番外編 反乱のあと 前編

“お兄ちゃんのバカ~!”

 妹の罵り声が頭に響き、健太は目を覚ました。 

 あれ。家じゃ、ない。

 白い天井と細長い蛍光灯が見える。ここ、どこだろ。

 人の気配を感じて顔を右に向けると、心配そうな母の顔が目に入った。

 母親は健太と目が合うと優しい笑顔を見せた。ほっとした瞬間、

「うえ……」 

 頭痛と喉の痛みが健太を襲った。さらには口の中にしみこんだような苦味。何だこれ。

 思い出した。タバコを吸ってたんだった。2、3本まとめて火をつけて、ぶかぶかやったとたんに咳き込んだ。喉と目が痛くなってくらくらして、泣きながら吐いて……そっか、それで病院に運ばれたんだ。

 母親が健太の額に手を伸ばし、まぶたにかかった前髪をそっと横に払ってくれた。恥ずかしい。でも嫌ではなかった。母親にはいつも妹の美春か父親がつきまとっているから、こんな風に二人きりでいるのは久しぶりだ。

「具合、どう?」

 母が尋ねてきた。

「気持ち悪い。それに口ん中がすんげえ苦い」

 そう言うと、

「でしょうね」

 母親は眉をひそめた。

「健太」

 いつもとは違う母の声音に、少し緊張する。

「何?」

「急性ニコチン中毒ってね、命を落とすこともあるの」

「う…ん」

「だから今日みたいなこと、もう二度としないって約束して」

 お母さんはどっちの意味で言ってるんだろ。吸うならいっぺんにじゃなくて1本ずつ――って意味じゃないよな、もちろん。

 タバコなんて本当はもう見るのも嫌だけど、これから絶対に吸わないって約束はできない。

「もうしないよ。まとめて吸ったりするのは」

 健太が言うと、母親は首を傾げて一瞬考えるような顔をしたあと、苦笑した。

 あれ、今日のお母さんはいつもと雰囲気が違う――そうか、浴衣を着ているからだ。

「なんでそんな格好してんの?」

 問うと微笑みが返ってきた。

「今晩、花火大会行くつもりだったから」

 そうだった。美春と父親が何日か前に騒いでいたのを思い出した。

 自分が病院に運ばれて母がここにいる――ということは、家族皆が今夜の夏祭りに行けなかったということだ。美春のやつ、怒ってるだろうな。

「美春は?」

「美春はね、健司君のところ」

「けん兄?」

 ええ、と母親がうなずいた。

「説得がうまくいってれば、お祭りに連れていってもらえてるかも」

 従兄の健司には長いこと会っていない。

 健太が尊敬し、世界中で一番かっこいいと思っている9歳年上の従兄・健司は、1年と半年くらい前に、通っている大学の近くで一人暮らしを始めて以来、健太たちのところに一度も顔を出さなかった。それまでは正月や家族の誕生日にやる宴会で、年に数回は会えていたのに。

 従兄は、何か月か前に健太の家の近くにアパートを借り直したらしかったが、このところ家族との会話がぐんと少なくなっていた健太がそのことを知ったのは最近のことだ。

 その話をした時、美春はこうも言った。

“もうちょっとで死んじゃうとこだったんだよ”

 まさか。いつだって注意深くて、慌てたりしたことのないあのけん兄が、バイク事故なんか起こすわけない。誰かがぶつかってきたならともかく、一人で高速道路の壁に激突したなんてあり得ない。

 “自殺未遂”なんて、覚えたからってそんな言葉、簡単に使うもんじゃないのに。高学年向けの本とかマンガばっかり読んでるから、あいつそんなこと言うんだ。

 だから美春が言っていたことなんて、もちろん本気にはしていない。でも何となく気になって、健太は曖昧な問いを一応投げてみることにした。

「けん兄、もう大丈夫なの?」

“大丈夫って、何が?”

 そんな母親の答えを期待していた健太だったが、意外にも母は言った。

「ええ。怪我の方はね」

 怪我の方は? どういうことだろう。他に大丈夫じゃないことがあるんだろうか。無口だが優しい従兄が急に恋しくなった。

「けん兄に会いたいな」

 健太がつぶやくと、母親は今度ね、とささやくように言ってうなずいた。

 そうだ。けん兄なら分かってくれる。健太は再び天井を見つめた。なぜ家出したくなるほど家が、というより父親が嫌になったかも、どうしてタバコを吸おうなんて思ったかも。

 友達には“父ちゃんがたか兄で、一緒に暮らせるなんてうらやましい”と言われるが、竹中孝志の息子をやったことがないからそんなことが言えるんだ。

 大人だって遊びたいからという理由で家族全員が交替で家事をするのは健太の家くらいのものだし、子どもは勉強が仕事だと言うくせに、残業はだめだと家では宿題もさせてくれない。健太に言わせれば、勉強しなさいと言う父親の方がよっぽどまともだ。面白がって繰り出してくる拳や蹴りを避けるのにも疲れた(おかげでドッジボールは得意になったが)。

 確かに健太の父親は普通じゃない。自分が望めば叶わないことはないと思っている。

 例えば、長く雨が続いた時に空を見上げて“明日は晴れでよろしく”と頼んだら翌朝その通りになったりする。もちろん、あんなの偶然が続いてるだけに決まってるけど。

 そんな父親を、みんな口を揃えてすごいとかスーパーマンだとか言う。健太だって少し前までは、そんな父を自慢に思っていたが、最近はなぜか父親の傍にいるといらいらして仕方がない。

 竹中孝志を特別な人間みたいに言わないのは、健太が知る限り二人だけだ。お父さんに向かって“何考えてんのよ、このバカ”ってあんなにはっきり(何度も)言えるのは、たぶん世界中でも葉子伯母さん一人だけだと思う。 

 けん兄は伯母さんみたいな言い方はしないけど、“たか兄のテンションの高さにはついていけない”“年々たか兄は子ども帰りしてるな”と呆れ顔で言っていた。そう、けん兄はお父さんのこと神様なんて思ってないから、きっと分かってくれる。

 そもそも自分で自分のことを神様なんて――父の笑顔が頭に浮かぶ。ああもう。

 そういえば、お父さんは何やってんだろ? 

 さすがの“神様”も健太が起こした騒ぎには驚いただろうか。いや、今度も父親はきっと余裕たっぷりに笑うだけだろう。健太が密かに家出の計画を立てている時も“お、いよいよきたか、反抗期”なんて、母親に嬉しそうに話していた。健太のすること考えることすべてお見通し、そういう態度が気に入らない。 

 でも。 

 命を落とすこともある、とお母さんは言っていた。僕、ひょっとしたら死んでたかもしれないんだ。

 じゃあ、お父さんも――。

「お母さん」

「なあに」

 いや、やっぱりそんなわけない。でも一応。できるだけ声を小さくして聞いてみた。

「あのさ、お父――親父も、心配してた?」 

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