ落とすんだ」

 ハンスはげっぷをした。

「その後は鼻にこいつを突っ込んで、その穴を広げてやる」

 上機嫌だ。声量が大きくなっている。

「見えるか? この短刀でお前を殺すんだ」

 ハンスがエリオットの目の前に立った。

 今だ――。

 エリオットは椅子の影に隠した手斧を取り、立ち上がった。驚き、目を見開くハンス。エリオットに躊躇いはなかった。ハンスの腕を切り落とした。短刀と腕が床に落ちる。刃が音を立てた。次に響いたのはハンスの悲鳴だった。崩れ落ちた。血溜まりが出来る。

「俺の腕がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 傷口を抑えて、落ちた腕に這って近づく。皮袋の赤ワインは口を床に開けて、全てを吐き出していた。漏れた紫色のワインは軽い。赤く重い血と混ざり合うと、たちまち染まる。

 エリオットは床を這い蹲り、自制を失うハンスを見て、何を言うべきかわからなかった。ただ怒りが収まることはない。黙ってこのまま頭を割ってやるべきか。それともまずは足に一太刀入れてやるべきか。

 肩を上下させ、呼吸を整える。

「お願いだぁ。たすけてくれぇ」

 床に這っていると、ハンスが大男だと忘れてしまう。醜い命乞いをする姿に傭兵だった男の姿はなかった。

 エリオットは黙って手斧を振りかぶった。

「それはお前の仕事か?」

 ハンスの背中を踏みつける足。

「アンナ」とエリオット。振りかぶっていた斧を横に下げる。

 アンナが立っていた。

「暴力と支配は私の仕事だ」

 テーブルの剣を取り、ハンスの背中に突き刺した。ハンスは吐血し、それからすぐに死んだ。

「よく耐えた、みたいだな」

 傷だらけのエリオットを見てアンナは言った。

「あんたが来るまで待てなかった。この様だ」

「土産だ」

 アンナは腰に差していた聖剣を放り投げた。エリオットは「助かる」と受け取った。

「肩を貸そう」

 アンナがエリオットの脇に入り、腕を肩に巻きつけた。

「悪いね」とエリオットは素直に力を借りる。

「利子は高いぞ」

 アンナは言った。

「死ねばよかったよ」

「今からでもまだ間に合う」

「もう遅い」

「なぜだ?」

 二人は歩き出し、拷問部屋を出た。

「馬鹿から面白いことを聞いた」

「あの木偶の坊か」

「ヴァレンシュタイン卿は皇帝を殺す気らしい」

「マクシミリアン一世を?」

「自分が皇帝になるんだそうだ」

「大きく出たな」

「野望の塊だ」

「殺すのはマクシミリアン一世だけか?」とアンナは聞いた。

「ハンスが言ってたのはそれだけだ」

「私なら全員殺す」

「全員?」

「選帝候七人全員だ。そうしなければ奴は真の皇帝になれない」

「どうして?」

「お前はやっぱり馬鹿だ」

「惑星の書と毒のことを覚えてないのか?」

「忘れちゃいない」

「皇帝になっても投票権を持つ選帝候たちの力は強い。一人で好き勝手何かを決められるわけじゃない」

 アンナはため息を吐いた。「もう私の中では全てが繋がった。細かいところは本人に聞くとして、奴の狙いはわかった」

「俺はまだわからないんだが」

「血が足りてないんだろ。あと頭も足りてない。顔も悪いし、金もないな。そんなお前にはあとで話してやる」

「散々な言われようだな。ちなみにここはどこだ。どこの地下なんだ」

「市庁舎だ」

「あぁ。なるほど」

 どの街も同じだ。市庁舎の地下には牢獄や拷問部屋がある。

「お前は今でもニュルンベルクを守りたいか?」

「そうだな。疲れるけど、そう思うよ」

「実は私もだ」

「意外だな」

「マルコの愛した街でもある」とアンナ。

「司祭を慕ってるんだな」

「色々あった。それでエリオット、お前はもうひと頑張り出来るか?」

「働くつもりはない」

「街を守るんだろ?」

「わかった。やるよ。やる」

「正式なものは明日、他の屋敷で行われるが、今から上の大広間で内輪だけの祝宴が始まる」

「皇帝は?」

「来る。選帝候も来る」

「ここにはハンスがいた」とエリオット。

「ということはヴァレンシュタインもいる」

「急がないと。皇帝が危ない」

「一人で歩けるか?」

「あぁ、なんとか」

「その意気だ。皇帝に恩を売るぞ」

 エリオットの背中をアンナが叩く。「こっちの野望もでかくなくてはな」

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