第20話とある家族の話

 とある家族の話をしよう。

 父親は内科医で母親は元看護師。職場で出会って恋をして、愛を育んで結婚した。

 そして息子が生まれた。それが僕だった。


 だけど次第に歪みが生まれていく。

 くるくると。歯車が狂うように。


 きっかけは父親の仕事場で起こった事件だった。

 患者に投与する薬を誰かが間違えた。医療ミスだった。その結果、患者は死んでしまった。まだ若い少女だった。

 その責任を取らされたのは父親だった。その患者の担当医だったからだ。

 その責任の取り方とは、職を辞することだった。今も昔も医療ミスを犯した医者への対応は厳しいものだった。


 父親は甘んじて受け止めた。辞職することを選んだのだ。

 正確に言えば選ばされたのだった。


 幸い、数年仕事をしなくても生活していけるお金はあった。

 いや、それが幸いだったのかはよく分からない。


 父親は酒を浴びるように飲むようになった。そして妻や子どもに愚痴るようになった。


「私はミスなどしていない。確かに正しい薬を投与するように指示したんだ」

 次第に精神が病み、言動もおかしくなって、とうとう最愛だった妻と子どもに暴力を振るうようになってしまった。

 だんだんと無くなっていく貯蓄に反比例して増え続ける暴力。


 それに耐えきれなくなったのは母親だった。

 父親の代わりに少しでも家計の助けになればと働くようになったのだけれど、それに対する見返りはほとんどなかった。

 罵声と暴力を浴びせる酒飲みの夫。

 心を閉ざし笑顔を見せることが無い息子。

 そして先の見えない将来への不安。

 それらが原因となり、とうとう心が折れて、頭がおかしくなった。


「聡ちゃん、私はどうしたらいいの?」

 唯一縋れたのは、自分の息子だった。

 しかし母親は気づかなかった。

 息子も追い詰められていることに。

 父親の虐待と加えて精神的に病んでしまった母親を見て、悪影響を与えられなかったわけがなかった。


 息子は久しぶりに笑った。楽しそうに愉快そうに。

 犯しそうに、笑った。

「死のうよ母さん。生きていたって楽しいことなんてないんだから」

 息子は続けて言った。

「母さんとだったら、一緒に死んでいいよ。大丈夫だよ、怖くなんて無いよ」


 そのとき、息子は小学生だった。

 小さい頃から頭も良く、達観していた嫌な子どもだった。

 だからあっさりと死を選ぶことができた。


 とうの昔におかしくなっていた母親はその悪魔の申し出を受け入れてしまった。

 母親は父親の酒と息子の食事に睡眠薬を混ぜた。

 息子と父親は薬が効いて、すぐに眠った。

 ここからは聞いた話になる。

 母親は父親の首を絞めて殺した。

 そして家に火を放った。

 自分は包丁で自らの喉を刺した。

 流石におかしくなっていても最愛の息子を直接手にかけることができなかったらしい。

 息子の身体は炎に焼かれて死ぬ――はずだった。

 だけど、消防車が間に合ってしまった。


 どうしてだろう。

 深夜に火を放ったのに。

 誰も見ていないはずだったのに。

 確実に死ぬはずだったのに。

 息子は――助かってしまった。

 一人だけ、生き残ってしまったのだ。

 息子は後悔した。自分だけ生きてしまったことに。


 病院の中、火傷の後遺症で苦しみながら、息子は思った。

 僕は死ぬこともできないんだ。

 かと言って生きることもできない。

 だったらいいや。

 もうどうでもいいや。

 無気力に生きよう。

 面倒だけど生きよう。

 情熱なんか持つものか。

 仕方なく生きることを始めよう。

 そうして、僕は改めて生まれた。

 一度死んで、生き恥を晒すことになったんだ。




「そういうわけで、僕は二人も殺したんだよ。人殺しなんだよ」

 僕が語り終えても河野ちゃんは何も言わなかった。ただ黙って、僕の手を握ってくれていた。

 誰にも語っていない事実。

 誰にも言えなかった真実。

 それらを暴露したところで救われるかどうか分からなかった。


「河野ちゃんは僕のことを軽蔑するかい?」

 その問いに河野ちゃんは答えなかった。

「河野ちゃんは僕が悪いと思うかい?」

 その問いに河野ちゃんは答えなかった。

 俯いていて、前髪で顔が隠れていて、よく表情が見えなかった。


 僕は河野ちゃんの手を振り払おうとした。多分軽蔑されていると思うし、人殺しの手なんか触りたくもないだろうし。

 だけど、振り払おうとしたら、強く握り返してきた。


「河野ちゃん……?」

「田中くんは、悪くなんかないよ」

 声が震えている。もしかして――


「なんで、河野ちゃんが泣いているんだ?」

 身体も小刻みに震えていて、それが弱々しく感じられて。

「だって、田中くんが、泣かないから」

 河野ちゃんは顔を上げた。

 大粒の涙で顔が覆われていた。


「なんで、田中くんは泣かないの? ツラいはずなのに、どうして泣いたりしないの? いつだって、泣きたいはずなのに、どうして、泣いたり悲しんだりしないの?」

 僕は答えを知っていた。だから言った。


「もうとっくに壊れているからかな。悲しいってことが分からないんだ」

「そ、そんなの嘘だよ!」

 突然、大声で叫ぶ河野ちゃん。ますます握る手を強くする。


「悲しくないわけ、ないじゃない!」

 心に響くように伝わる声だった。


「だって、いつだって、田中くんは悲しそうにしてた。私と話しているときも、時々痛みを堪えているようだった。初めて会ったときも、背中が淋しそうだった。だから話しかけたんだよ? 私と一緒で、淋しそうだったから……」


 僕が泣くとしたらこのタイミングだった。この機会を逃したら一生泣けないと思った。

 だけど泣けなかった。

 両親の死に責任を感じているはずなのに。

 ここまで言ってくれる河野ちゃんがそばに居てくれるのに。

 何故か泣くことができなかった。


 僕は壊れているのかもしれない。

 僕は欠けているのかもしれない。

 あの日の病院で、僕は大事なものが無くなってしまったのかもしれない。

 推測に違いないけど、多分間違っていないのだと思う。

 身体と共にただれて醜くなってしまったんだ。僕の心は。


「ごめんね。河野ちゃん。泣くことができないんだ」

 僕はゆっくりと手を解いて、泣いている河野ちゃんを抱きしめた。

 河野ちゃんは嫌がることなく、僕の胸で泣き続けていた。さっき言っていたように、僕の分まで泣いてくれるように。


「悲しいとかって感情を僕は失くしてしまったみたいなんだ。どんなにツラくても、どんなに苦しくても、僕は泣けない。そういう風に出来上がってしまっているんだ」

「どうして、そんなに、自分を追い込むの?」

 河野ちゃんは泣き続けながら僕に訊いた。


「泣いても、いいのに。どうして――」

「それが罪の意識だからかもしれないね」

 僕は自分の心理を語り出した。


「十字架を背負っているからこそ、自分のために泣くことはできない。だってそうだろう? 自分が悪いクセに、自分が悲しむなんて滑稽だと――」

「だから、田中くんは、悪くないよ」

 泣きじゃくりながら河野ちゃんは言う。

 それだけは譲れないとばかりに。


「だって、仕方なかったじゃない。毎日虐待されて、正しい判断なんてできないよ。死にたいって思うのも、分かるよ。だって――」

 河野ちゃんは強く僕を抱きしめ返した。


「だって、私も同じだったから! いつも死にたいと思っていたから! だけど、そう思わなくなってきたの」


 河野ちゃんの語気が優しく感じられるようになった。

「田中くんに出会って、毎日話して、お父さんの暴力から助けてもらって、毎日怯えなくなくなって、楽しくなって、助けてもらえたんだよ」

 僕は不意に切なくなって、河野ちゃんをさらに強く抱きしめた。


「そんな恩人のことを悪く言わないでよ。私の好きな人を卑下しないで。お願いだから、自分を壊れているなんて思わないで。欠けているなんて感じないで。だって――田中くんは優しい人だから」


 僕はそれを聞いて、ようやく気づいた。

 河野ちゃんを守ろうと思っていたけど、逆だったんだ。僕が河野ちゃんに守られていたんだ。だから守りたかったんだ。


「ありがとう。河野ちゃん」

 僕は感謝を言葉にしなくちゃいけないと思った。そうしないと僕は壊れている人間じゃないって証明できないから。


「僕のことを壊れていないって言ってくれてありがとう。欠けていないって言ってくれてありがとう。嬉しいよ」

 心からの本心だった。計算とか打算とかそんな不純な機械的なものは一切ない、純粋な感謝だった。

 胸にこみ上げてくるものが生まれた。それがなんなのか分からないけど、それが心地良かった。


「僕は河野ちゃんにもらってばかりだね」

 僕は頭を撫でた。さらさらしていて、流れるように綺麗だった。


「そんなことないよ。私のほうがたくさんもらっているよ」

「じゃあ互いに与えているんだね」


 僕たちは一緒だった。痛みも悲しみも共有したけど、同時に楽しさとか嬉しさとか、そういったプラスなものを与えられていた。

 共依存になりかけていたのかもしれない。僕たちは心の傷を舐めあっていたのだ。

 だけどそれのどこが悪いんだ?


 心の傷は一生治らない。それは分かりきっていたことだろう? それをどうにかしようと考えるのがどうかしているんだ。

 僕たちは抱き合ったまま、しばらく黙ってしまった。もう僕たちに言葉は要らなかった。


 真の意味では気持ちを共有できることはできないのかもしれない。だから言葉があるのだろう。だけど心を通わせた人同士だったら、伝える必要もないのかもしれない。


 互いの体温を感じて、しばらく経って。

 自然と僕たちは離れた。名残惜しかったけど、離れたくなかったけど、もっと触れ合いたかったけど。

 河野ちゃんの目を覗く。ひたひたと黒目が濡れていた。


 壁に掛けてある時計を見た。結構遅い時間になってしまった。

「河野ちゃん、今日はここに泊まる?」

「ううん。帰るよ。もう学校が始まっちゃうから、帰って勉強しないと」

 そうか。やはり名門私立はたいへんだとぼんやり思った。


「ねえ。三日後、私の中学の校門前で待ってくれる?」

「良いけど、どうして?」


 すると河野ちゃんは悪戯っぽく笑った。


「ふふ。内緒だよ」

 女の子の内緒はあまり詮索しない方がいいって梅田先生に聞いたことがある。

 僕は気にせずに訊ねた。


「何時くらいに終わるのかな?」

「三時半に終わるから、四時に待ち合わせしようよ」

 僕は了承した。どういう意図があるのか分からないけど、何かあるのだろうと思った。


「それじゃあ帰るね」


 そう言って玄関前に歩みを進める河野ちゃん。

 僕はそれに続いて行った。

 玄関のドアを開ける直前、僕は河野ちゃんに何か言おうとした。

 何故か分からないけど、言わなければいけない気がした。

 だから、自分の本音を建前なしに告げた。


「河野ちゃん、僕は河野ちゃんのこと、好きだよ」


「えっ……?」

 河野ちゃんは驚いたように、僕を見つめる。


「こんな僕でも人を守れるって思えるようにしてくれたのも、人を守りたいと思えるようになれたのも、河野ちゃんのおかげだと思う。今まで罪の意識に感じていた両親の死も河野ちゃんのおかげでツラく感じるのが弱まった気もするんだ。本当にありがとう」


 そして河野ちゃんに言う。


「あのとき、友達になってくれてありがとう。河野ちゃんに出会えて、本当に良かったよ」

 僕の言葉に河野ちゃんはにっこりと微笑んだ。


「私も、田中くんのこと、大好きだよ。私のほうこそ、出会ってくれて、ありがとう!」

 そう言って玄関の外に出て、僕に笑みを見せて、そして扉が閉まった。


 僕は言いたいことを言えた充足感で一杯に満たされた。今日はよく眠れそうだなと勝手に思った。

 だけど、僕は神様じゃない。

 このときの会話が、僕と河野ちゃんとの最後の会話になるなんて、予測できなかった。

 予想もできなかったんだ。

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