一章 新春の香り

碧嘉

 官舎の自室で起床すると陵荘は、体のいたるところに鈍痛と悪寒が這っているのを感じた。顔も、昨日の倍は腫れているようだ。


 ――手ひどくしつけられたものだな


 自嘲してから、いつもそうしているように寝具を整え、顔を洗い、ところどころ擦り切れている淡緑たんりょくの質素な衣服をまとって陵荘は外に出た。


明けの寒気が心地いい。まとわりついた眠気をぬぐい落としてくれる。


始業に遅れそうなので、陵荘は通りで朝食を済ませることにした。


 郡府に入り庁吏に型通りのあいさつを済ませると、庁舎の一隅に置かれたいつもの荒い木目の机に向かう。机上には昨日の作業のあとが乱雑に放置してあった。徒労だったとは言え上官からの命令である。陵荘には報告の義務があった。


 資料を手に取りおもむろに腰をあげた陵荘は、復命のために粗曹禄である陵敬の事務机を向いた。


 諸所の曹(部署)から陵敬への連絡のため派遣された多数の更卒こうそつ(輪番で公務を行う賦役該当者)でいつになく長列が出来ている。陵荘はうんざりしつつも列の最後尾に立った。


 ―郡守の交代が近いせいか


 郡の太守は四年おきに必ず交代される。


 皇帝の庇護を受ける土地と民を一時的にでも奉還することで朝廷の権威を維持することが目的だが、前太守が同じ郡に再選され赴任することはまずない。つまり郡の政治だけではなく軍事まで統括する太守が、土地と結びつきを強くし土着することを防ぐ意図が裏にある。


 標津郡太守、虞靜もふた月前に印綬いんじゅの奉還を行うため豊平へ出発している。新しい太守が赴任してくるのも、もうすぐのはずであった。


 陵荘が間抜けた顔で虚空を見つめながら順番を待っていると租曹の入口に人影が現れた。その人物は部屋に入るや、取り次ぎ待ちの列を無視して陵敬へ直行し、なにやら耳打ちをし始める。


 前列が露骨に嫌悪感を示したので陵荘も思わずその人に焦点を当て、そしてわずかに瞠目どうもくした。


よく知る人物である。


「そうかはん先生が… わかった。あとでご挨拶に伺おう。子明しめいよ。おぬしも、荘を伴って賀を献じにゆくとよい。先生も喜ばれるだろう。」それが陵荘の聞けた全部である。


 子明とよばれた男は報告を終えると、近くに旧友の存在を認めて、祖曹を出ずに陵荘へと向き歩いてきた。


口元に浮かぶ微笑が、陵荘にはなつかしい。


「久しいな徐史よ。同じ庁舎に務めているのにずいぶん遠縁になってしまったな」


 そういうと子明という男は拱手きょうしゅした。


 ―ふるい仲でも礼儀を忘れない所がこの男の好ましいところだ。


「まったくだ」


 陵荘はそう返すと同じように返礼した。



 子明という男は名を


 碧嘉へきか


 といった。


 碧氏は根州でも有力な豪族の一である。そのなかでも碧嘉の系譜は嫡流に位置しており、血統の尊さでいえば陵荘とはくらべものにならない。そうした二人がどういう巡りあわせか、地域で高名な班諒はんりょうの元で舎友として親交を深められたことは、全く不思議なことである。


 碧嘉は挨拶をすませるとすぐさま陵荘の顔面の異常さに目を付けた。


「何だその顔は。その年になっても血の気が引かんのか。香典を先に渡しておこうか」


「余計なお世話だ。それより、先生が帰ってきているのか」


 凌荘が期待のまなざしで見つめると碧嘉は意外だという顔をした。


「耳さといな、聞いていたか。先生の客人から連絡が来てな、間違いはない。ここをお発ちになって五年ほど経っている。とうに客死きゃくしされたと思っていたが…」


 碧嘉は指であごを揉んだ。どうやら帰ってきたことに喜ぶというより、どういう旅だったのかということに関心があるようである。


「わたしも同じことを考えた。なにしろ三年ほどの旅行だと聞いていたからな。ただ、先生のことだ。考えあってのことだろう。先生の胸中は先生にしかわからん。訪ねて、聞いてみることにしよう」


 碧嘉は頷きを返すと、今日の仕事は早く終わらせて共に旧師に挨拶しにゆくことを、陵荘に約束させてから去った。


「荘、次はおぬしの番だ。しっかりと励んだのだろうな」振り向くと陵敬がこちらを見つめていた。


 ―さて、どう文句をつけてやろうかな


 陵荘は無様に腫れた顔面を不敵に歪ませた。

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