第5話 フィーが失敗をした時の話

 ポポと日々を過ごすことで、フィーはどんどん回復をしていった。

 爪が割れ血が滲んでいたはずの両手も、血豆が潰れ傷口に小石や砂利が食い込んでいた足の裏も綺麗になった。風呂で温め薬を塗り続けた結果、錆びついたようになっていた凍傷も見事綺麗に完治した。ただし、体のあちらこちらに存在をする鞭で打たれたかのような叩かれたかのような傷跡は一向に治ろうとはしなかったが――それらは特別、大した問題ではなかったのだ。少なくとも、フィーにとっては。

 ポポがフォーに与えたものというのはひどく一般的なことであり、決して特別なものではなかったのだけれど、フィーにとってはひどく「特別」なことだった。

 毎日三食、きちんと栄養あるものを食べることで、骨と皮ばかりが目立っていたフィーの体に、年相応の筋肉が付き始めた。筋っぽく骨ばっていた頬に丸みが付いて、窪んで隈が出来ていた目元に光が入る。風呂に入れて体を流し、一日の汚れをさっぱりさせる。

 ポポは、フィーを風呂に入れ驚いたことがある。長い間遠い道のりを歩き続け、雨風に打たれひどく黒ずみ、燃えカスのような灰色に染まっていたフィーの髪の毛は、輝かしいばかりの銀色だった。それだけではない、燃える炎のような、太陽が落ちる瞬間の空のような赤い瞳も宝石のように美しかった。

 一か月を過ぎるころには、ポポはこの、不詳の子供を引き取り育てることを決めていた。ポポには子供もいなく、最愛の妻は何年も前に亡くなっていて、山奥の家でずっと一人で暮らしてきたのだ。一人は自由だが、とても孤独でとても寂しい。ポポはこの、顰め面の子供のことを気に入っていた。

 ただし、フィーが同じ気持ちでいたのかというとそれはまた別のことだ。

 フィーはいつだって無表情だった。感情がないわけではないが、とても感情の起伏が緩い。殆どといっていいほどしゃべらない。自分の気持ちを主張しない。

 意志がないわけではないだろう。庭に出てウサギや狐と戯れているとき薄らと頬を緩ませているのを何度となく見たことがある。決して笑わないわけではなかったのだ――かなり、表情筋の固い子供かもしれないが。

 フィーは単純にポポのことを警戒していた。

 今まで自分の周りにいたような怖い大人、悪い大人とは違うということを、フィーはきちんとわかっていた。それどころか、自分に食事を与え、入浴をさせ、綺麗な服を着せ知識を与えてくれている「ポポ」という老人は、まるで神様のようなものだった。

 フィーはポポに感謝をしていた。けれど、その反面とても怖かった。

 なぜなら、ポポは今までフィーの周囲にいた大人たちとは、全く違っていたからだ。 ポポは優しい。いつもニコニコとして、決して声を荒げない。もし間違えを見つけても、穏やかに声をかけ優しく諭す。鞭を持ってそれを激しく振り回すことも、背中に叩きつけられることもない。

 けれど、フィーはこうも思っていた。ポポはとても優しいけれど、一体いつ急に怒り出すのかわからない。何気ないことで急に怒って不機嫌になり、声を荒げてとんでもなく恐ろしいお仕置きをされてしまうのかもしれない。

 ポポの優しさに安心をする反面、一体いつやってくるかわからない恐怖と不安に脅えていたのだ。

 それは食事のときだった。

 食事のとき、フィーとポポはいつも向かい合って座っている。フィーが話を振ることはなかったが、いつだってポポの何気ない話題に頷いて、相槌を打った。

 その日のメニューは、鶏肉のソテーと野菜のスープだった。鶏肉のソテーの隣には茹でたジャガイモと人参が添えられていた。フィーはジャガイモは好きだったが人参は苦手だった。ポポは、感情の変化が少ないフィーの顔が微妙に歪むのを微笑ましい気持ちで眺めていた。

 フィーは器用に何でもこなす子供だったがどうもナイフとフォークを使うことは苦手のようで、フォークで肉を抑えようともナイフで肉を切ろうとしても、あっちへいったりこっちへ行ったりどうも安定しなかった。

 フィーは暫くの間、辛抱深くナイフとフォークで肉を切り分ける努力をしていたのだけれど、そこはまだやはり子供。あまりにうまく切れないので思わず力が入りすぎ、ナイフとフォークが肉と一緒につるりと床に落ちてしまった。

 フィーは驚いた。それから顔が真っ青になった。

肉を丸ごと落としてしまった。肉だけではない、フォークもナイフも落としてしまった。綺麗に片付けられていたはずのテーブルの上にはジャガイモと人参が石のように転がっていて、ポポが見繕ってくれた服の上にも肉の汁が飛び散ってしまった。

 駄目だ、とフィーは思った。

 フォークもナイフもうまく使うことができないくせに、無理やり肉を切ろうとして、そのままそっくり落としてしまった。ジャガイモも人参も台無しになってしまったし、おまけに服も汚してしまった。

 フィーは全身をガチガチに固めて、ぶるぶると震え恐怖した。こんな粗相をおかしては、流石のポポも怒るだろう。一体、どのようなお仕置きがされるのか。鞭打か、外に一晩締め出されるのか、全く予想が立たなかった。

 ポポはそっと立ち上がると、耐えるかのようにしてぐっ、と俯いているフィーの頭を撫でた。

「怪我はねえか」

 予想外の質問に呆然とするフィーの両手を手に取ると、生々しい傷跡ばかり残るその手の中に新しい傷が残っていないか確認をした。傷がないことを確認すると、もう一度フィーの銀色の髪を撫で上げて、落ちた肉を拾うために足元に屈みこんだ。

 フィーは動揺していた。こんな粗相をしてしまったのに、ポポは手をあげることも激しく声を荒げることすらなかったのだ。

「お前には、まだフォークもナイフも難しかったかもしんねぇな」

ポポは考えるようにしてそういうと、落ちた肉を拾い上げた。

「ま、お前はまだ子供だ。こんなこと、気にすることじゃねぇ。こういうのはな、使っていくうちにうまくなっていくものなんだ」

 落ちた肉や人参、ジャガイモを纏めて汚れた更に乗っけると、そのまま流しに突っ込んだ。汚れたテーブルを綺麗に拭いて、スープも新しく入れ替えた。

「肉はもう、俺の分しがないなぁ……俺と半分こでもいいか?」

 新しい皿を取り出すために振り向いたポポは、汚れた服を着たままのフィーがじっ、と立ち竦んだままこちらを見つめていることに気が付いた。

「どうした。そーた恰好をしていだら気持ちが悪いべ。早く部屋に戻って着替えでおいで」

 フィーは、俯き加減で何かを言いたげにして胸の前でちょいちょいと両手を合わせていた。フィーの表情は普段殆ど変化がなく、言葉も少なく全くと言っていいほどしゃべることがなかったが、彼の表情は時にとても雄弁で、赤い瞳は言葉以上に彼の感情を現わした。

 ポポは、珍しく何か言いたげなフィーに近寄り、屈んで、小さな子供と視線を合わせた。

「なにか言いてえことでもあるのか」

 フィーは「あ」だとか「う」だとかいう、言葉に成りきっていない単語ばかりを発すると、両手をごしごし擦り合せ、下を向き、蚊の鳴くような声でこういった。

「あんな……」

「おう」

「……ごめんなさい……」

 寡黙な子供の口から、初めて発せられた謝罪の言葉。ずっとポポの言葉を聞いていたせいか、訛り交じりになっている。

 当たり前とも言えるような些細な変化に、ポポはほっ、と心を緩ませた。

 傷だらけの両手を包み込むと、触れたところからダイレクトにフィーの震えや緊張が伝わってきた。この部屋はこんなにも暖かいのにフィーの体はまるで氷のようにしてすっかり冷え切ってしまっていた。

 ポポは包んだ両手を温めるようにしてごしごし擦ると、不安を取り除くよう安心させるようにして語りかけた。

「心配するな。おめが今までどーたことをされてきたのかわからねえけれど、俺はおめに何もしねえ。ほら、早ぐ着替えてこい。そうしたら、一緒に食事をすっぺ」

 フィーは、気丈なはずの赤い瞳を今にも溶けてしまいそうなくらいに潤ませて、それからこくんと頷いた。

 ポポは、フィーが寝室に引っ込んだことを確認し、ほっ、と小さく息をついた

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