第3話感情の置き場

「それで、誰に叩かれたの?」

 真向かいに座っていて、厳しい声で問いかける十字ヶ丘高校の養護教諭の梅田弥生先生に対して「転んでぶつけたんです」と僕は嘘を吐いた。


「ふざけないで。転んでできた怪我と誰かに叩かれた傷くらい、見分けがつくわよ」

 そう言って僕の頬に冷湿布を乱暴な手つきで貼る梅田先生。


 梅田先生は医大を卒業して間もない二十六歳の女性だ。太目の眉に眼鏡をかけた、それなりの美人さんである。白衣のボタンを留めずに、羽織っていると表現したほうが良い着こなしだった。


「だから誰にも殴られていないですよ」

 嘘を言わずに真実を偽っても、梅田先生の目は誤魔化せなかった。


「殴られたのではなく、叩かれたでしょ。そのくらいも分かるわよ。ていうか女子に叩かれたの?」

 流石に養護教諭になる前は形成外科を志していた優秀な女医なだけはある。僕は降参とばかりに両手を挙げた。


「敵いませんね。そうです。女子に叩かれました。思いっきりね」


 そのせいで僕は授業中だというのに保健室まで足を運んだ。腫れあがった顔で授業を受けるわけにはいかなかったからだ。

 顔を見られれば事情を話さないといけなくなるから面倒だった。面倒くさがり屋の僕にとっては顔を叩かれるよりも苦痛なのだ。


 まあこうして刑事ドラマのような取調べを受けるはめになってしまったけど、なんだかんだ言って梅田先生は担任の木下先生に告げ口するような性格はしていない。

 それでも正直に話してしまうと、梅田先生に心配をかけることになる。だからこそ、バレると分かっていながら嘘を吐いたのだ。


「女子に叩かれるなんて、一体どんなことをしたの?」

「うーん、無理矢理キスを迫ったから、ですかね?」

「なるほど。女の敵ね。殴るわよ」

「もう殴られてますよ?」

「それは平手で叩かれてるの。私はグーで殴るわ」


 そんなテキトーな会話をしつつ、僕は包み隠さずに起きたことを話した。

 話を聞き終えた梅田先生は露骨に顔をしかめた。


「聡くん虐められてるじゃない。ていうか何をしたら女子にそこまで嫌われるわけ?」

「僕も理由がさっぱり分かりません」

 これは嘘だった。船橋さんが僕を虐める理由はなんとなく理解している。山崎が僕を虐めるのは理解できないが。


「でもその言葉はないわよ。『馬鹿じゃないんだから、分かるでしょう』だなんて、挑発しているに決まってるじゃない」

「いや、僕は『馬鹿じゃない』と船橋さんの知能の高さを暗に褒めたつもり――」

「暗に褒めるから叩かれたんでしょうが。なんだか船橋さんのほうに同情するわよ」


 あれ? 被害者は僕のはずなのにな。


「まあいいわよ。このことは木下先生に報告しないであげる」

「ありがとうございます」

「ま、問題にすると聡くんが嫌がるでしょ」


 よく分かっていらっしゃる。手を叩いて褒め讃えたい気分だった。


「それで、このことは近藤くんも知っているわけ?」

 取調べはまだ続いているらしかった。医者というよりも刑事に向いているじゃないかな。

「えっと、山崎に虐められていることは知っていますけど、船橋さんが虐めの主犯なのは知りません」

「……あなたが意図的に隠したわけね」

 やれやれと言わんばかりに溜息を吐く梅田先生。


「その理由を伺ってもいいかしら?」

「それは絶対内緒です。死んでも言いませんよ。たとえ梅田先生相手でも」

 このときばかりは真剣な表情で言ってみる。


 しばらく真剣な表情で僕を見つめていた梅田先生だったけど、やがて目を逸らした。

「解決の見通しはついているの?」

「どうでしょうね。でもいずれ解決してみせますよ」

「その自信はどこから来ているのかしら」

 やれやれと肩を竦める梅田先生。そして眼鏡の位置を直して、僕に言う。


「叔父さんたちは元気にしてる?」

 叔父さんとは僕の義父のことである。僕の義父は梅田先生の父の弟であり、また義父は僕の生みの父親の兄でもあるのだ。

 ややこしいので整理すると、年齢順に梅田父、義父、生みの父親で三兄弟なのだ。

 だから僕と梅田先生は血が繋がっている親戚、従姉弟だったりする。


「元気に人の身体を切り刻んだり、人の精神を弄ったりしてますよ」

「素直に外科医と精神科医って言いなさいよ。嫌っているわけじゃないでしょ」

 うーん、僕の感覚からすると義父さんと義母さんは好きとか嫌いとかがなくて、親戚の凄い人のようなのだ。

 だから未だに馴染めないのだけど。


「叔父さんは日本有数の脳外科医だから気後れする――わけないか。聡くんはそんなの気にする神経持ってないし」

 流石に従姉弟だからか、さっきから思考を読み取ってくる。

「正直に言って、元気かどうか分かりませんよ。昨日も会っていませんから」

「こういう言い方すると誤解を招くから、言いたくないけど、叔父さんには子どもを愛する資格がないんじゃないかしら」


 梅田先生は普段なら言わないことを切り込むように言った。僕は黙って話の続きを待つことにした。

「なんていうか、仕事のほうが好きというより、仕事しかないと思い込んでいるワーカーホリックのような気がするわね。叔母さんもその傾向はあるけれど、それでも聡くんに配慮することもあるし」

 精神科医よろしくそんな分析をする梅田先生に僕はフォローのつもりで擁護した。


「子どもを愛する資格なんてそもそもないですよ。資格が必要なら教習所に行かなきゃいけない話になりますよ」

 分かりやすいのか分かりにくいのか、それすらもよく分からない例え話で煙に巻こうとする僕。


「資格は必要だと思うわよ」

 てっきり軽く流してしまうだろうと思っていたけど、予想に反してこだわりを見せる梅田先生。


「もちろん紙切れ一枚ではなく、心の問題なのよ。人を愛するのには資格、あるいは適格な精神が必要なのよ。それは愛情だったりするわけで、それが欠如する人間は子どもを育てる資格がないのよ」

 どういうことだろう。義父さんと梅田先生は仲が悪くないはずなのに、こうも批判的になるのは、ちょっとおかしい。


「子どもをないがしろにする大人は居ないほうがいいわ」

 そう言って、梅田先生は黙り込む。机の上にあったペンを右手で弄っている。これは梅田先生が考えをまとめているときの仕草なのだ。

 何が言いたいのだろう。そう考えて、僕は思い当たることに気づいた。


「まあそれを言うなら、僕の生みの親は資格どころか失格だったんだろうね」


 駄洒落を交えた笑い話として言うつもりが、声音が思いのほか低く、しかも敬語じゃなくなってしまったので、真面目なトーンになってしまった。

 ハッとした顔で梅田先生は僕の顔を見た。僕も梅田先生の顔を見た。悲しげな表情になってしまっている。


「いや、私、そんなつもりはなかったんだけど――」

 僕も梅田先生を困らせるつもりはなかったけど、結果的にそうなってしまった。


 そこから互いに沈黙してしまう。何を話せば良いのか、僕も梅田先生も分からなくなってしまった。

 しばらく悪い空気が漂って。


「……両親のこと、恨んでいる?」

 搾り出すような小さな声だった。梅田先生とこうした突っ込んだ話をするとは思わなかったので、戸惑ってしまう。

 僕は本心を打ち明けるべきか、数秒悩んでから――


「うん。昔は恨んでいたかな」

 衝動的に本心を話してしまった。


「聡くん――」

「あんなのが親じゃなかったら、僕もまともな性格になれたと思うと、怒りたくなるよ。でももういいんだ。だって死んじゃったから」

 死んでしまった人間を恨んでも仕方がない。恨んでも仕方がないことは恨まないことにする。それが面倒ではない感情の置き場だった。


 だから船橋さんのことは虐められても恨まないし、山崎だって恨んじゃいない。

 そういうところが、虐めをエスカレートさせる要因になっているけど――


「……聡くんは歪んでいないわ」

 真っ直ぐな言葉を梅田先生は言った。

「無気力で面倒くさがり屋だけど、それは常識の範囲内だと思うわ」

 次第に熱を帯びる語り口になってくる梅田先生。


「歪んだとしても直せる範囲だわ。矯正できるし人と共生もできる。今まで話していて分かるわよ。そりゃあ精神科は専門外だから、はっきりとしたことは言えないけど、それでもあなたは――」

 そこで梅田先生は僕の手を握った。


「あなたはやり直せるのよ。決して遅かったり致命的だったりしないわよ」


 その言葉は僕の心に波紋のように広がった。だけど残念なことに広がった波紋は次第に消えていってしまう。

「……ありがとう。弥生お姉ちゃん」

 つい僕は梅田先生のことを子どものときのように呼んでしまった。


 その言葉で安心したのか、ゆっくりと手を離す梅田先生。にっこりと微笑む顔は素敵だなと思ってしまう。

 でもね。僕は歪んでいるんだと思うんだ。だって虐めてる人間に対して怒りを覚えていないし、無関心でいられるから。

 何事に対しても無気力でいられるのも無関心でいられるのも、あの出来事がきっかけなんだよ。

 そんなことは言えなかった。言えば梅田先生を悲しませることになるから。


「さあ、治療も済んだし、教室に戻りなさい。今なら二時限目に間に合うわよ」

 僕の胸中を知らずに、わざと明るい声で梅田先生は言った。

「分かりました。ありがとうございました」

 僕は椅子から立ち上がり、保健室から出て行く。その途中で梅田先生はこう投げかけた。

「もっと人間関係を深めなさい。でないと後悔するわよ」

 人間関係と言われてまず始めに思い浮かんだのは、あきらくんでもなければ、船橋さんでも山崎でも、ましてや梅田先生でもなく。


 あの不思議な雰囲気を持った少女だった。




 

 それから僕は教室に戻り、普通に授業を受けた。

 授業中も休み時間のときも、船橋さんがこちらを窺っている気がしたけど、無視した。

 おそらく先生に告げ口したかどうかを確かめたかったようだけど、僕のほうから言うべきことじゃないなと思って言わなかった。


 放課後になって、僕がそそくさと帰ろうとしたときだった。

「おい田中。ちょっと屋上まで来い」

 そんな風に山崎に呼び止められた。教室の空気が不穏なものへと変化する。

 今頃気づいたけど、僕に対する虐めはクラス全体で行なわれるものではないらしい。

 三分の一くらいが虐めに参加して、残りは関わりたくないから静観しているという感じか。

 まあそんなことはともかく、僕は黙って頷いて、山崎の後について行った。


 屋上には誰も居なかった。僕はここで山崎にとうとう殴られるのかなとぼんやり考えていた。

 山崎は僕と顔を合わせずに校庭を見つめていた。僕は当然黙り込んでいた。


「お待たせ。山崎くん」

 そう言って屋上の扉が開いて現れたのは船橋さんだった。

「別にいいよ。涼子さん。言われたどおり田中を呼び出したぜ」

 僕と接するときと違い、山崎は船橋さんには優しく微笑んだ。

 やっぱり山崎は船橋さんのことが――


「ねえ。田中くん。どうして先生にそのこと言わなかったの?」

 梅田先生と違って、何の気遣いもなく訊ねてくる船橋さん。

「別に理由なんてないよ。強いて言うなら面倒だったからかな」

 僕は全然気にしていないように言うと、船橋さんは気に食わないのか、怒気を孕んだ目で僕を見つめた。

「そう。私がやっていることがそんなにどうでもいいんだ」

 一歩ずつ僕に近づく船橋さん。

 そして目の前に来た。


「じゃあ言わせていただくわね」

 怒りに満ちた目で僕を見下した。

「私はあなたが大嫌い。こうして向かい合っているだけで怒りがこみ上げてくるわ。どうして近藤くんがあなたを庇うのか分からないくらい、嫌いよ」

 そして最後に憎々しげに呟いた。


「死ねばいいのに。死んでクラスから居なくなればいいのに」


 強い負の感情に晒されながら、僕は目を閉じた。悲しみも怒りもなかった。恨みもなかった。何の感情も湧かなかった。

「それだけが言いたかったのよ。大志くん。戻るわよ」

 去り際に僕を睨みつけて、船橋さんは山崎と一緒に屋上を後にした。

 僕は面倒だなあと思いつつ、しばらく経ってから屋上を出た。


 そのときやっと一つの感情が生まれた。

 本当につまらないなあ。

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