第2章 健太の乱

 健司を見上げた美春の顔が、泣きべそ顔から驚きの表情に変わった。かと思ったら、美春はすぐにほっとしたような笑みを浮かべて言った。

「お父さんが、部屋の番号まちがったかと思った」

 美春と最後に顔を合わせたのはいつだっただろうか。母親と住んでいたマンションを出たのが大学1年の冬だから、それから1年半くらいは会っていなかったことになる。久しぶりに会う従妹は、健司の記憶より幼さが取れていて、背も少し伸びたようだ。

 ひとまず中に招き入れると、美春は部屋の中を見回し、壁際を指して言った。

「本棚からっぽ」

「ああ」

 大学で使う数冊のテキスト以外、まだダンボールに入れたままだ。

「あっちもからっぽ」

 今度は水槽を指差す。

「でめきん、いなくなっちゃったの?」

 黙ってうなずくと、

「ふうん」

 美春はそれだけ言って、ぺたんと床に座った。健司も腰を降ろして従妹に向き合う。

「久しぶりだな。何年生になった?」

「3年生」

 この秋で9歳になると言う。大きくなったな、と単純な感想を述べると従妹はうなずいた。

「けん兄は小さくなったね」

 小さく?

「そうか。けっこう痩せたから、そう見えるかもな」

「うん、やせたし、小さくなったよ」

 美春が再び口にした“小さく”の意味は分からなかったが、それ以上は追究しないことにした。

「あとね」

 美春は両腕を横に広げると、かくん、と首を横に傾げた。

「キリストみたい」

 これはすぐに分かった。磔刑のキリスト像ほどではないが、肩に届きそうなほど伸びた髪と髭のことを言っているのだろう。

「お父さんよりおじさんに見える」

「ひどいな」

 笑って吹き出してしまうなんて、何か月ぶりだろう。

「俺、21になったばかりだぞ」

 叔父は中身だけではなく見かけも“奇人”だ。秋の終わりには確か40になるはずだが、下手をすると10から15歳は若く見られることがある。だからといって、自分の方が老けて見えると言われるとは思わなかった。

 脳裏に浮かんだ、孝志の勝ち誇ったような表情をかき消すと健司は尋ねた。

「一人で来たのか」

「うん。途中までは、お父さんに車で送ってもらったけど」

 またか。一瞬顔が引き攣りかけたが、美春の前なので、叔父への罵倒は腹の中だけで何とか収めた。

 孝志は健司が小学校高学年の頃から、自分の息子と娘を健司に(強制的に)預けて、ちょくちょく遊びに出掛けていた。健司の精神状態を知ってか、さすがに今のアパートに移ってから強制子守は一度もなかったが、そろそろ預けてもよさそうだとでも思ったのか。

 だが、さっきの話では美春も3年生なのだし、健司が面倒を見なくても兄の健太と二人で留守番くらいできるだろう。どういうつもりだ。

「そういえば、健太は?」

「お兄ちゃんね、ひっくり返っちゃった」

「ひっくり返った?」

「うん。だからお父さんとお母さんがさっき病院に連れてったの」

 病院? 美春がここへ来たのは、両親のデートのためではなさそうだ。ただ、言葉のわりに美春に慌てたり心配したりという様子はない。

「怪我でもしたのか」

「ううん」

 美春が不快そうに顔をしかめた。

「気持ち悪くなっちゃっただけ。たばこをね、いっぺんにぶかぶか吸ったから」

「煙草?」

 急いで従弟の年齢を計算する。

「健太、6年生だろ」

「うん。煙がいっぱい出てね。最初は火事かと思った。臭くてすごーく気持ち悪かった」

 迷惑千万とでも言いたげだ。健太のこと心配じゃないのか? と問おうとして健司は止めた。急性ニコチン中毒は、特に子どもの場合、症状が重篤になることもある。美春が怖がらないよう、両親のどちらかが大したことはないと言っておいたのかもしれない。

 それにしても。あどけない従弟の顔を思い出し、健司はため息をついた。

 健太と美春のことは、幼い頃から面倒を見ていたせいか、実の弟や妹のように思ってきた。二人とも人懐っこくて素直な子どもだ。自分が町を離れていた間、竹中家――特に健太に一体何があったのか。

 小学6年生、いわゆる反抗期というやつか。親に隠れて時々ふかしていたというのはよくある話だが、一時にまとめて吸い付けて目を回すあたりが健太らしいような気もする。だが、容態次第では“微笑ましい”ではすまない。ふと最悪の状況が頭をよぎり、腹の底がぞくりとした。

「煙草なんて、いつから吸ってたんだ」

 独り言のつもりだったが、

「分かんない」

 美春が口を尖らせた。

「でもお兄ちゃん、だいぶ前から変だったよ」

「前からって、いつごろだ?」

 尋ねると、美春は少し考えていたが

「11月の終わりぐらいからかなあ」

 美春によると、その頃から健太が“竹中ルール”の一つである家事当番を嫌がるようになった。母子家庭を切り盛りしていたかつての健司も経験したことだが、料理に掃除、洗濯と奔走する姿を友達に見られ、からかわれでもしたのだろう。

「でも、そんなのたか兄が許さないだろ」

「ううん。やんなくていいって」

 もちろん、それで済むわけがなかった。孝志は、代替案として長男に三つの選択肢を与えた。

 1、健太だけが当番を免除される“新ルール”を提示して、それを家族全員に納得させる。

 2、家事を放棄したまま住み続けるなら、占有面積分(つまり健太の部屋のスペースだ)の家賃に加え、食費や水光熱費といった生活費の四分の一を支払う。

 3、払えなければ家を出ていく。

「何だそれ」

 11歳の息子に対して出す条件とは思えない。

「で、どうなった?」

 健太は家を出てしばらく友達の家に居候し、次に孝志の仕事の相棒である青田の板金塗装会社に駆け込んだ。そこで雑用をする代わりに置いてもらうつもりが、金を稼ぐことの厳しさを身をもって体験することになったらしい。すっかりうなだれて家に戻ってきた。

 結局、家出期間は半月ほどで終了し、母親・恵子のとりなしで、ふくれ顔の健太が父親に詫びを入れようとした矢先だった。

「今度はお父さんがいなくなっちゃって」

「え?」

 急に家の中が慌しくなり、しばらくの間、父親が――母親も時々――交互に家を空けるという状態が続いた。

「わたしとお母さんだけじゃ大変だから、結局お兄ちゃんは、お父さんに謝んないまんま、何となーくまた家の当番やるようになったの」

 優しい子だから、母と妹が困っているのを見て放っておけなかったのだろう。

 おかげで家には居られるようになったが、自らを神とうそぶくふざけた父親への反乱が、あっけなくかつ何となく終わってしまったのが健太としては消化不良だったに違いない。今回の喫煙騒動は続・健太の乱といったところか。

「わたし、すごく心配したんだよ」

「だろうな」

 家出中に事件に巻き込まれて、そのまま行方知れずになることもある。健司がうなずくと、

「違うよ」

 美春が咎めるような顔をした。

「心配してたのは、けん兄のこと」

 そこで、はたと気がついた。孝志と恵子が急に家を空けるようになったのは、交通事故を起こして遠方の病院で入院していた自分を見舞うためだ。12月から1月にかけて、ほぼどちらかが健司に付きっきりだった。

 その後、半ば脱走するかのように退院し、夜の街に出て狂ったように暴れたらしいのだが、実は当時のことは事故前後も含めてよく覚えていない。ただ、その数か月間の後始末からこの部屋の手配まで、結果的にすべて孝志に面倒をかけることになったのは確かだ。

 恵子や美春、健太に対しては申し訳ないような、孝志には素直にそう思うのが悔しいような妙な気分でいたら、美春の明るい声がした。

「けん兄、生きててよかったねえ」

 抜け殻のような状態で日々を送る今の自分に、従妹の言葉が相応しいとは思えなかったが、とりあえずうなずいておいた。

「じゃ、そろそろ行こっか」

「行くって?」

 どこにだと問い返すと、決まってるじゃんとにらまれた。

「お・祭・り!」

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