第7話僕たちは一緒だった

 事件のあった翌日、僕は高台に居た。


「田中くん、どうしたの、その顔」

 驚いた風な声に聞こえるが、実際は無表情のまま訊ねたのは、久しぶりに会った河野静である。


 そりゃあ顔中を包帯などで巻かれた人間に対して言うべき言葉だと思うけど、それでもびっくりした顔もしないとなると、心配されていないような気がしてならない。

 僕は高台でいつも座っているベンチに座った。河野ちゃんも僕の隣に座った。


「まあちょっと喧嘩してね。結構酷いように見えるけど、実際はたいしたことないんだ」

 喧嘩というより一方的に殴られただけなんだけど、それでも見栄を張るのはくだらない男のプライドみたいなものだった。


「嘘でしょ。殴られただけじゃないの」

「…………」

 あっさりと嘘がバレてしまった。何故だろう?


「どうして嘘だと思うんだい?」

「だって、喧嘩したのに手が怪我してないじゃない。つまり殴りあいしたんじゃないってことでしょ」

 まるで名探偵のような推理を披露する河野ちゃん。流石に十三中学校の生徒だった。

 ずばり言い当てられて冷や汗を流してしまう僕。もうすっかり夏だというのに体温が下がる感覚がした。


「それに、もう一つ理由があるの」

 河野ちゃんは何気なく言う。


「田中くんは喧嘩とかしなさそうだし、むしろ喧嘩を見て楽しむタイプだと思うから」

 前半は納得できるけど、後半はいただけない。まるで嫌な奴ではないか。

 ……嫌な奴ではないよな、僕は。


「分かった。降参するよ。そのとおり、一方的に殴られたんだ」

 両手を挙げて降参のポーズを取る。河野ちゃんは「それで解決したの?」といろんな意味が取れる発言をした。

「まあ解決したかな。無理矢理解決に持ってきたって感じかもしれないけど」

 河野ちゃんには一連の虐めのことは喋っていないから、何がどう解決したのか分からないはずだけど、それでもどこか納得したように「ならいいけど」と言う。


 僕たちがここに居るのは約束を交わしたからだ。この日の正午にここで落ち合うと決めていた。本当ならメールやLINEで連絡を取り合えば良かったけど、河野ちゃんはスマホを持っていなかった。ガラケーすら持ち合わせていないのだ。


 子供に物を与えないのは立派な虐待だと思うけど、口には出さなかった。言ってはいけない気がして。

 だから口約束になってしまったけど、高台でお話しようと決めたのだ。

 中学生と高校二年生の男女が会おうとするだけで昨今は厳しい目で見られてしまう。

 そう考えると高台で会うほうが健全なのだ。男女間の友情を世間はなかなか認めてくれないのは悲しいことだ。


 さて。こうして僕たちは集まったのだから、何かお話しなくてはいけない。別に義務ではないけど、こうして顔を見合わせるだけなのはつまらないだろう。


「えっと、学校はもう夏休みに入ったんだね。夏休みはどこか出かけるの?」

 入ったんだねと断定的なのはこうして昼間から会っているからだ。

「ううん。どこにも出かけない。夏休みでも夏期講習があるから」

 流石に名門中学校は受験対策しているのか。夏を制するものは受験を制するっていうから当然だとは思うけど。


「へえ。意外と勉強熱心なんだね」

「みんながやっているから、してるだけ」

 これも意外だった。河野ちゃんは我が道を行くタイプの人間に思えたから。

 案外周りの空気を読むタイプかもしれないな。


「田中くんは何か予定あるの?」


「特にないな。部活に所属しているわけでもないし、勉強も熱心にしているわけでもないからね」


 あきらくんと梅田先生くらいしか交友がない僕だから、二人のどちらかが誘えば予定ができるかもしれないけど、自分からは動こうとは考えなかった。


 夏は薄着にならざるを得ないけど、火傷の痕が酷いから、必然的に長袖にならないといけないので、なるべくエアコンの効いた部屋に引きこもっていたいのだ。

 それに山も海もあまり好きではないし。


「そうなの。お互いに淋しい夏休みになりそうだね」

 思うだけなら良いけど、言葉に出されると厳しいものだと認識させられる。


「それでも、一日ぐらいは休みあるよね河野ちゃん」

 僕は暗い話題を変えようと試みた。

「えっ? あるにはあるけど……」

「家族と旅行でも行ったらどうかな? 受験生でもそのくらいの休暇があっても――」

「それはできないわ」


 言い終わるか言い終わらないかの瞬間だった。ぴしゃりという擬音が想起されるような遮りだった。

 そしてそのまま押し黙ってしまう。いつも無表情な河野ちゃんだけど、何か痛みを堪えているような、何か痛みを言外に訴えているような表情だった。


「……河野ちゃん? どうかしたの?」

 訝しげに訊ねると河野ちゃんは答えなかった。そして目を逸らしてぽつりと何か言った。

 それはとても小さくて、聞こえなかった。


「……ごめんね。訊いてはいけないこと、訊いちゃったみたいだね」

 僕は久しぶりに申し訳ない気持ちで一杯になった。虐められていたときには感じなかった。虐めを解決したときも微塵も思わなかった。だけど少女にこんな表情をさせてしまったのは、自分のことを許せないくらい申し訳ない気持ちになってしまった。


 そこからしばらく僕も河野ちゃんも黙ったままだった。僕はタンポポの絨毯に混じっている白い綿毛が風に飛ばされていくのを見つめていた。


「ねえ。田中くん」

 沈黙をビリビリと破るように口を開いたのは河野ちゃんだった。

「田中くんは両親と仲が良いの?」


 僕は河野ちゃんの目を見つめた。前髪で隠れているけど、不思議と見つめ合うことができた。

「どうだろう。良くはないかもしれないね」

 どこまで話そうか悩んだ結果、包み隠さずに言うことにした。


「僕は、養子だから」


 ざあっと強い風が高台を吹きぬける。

 親から離れたくないと思っていた子どもたちが一斉に離れていく。一筋の白い道が夏の日差しを受け止めて、ここではない遠くへ向かって行った。


「養子? それって、血が繋がってないってことなの?」

 怪我をした顔を見ても驚かなかった河野ちゃんが初めて感情を露わにした。

 それは同情でもあった。驚愕でもあった。

 そしてそれは言葉にできない感情でもあった。いろんな感情が入り混じったものでもあった。


「そうなんだ。まあ一応親戚の人だから、血は繋がっているけど」

 僕は何でもないように語り出した。

「僕の実の父親と義理の父親は兄弟なんだよ。だから今の義父は僕の伯父にあたるんだ」


 そう答えると河野ちゃんは「そう、なんだね……」と言って俯いた。

 ちょっぴりだけ、悲しくなった。

 それを振り払うように、僕は話を続けた。

 悲しくなるだけなのに、話さずにはいられなかった。


「昔、僕の家で火事があってね。僕の両親はそこで死んじゃったんだ。僕もこんな風になっちゃったんだ」

 そう言って、長袖を捲ってみる。

 河野ちゃんは火傷の痕を見て、口元を押さえた。気分が悪くなったのだろう。


「酷いでしょ。一生治らないんだ。手術すれば変わるだろうけど、僕はする気がないよ」

「どうして、しないの?」

 それを訊いてきたのは河野ちゃんで三人目だった。


「これは罰だと思っているから」

「……何の罰なの?」

「一人だけ生き残ってしまった罰」


 そう言って、僕は立ち上がって前に歩き出した。なんとなく座っていられなかったからだ。


「罰なんて感じる必要ないじゃない」

 その言葉に僕は歩みを止めた。背を向けていたけど、声の震えと早口で河野ちゃんが動揺しているのが分かった。

「そうだね。別に罰と思わなくてもいいかもしれないね」

 わざと明るい声で肯定してみた。そして速やかに否定の言葉に移る。


「でもね。そう思わないと生きていけなかった。死んでしまいそうだった。だってそうだろう? 罰だと思わないとどうして生き残ってしまったのか、理由がつかないだろう?」

 両手を広げて、僕は馬鹿にしているような青空に向けて話し出す。河野ちゃんのことは頭の片隅に残したままだった。


「たまたま運が良くて生き残れた。両親はたまたま運が悪くて生き残れなかった。そんなコインの裏表じゃないんだから、微妙な確率で生き残ってしまったら、死んじゃった両親がまるで馬鹿みたいじゃないか」


 実際はもっと根深いものがあるけど、今は語るべきときじゃなかった。

 僕は罰というよりも罪の告白をしている気分だった。まあそれはそれで間違いがないけれど、それでも――


「だから僕は罰を受け入れている。罰を消したりしない。このまま生きていく。汚いとか汚くないとかそんなのどうでもいい。僕は――」


 そこまで言った瞬間だった。


 不意に後ろから抱きしめられた。


「えっ? えっ?」

 いきなりのことに頭がパニックになった。


「そんな背負う必要なんて、ないよ」

 河野ちゃんの声が近くに聞こえた。

 つまり抱きしめているのは河野ちゃんで、抱きしめている理由は不明だった。


「河野、ちゃん?」

「田中くん、どうしてそこまで、背負うの? 田中くんは悪くないじゃない」

 悪くないと言われて、ちくりと胸が痛んだ。


 ごめんね、河野ちゃん。まだ言えないことがあって、言ってないことがたくさんあるんだ。

 実を言うとあの夜の火事は――


「だから田中くんはいつも淋しそうな雰囲気だったんだね」

 僕はそれを聞いて、河野ちゃんの固く結ばれた腕に手を置いた。

「もしかして、だから声をかけたのかい?」

「うん。そうなの。そうなんだよ」

「友達になってとか言ったのもそうかい?」

「ううん。それは違うよ」

 河野ちゃんがますますきつく抱きしめてくる。


「私と一緒だったから」

「一緒? 僕と河野ちゃんが?」

 河野ちゃんはそのままの姿勢で続けた。

「私と一緒だったから。私と同じように苦しんでいたから。見ていられないくらいだったから。だから声をかけたの」

 ああ、ようやく分かった。僕もどうして河野ちゃんと話しているのか。高台に行くついでじゃなくなってしまったのか。遅らせながら気づいてしまった。


 似ているとかじゃなくて、一緒なんだ。証明も要らないくらいに合同な図形のように、ぴったりと合わさってしまうんだ。


 だからこそ僕たちは惹かれあった。


 だからこそ僕たちは気が合ってた。


「だから、自分を責めないで。私も責められている心地になるから」

 僕はその言葉で動けなくなってしまった。まるで地面と足が縫い付けられたように。

 これは――戸惑いと同時に喜びも感じてしまっているからだ。

 やっと仲間を見つけた喜び。同好の士を見つけた嬉しさ。共に歩んでくれる者を見つけた歓喜。

 言葉を尽くしても尽くさせない感動を覚えている。

 同属嫌悪ならぬ同属好意。

 一緒だからこそ理解し合えるのだろう。


「ありがとう。河野ちゃん」

 僕も抱きしめたい衝動に駆られたけど、必死になって抑えつけた。

「慰めてくれてありがとう。一緒だって言ってくれて嬉しかった」

 抱きしめられた腕を解いて、僕は河野ちゃんと向かい合った。

 初めて向かい合えた気持ちになった。

 河野ちゃんは俯いていて表情が見えなかった。それでも伝えたかった。


「僕と友達になってくれて、ありがとう」

 河野ちゃんはその言葉を聞くと、黙って頷いた。


「……私も田中くんと友達になれて、良かったよ」

 その言葉を契機に、河野ちゃんは僕の傍から離れた。そしてそのまま高台から降りようとする。


「河野ちゃん?」

「三日後の午後三時、またここで――」


 そのまま急ぎ足で帰ってしまう河野ちゃん。

 僕は呆然と見送ってしまった。

 後から気づいたけど、それは河野ちゃんなりの照れ隠しだったのだ。

 まあ男子に抱きついて、自分の気持ちを吐露したらそうなるだろう。

 しかしそんなことを気づかないまま、僕は馬鹿みたいに立ったままだった。




 そうしてようやく僕と河野ちゃんは『友達』になれた。

 未だ三回しか会っていないと考えると早いのか遅いのか分からないけど。

 僕の友達が一人から二人になった。

 心の隙間にぴったりと合った感触がして、それは存外悪くなかった。

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