明日どうする? ──女子更衣室にて

玉城美也タマキミヤ

 仕事始めの1日は、まだ外来患者も少なく、年末にはかかってくることが多かった往診依頼の電話もなく、いつになく平和に終わろうとしていた。


 看護師ナースの玉城美也は、定時の5時過ぎにはすでに女子更衣室で私服に着替えているところだった。背はあまり高くないがスリムな体型なので足が長めに見える。過去について多くは語らずその詳細不明だが、岡山県の高校を卒業後すぐに家を出て、仕事をしながら看護学校に通って看護師資格を取ったということになっている。とりあえず現在は、30歳のシングルマザーとして2人の娘と愛犬「シャチ」と一緒に名古屋市内のM区にあるマンションに住んでいる。このクリニックで勤務し始めたのは去年の4月、まだ1年目なのだが、それまでに経験を積んでいる彼女は、職場では同僚からは「タマちゃん」と呼ばれて親しまれている一方で、できる看護師ナースとしてその存在感は大きく、一目置かれている存在でもある。


 私服のジャージとフリースに着替え終わった玉城美也は、鏡の前で短めの髪を後ろでまとめ直しながら、鏡の中にいるボーイッシュな顔の自分に向かって、心の中で呟いていた。

 ああ、制服から私服に着替えたときの開放感が好き、自由な気持ちになれるこの瞬間がとっても好き。缶ビール君は家の冷蔵庫の中で待っている、早いとこ家に帰って彼のプルトップを「プシュッ」と言わせて開けてやりたい。「ゴクゴク」「プハ~」という瞬間は、『こりゃもうたまらんわい』というくらいにもっと好きだから。その「プハ~」の後は、子供たちと一過ごす母さんの時間。この時間も案外と嫌いでない、大切にしたいと思っている。ちゃっと家にかえろっと!

 でもなー、鏡に映った自分の顔を見れば、化粧は薄いけどノリもいいし、お肌も風貌スタイルもまだまだ独身でも十分通用するかなとも思う。ああ、自分の時間が欲しいなぁ、とか、まだまだ恋愛にも関心がないというほど乾いてはないんだけどね、とか思うことはある。そんな素直な自分の心の声に対しては、まあ、仕方ないじゃん、とあきらめて当面は手なずけておくとするか。


 玉城美也が、帰宅の準備をほぼほぼ終えて、鏡の前で一人静かに物思いにふけっていると、「バタン」と更衣室のドアが勢いよく開いた。同僚の看護師ナースや女子スタッフたちがドタドタとなだれ込んできて、それまでの空気は思いっきりぶち破られた。そして、ワイワイガヤガヤのよくありがちな女子更衣室の風景に変わった。


 彼女を見るや否や先輩看護師ナースの細井美代子が、逃がしてはいかんとばかりに隣に割り込んできて話しかけた。「タマちゃんさあ、朝会でサルトルが言ってたことだけど、あんた明日はどうする?」


〇猿渡亨サルワタリトオル(タマちゃんの『人間観察図鑑』より引用)

 クリニックの所長、ニックネームは「サリワタリトオル」を略して『サルトル』―フランスの哲学者の名前から借用したらしいが私は聞いたこともない― と、いつからともなくそう呼ばれるようになったと聞いている。

 医師として所長として、仕事はそれなりにこなしているけど、やる気がるのかないのか? 真面目なのか不真面目なのか? いい人なのかそうでないのか? さっぱり分からない。それでいて、ほんの極々たまにだけど良いことも言うらしい。 いまだ謎の人物である。口癖は「まあ、ええわ」「僕、そんなに良い人じゃないんで」などネガティブなものが多い。すぐに「じゃあよろしく」と言って仕事を丸投げしてくるので要注意!


 玉城美也の趣味と特技はマンウォッチング、つまり人間観察である。この能力が個人的趣味としてだけではなく仕事でも有用に活用されているとは自他ともに認められているところである。彼女の頭の中には自作のデータベース「人間観察図鑑」があって、インプットされたデータはいつでも取り出せるようになっている。そして必要があれば修正や追加されて最新情報が保存されている。例えば、他のスタッフのを検索してみると・・・


〇細井美代子ホソミミヨコ

 名古屋市M区の地元出身、35歳。クリニックでは婦長に次ぐ古株で直接業務を指導してくれる指導者的立場の先輩看護師。良く言えば、裏表のない性格で、よく笑うけどすぐ泣いてしまうという喜怒哀楽の表現がダイレクトな直情タイプ。自分に正直なだけに、頼りになるけど嫌われたら仕事がやりにくくなるタイプかなと思って気を使う必要あり。前々から体型的には、苗字を「太井」に変えたほうがいいんじゃないか思っているが、それは口が裂けても言えない。(酔っぱらった時には要注意!)

〇須藤恋スドウコイ

 青森県出身、やっとかめ『部屋』じゃなくて『クリニック』の看護師長。48歳、所長と同い年。なにかにつけて誰でも彼にでも世話を焼いたりおせっかいをするのが自分の任務だと確信している「肝っ玉母さん」的存在。ただし、仕事は完璧ではなくて、むしろスカスカだが、そのちょっとヌケて天然なところがかえってチャーミングだったりする。スタッフからは「おかあさん」呼ばれて愛され頼りにされている。『コイ』というかわいらしい名前に反して、その身長は約165cm、推定体重80kg超、その体型と性格から裏では「どすこい師長」と呼ばれている。とはいえ結局はスタッフから恐れられつつも愛されている、存在感ありありの「大物」である。頼りにしてよいが、時々仕事でも天然ボケがでることがあり要注意。(返事を返す時に思わず、『どすこい!』とか『ごっちゃんです!』とか言ってしまいそうな事があるので要注意。そんなことをしたら張り手をかまされるかも?)


 細井さんから声をかけられた瞬間、あっまずいなぁと思った。私は「仕事にはプライドは持っているが、余分なことをする気はない」というスタンスをモットーとしている。明日の練習会は、急用ができたとかなんとか適当な理由をつけてパスして様子を伺う予定だったのに、他のスタッフも出てくれないとなると休みにくいじゃん。

 就業時間中は、所長の目も(耳も)あって、露骨にネガティブな本音が言えなかったので、この女子更衣室で率直な意見を言い合って作戦会議しようぜ、ってことなんだなと認識した。


 そういえば、『答えるのに困った質問をされた時には、無理に答えようとするよりも、とりあえず相手に質問をし返せ!』 ちょっと前に往診車の中でサルトル所長が話していたなぁ、と思い出した。質問をし返してみた。

 「明日の午後のマラソン練習会のことですよね。私はあまり関心なんいけど、細井さははどうするんですか?」

 「私、走るのは、っていうか運動全般に苦手なので全然問題外。そんな練習とかしたら足が太くなっちゃうし、とりあえずは業務にも支障が出るってことで勘弁してもおうかなぁ、ていうか絶対無理!」と、細井美代子は白衣を脱いでその豊満すぎるボディーとそれに反して小さい胸をどちらともなくちょっとだけ恥じる素振りを見せながらも、迷ってるというよりもむしろきっぱりとした口調で返事を返した。すると、

 「ミヨちゃん、それはあんたの太りすぎが原因だがね。関係ないって」と、今まで黙っていた看護師長の須藤どすこいが、すかさず、細井よりもさらに豊満すぎるボディーを全く恥じることなく会話に参加してきた。

 あんたにだけは言われたないだろ ──口には出せなかったが思わず玉城は心の中でつぶやいた。須藤どすこい師長に視線を合わせて、その表情を観察しつつ、どうでもいいようなクールな感じを装って細井に援護射撃をしてみた。

「でも勤務時間以外の拘束は拒否できますよね。仕事じゃないわけだし。」

「エーところに気が付いたがね、タマちゃん。今回は所長の意向で特別に練習と大会参加は勤務として扱うことは管理会議で確認したんだわ。だで時間外手当や休日出勤手当がつくから安心してちょ」と、あらかじめ準備されてあったQ&A問答集の答えを名古屋弁に変換して読み上げたような感じの師長の答えが返ってきた。

 えーそれって、勤務扱いということは、休むのは欠勤扱いになる? それなりの理由と覚悟がないと断れないってことだよね、たかが変なマラソン大会がそれほど大事なもんなんですか?意味わかんないんですけど・・・納得がいかんなぁ

 「忙しくてそんな時間がないんですけど、私はパスできませんか?」と、女性事務員の真琴。20代前半で一番若手だけどスポーツには縁がなさそうな感じ、たぶん苦手だろう、彼女も勇気を出して予想通りの消極的な発言をしたのが、

「時間はつくるもんだで、私も頑張るから皆も頑張ろうよ」と、看護師長の須藤どすこいはあいかわらず強気で前向きな発言で押してくる。


 そこで、またこれまで黙っていた事務長が、すっかり着替え終わって私服のダウンジャケットとスカートという爽やかな姿になって会話に参加してきた。そして微笑みながらか細い声で、それでいて異論を許さない強い意思をみなぎらせて宣言した。

「今回、私は走れないけどマネージャーとして皆さんをサポートしていくことにしました。仕事のほうはしっかりフォローしていくので真琴ちゃんも安心して練習に励んで完走目指してくださいね。」


 成り行きをうかがっていた新人看護師ナース里奈りなは、発言のきっかけもつかめなかったし、良く分からないけど女子更衣室秘密会議?の結論としては、世界平和のためにも明日はジャージと運動靴を持参しなくてはいけないのだろうと覚悟していた。


 玉城美也にも、ここにきてやっと見えてきた。これは完全に事前に仕組まれていたんだ。所長も看護師長も事務長もグルになってる、計られた!もう逃げ場はないらしい。そして「やるしかないみたいだな」と悟った。明日の練習会にはとりあえず行ってみるけど、こんなシロート集団でフルマラソンは絶対に無理だって、もうどうなっても知らねえぞ!

 「みんな揃って地獄へ落ちるんだな!」―と心の中で毒づきながらは、冷蔵庫の中で待っている缶ビールくんの元に急いだ。


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