第6話

高等部の校舎の中は、先ほどまでいた中等部と違いそれほど荒れてはいない。雨水や泥の流入は少なく、風化の気配はあまり見られない。

 もっともそれが現実であるという保障はない。僕の視界に広がるこの「わりと綺麗な高等部校舎の様子」もまた、汚れた炎によって見せられている幻覚である可能性は否定できない。それほどまでに、幻覚と現実の区別は難しい。

 汚れた炎はよく出来た兵器だ、単純な破壊力が高いことは勿論、撒き散らす汚染物質が敵勢力の立て直しを困難にする。

 その汚染物質には昔「バベル」という呼称があったそうな。

 バベル、古い物語、共通言語を奪われた人々が戸惑い混乱し自滅していくお話。この汚染物質が引き起こす事態もだいたいそれと同じ。強力な幻覚によって共通認識を奪いとり、コミュニケーションを困難にする。

 なかなかに悪趣味な毒だ。抑制剤が開発されるまでは、多くの人間がその巧妙さに辛酸を舐めた。

 僕はそこでふと足を止める。ひび割れた教室の窓に一瞬映った物が、僕の注意を引いた。

 そのまま教室のドアに近づき、茶色く錆び付いた引き戸を動かして中にはいる。

 ギターだ。教壇の上に、これ見よがしに真新しいギターが置かれていた。

 これも幻覚、こんな物は存在するわけではない。でも当時、毎日これ見よがしにギターを持って登校している上級生がいったような気がする――

 自分の思いが、感情が、遠い記憶が、現実の世界に取って代わってしまっている。

 だが、それは悪いことばかりではない。「薬も過ぎれば毒となる」その逆もまた然り。

「バベル」それは本来、記憶障害を負った人間の治療薬になるはずの化学物質だった。兵器として先鋭化された今も、その名残がかすかに残っている。

 改めてそのギターを手に取り、じっくりと観察する。

 ブランドは「ピグノーズ」、子供用の格安ギターだ、こんなのを自慢げに持ち歩いてたのかよあの上級生は……

 当時はなんの知識も無かったから羨望の眼差しを送っていたが、今ならその滑稽さに思わず苦笑する。

 僕はそのギターをそっと元の位置に戻し、教室を出た。

 こんな具合に、バベルは忘却の彼方に消えていったはずの記憶を使って幻覚を構築する。だからこそ、僕はこの幻覚によって自分の失った記憶が再生する可能性に賭けている。

 失った記憶、兄の最後についての記憶。

 何故僕は兄が飛んだ時屋上にいたのか。その直前に何があったのか。最後に兄とどんな会話をしたのか。これらの記憶が、なぜか全て綺麗に抜け落ちてしまっている。それが戦火の後遺症なのか、恣意的忘れた辛い記憶なのか、ただの純粋な時間経過による忘却なのか、今の僕には判別がつかない。

 だからこそ、この炎が、この毒が、僕の忘却の底を攫ってくれることに期待していた。

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