第3話 フィーが放浪した時の話

 養護施設から飛び出したフィーは、ただひたすらに「東の都」を目指して走り続けた。

「方位磁石」などという文明機器を、フィーが持っているはずもなかったが、その代わりに方角の知り方を知っていた。朝、太陽が出る方向が東で夕方太陽が沈む方向が西。冷たい風が吹くのが北で、暖かい風が吹いてくるのが南。昼間、太陽が丁度頭の天辺にくると丁度12時の時間になる。フィーは賢い子供だった。

「東の都」に続く道はとてつもなく遠く、険しく、長いものだった。

 毎日毎日歩き続けたフィーの足にはいくつもの血豆や水ぶくれができた。最初からぼろぼろであった古い靴はあっというまに擦り切れて、裏から覗くとぽっかりと足の指が見えるくらい大きな穴が開いてしまった。手だってそうだ。泥と汗でどろどろになって、自分でも知らないうちに、いくつもの血豆や傷や痣が付いていた。

お腹が空いても食べるものがないから、そこらじゅうになっている木の実や果物を取って食べた。それも簡単な作業ではなく、それらを狙う野生の動物に見つからぬよう――見つかったなら、あっというまに自分自身が“食べ物”にされてしまうのだ――細心の注意を払わねばならない。途中で一度、巨大な熊と遭遇し、うっかり頭から食われそうになった。命からがら逃げ切ったが、うっかり崖から落ちて頭を打つはめになってしまった。運よく果物や木の実を手に入れることができたとしても、それからがまた大変だった。すべてが全て食べられるものとは限らない。一度、大きな木にたくさんなっていた一見して美味しいような丸い果実を口に含んだら、甘酸っぱい味の中に奇妙な渋とぴりりという刺激を感じて、慌てて吐き出した。すべて食べていたら大変なことになっていただろう。体中にしびれが周り、白目を向いて、口から泡を出して失神をしてしまっていたのだ。

 鳥の巣から持ち出したお金は役に立つことがなかった。フィーの持っているお金は、まだとても新しくピカピカと音が鳴るほど美しく綺麗なものだったのだけれど、あまりに数が少なすぎた。フィーが持っている分だけでは、食事はおろかパンの一切れを買うこともできない。

 宿に泊まることなんぞ論外だ。そもそも、宿の主人たちは汚れたフィーの出で立ちを見ただけで少年が「薄汚い孤児」であることを見極めて、追い出すことを決めていたが。

 ただ、どこにでも水は豊富にあった。フィーは時折、美しい河原や泉を見つけては、穴の開いた靴を脱ぎ捨て素足になり、コートを脱いでぽちゃんぽちゃんと足をつけた。水を飲みせせらぎを聞いた。とても心地よい空間だった。透明な水の中では、七色の魚が自由にふわふわとひれを動かし、ぴちゃんぴちゃんと飛び跳ねた。天高く伸びあがった木の先には美しい緑色の葉がいくつも重なり、その間から明るい太陽がさんさんと降り注いで眩しい光を反射させた。川のせせらぎはまるで未だ見ぬ母の子守唄のようにフィーの心を慰めて、太陽の光は騎士の讃美歌のようにしてフィーの心を勇気づけた。力強く伸びた木々の葉は優しくフィーを包み込んで、鳥の囀りはフィーを慰めた。

 フィーはずっと一人だったが、決して独りではなかったのだ。

 それでもお金はなかったし、お腹は空いたし何日も何時間も歩き続けて疲労もピークに達していた。初めからぼろぼろだった靴はとっくのとうに靴としての役割と機能を放棄していたし、足の裏にできた血豆が潰れて、指やつめの間から血が滲み、小石や砂利がばい菌として傷口に入り込んだ。

 何日も何日も歩き続けた足はすでに棒のようだったし、まっすぐに歩くことは不可能で、ふらふらと左右に振れていた。赤い瞳はしょぼしょぼとして、どの景色もその景色も常に霞みがかったように見えた。 その日はとても寒い日だった。雨こそ降っていなかったが、気温も低くてぴゅうぴゅう北から冷たい風が吹き込んでいた。まるで氷のようだと思った。すれ違う紳士や婦人たちは、皆厚手のコートを羽織り手袋をして、派手なマフラーで首を隠していたのだけれど、生憎フィーは、穴の開いたコートしか着用をしていない。

 頬は寒さで真っ赤になって、今にも割れてしまいそうなくらいに痛かったし、傷だらけの手だって感覚がなくなる程に冷たくなってしまっていた。はぁ、と小さく呼吸をすると、肺の奥から飛び出た息が真白い鳥のようにして舞い上がった。

 フィーはとても勇敢な子供だったが、ひとりはとても寂しかったし、とても心細かった。いくら水を飲んでも極限まで減ってしまったお腹の具合を紛らわすことはできなかったし、暖かい暖炉や毛布がどうしようもなく恋しかった。

 そんな中、体力の限界を感じたフィーが、たまたま道の端っこに停まっていた荷馬車の中に潜り込んでうっかり眠りこけたとしても、なんの不思議でもないだろう。

 その荷馬車の後ろにはたくさんの藁がまるで山のようにして積まれていた。辺りを見渡すが持ち主らしきものは誰もおらず、二頭の馬が綱に繋がれヒヒンヒヒンと荒い息を吐いていた。

 二頭の牡馬は双方ともに淡い栗毛を持っていて、撫でるとそわりという感触が掌一杯に広がって、フィーのことを楽しませた。フィーは動物が好きだった。二頭の牡馬もフィーのことを気に入ったらしく、次第にフィーの灰色の髪に顔を寄せ頬を舐め微笑ましく戯れていたのだが、冷たい風がヒュンと吹きフィーの体を強張らせたことで楽しい時間は終わりを告げた。

 フィーは大急ぎで後ろに回ると、荷台に積まれた大量の藁の中に潜り込んだ。これはとてもよいことだった――なぜなら、フィーは潜り込んだこととほど同時に、目の前にある酒屋から、怖い顔をした中年の主人が鞭を率いて出てきたのだ。

 たくさんのアルコールで体と心を温めた主人はふらつく足でふらふらと座席に乗り込むと、ぴしっ、ぴしっ、と鞭の音を響かせながら二匹の馬に号令をかけた。 藁の山に潜り込んでいたフィーは、大人しかった牡馬が突然声を荒げたことと突然荷馬車が動き出したことにとてもとても驚いた。真っ赤な瞳を見開いて、意味もなくばしばしと瞬かせた。フィーが目指していたのは「東の都」だった。このままいつまでも乗っていては一体どこに連れて行かれてしまうのかわからないとも思ったが、大量の藁はとてもとても暖かかったし、フィーはとても疲れていた。とてもとても眠かった。色のなくなってしまった藁はまるで高級な毛布のようにしてフィーの体を包み込んだ。草の匂いは見たこともない父のようにして大きな安心感を与えたし、揺れる台車の音でさえ歌われたことのない子守唄のようだった。

 フィーは枯草の匂いと暖かさに包まれながら、こんこんと眠り続けた。フィーは寝ている間も決して天候は安定することがなく、雨が降ったり風が吹いたしまったくもってひどいものであったのだけれど、そんなこと、フィーにとっては大したことではなかったのだ。

 荷馬車の主人がとてもとても寄り道好きであったことと、目的地までの道のりが長かったこともよかったのだ。もし途中で主人が荷台を開けて藁を下しフィーを見つけてしまっていたら、小さなフィーはあっというまに縛り付けられて、警察に突き出されるなり養護施設に送還されるなり怖い誰かに売られてしまうなり、大変な事態になっていただろう。

 フィーが主人に見つかることなく、藁に包まれ体力を温存できたことはとてもとても良いことであったのだけれど、無論、よいことばかりではなかった。

 時間も場所も関係なく眠り続けたフィーが目を覚ましたのは、荷馬車に

潜り込んでから三日目のことだった。

 夢の世界から迷うことなく無事に生還をしたフィーがまず最初に感じたことは、未だ感じたことないような、とんでもない気温の低さだった。そして静けさ。

 くしょんとひとつクシャミをしてごそごそと大量の藁から這い出ると、そこに広がっていたのは辺り一面、まるで絵の具でもばら撒いてしまったのかというような白だった。

 青いはずの空はフィーの髪よりもいくらか色の濃い灰色に染まり、そこから人差し指程度の大きさもない白くて丸くて小さな粒が、まるで綿のようにしてふわりふわりと降っている。

 その白くてふわふわとしたものは掌に落とすと冷たくて、それでいてとても柔らかかった。見たこともない光景に唖然として呆然として、それからゆっくり荷台から降り、裸足の足を地面に付けた。

 真っ白い絨毯が辺り一面に敷かれたような絨毯は、とても綺麗でそして冷たく、足を突けたところからゆっくり沈んでフィーの足そのままの跡をつけた。

 両掌の大きさ分掬ったそれもやっぱりとても冷たくて、割れた爪の間や傷口から入り込んで骨の髄まで染み込んだ。恐る恐る口の含んでみるのだが、冷たいそれは味の一切することもなく、舌の上で一瞬で解けてそれから喉の奥に落ちて行った。

それは枯れた木の枝や草の上、屋根の上にでもウサギや狐の頭の上にもどこにだって広がっていた。不思議なものだとフィーは思う。一見ふわふわとしてとても柔らかそうなのに、両手でぎゅうぎゅう潰してみるととても固くまるで石のようになってしまう。そのくせとても冷たくて、口に入れるとあっというまに溶けてしまう。

フィーはまだ「雪」というものを知らなかった。フィーが今までいたところには「雪」が降ることはなかったし、誰もその存在を教えてなかったのだ。

 フィーは暫く寒さも忘れて「雪」に夢中になっていたのだが、どん、と荷馬車の主人とぶつかってしまったことで我に帰った。

 それまで目の前にあるパブで酒を飲み、酔いつぶれていたはずの主人が目を覚まし、先を行くために出てきたのだ。

 フィーが自分の荷馬車の後ろに隠れていたことなど露も知らない中年の主人は、自分の足もとに転がった灰色の子供にふん、と軽蔑をしたように鼻を鳴らすと、そのまま座席に乗込んで、びしばしと鞭を鳴らした。

 淡い栗毛を持った二頭の牡馬はヒヒィンと声を荒げると、かっぽかっぽと足を鳴らし、雪道に罅目の跡とタイヤの線をつけながら走って行った。

 フィーは雪の中で尻餅をついたまま走りゆく荷馬車を見送って、それからゆっくり立ち上がった。体中についた白い粉は軽く叩くだけで簡単に落ちた。もっとも、落ちずにそのまま溶けてなくなってしまったものの方が多かったが。

 自分が今いるところが、町の一角であるということは立ち上がってから気が付いた。暖かい服を着た住人たちは、雪に塗れた泥だらけのフィーのことをまるで野良犬でも見るかのような瞳で眺めていたが、フィーが立ち上がったことにより育ちのよい人たちはさも最初から見ていなかったかのようにして一気に視線を散らした。

 そしてフィーは歩き出した。雪の降る中、ゆっくりと、着実に。







 雪はいつまでもいつまでも降り続いた。

 最初のうちは興味深々に赤い瞳を輝かせていたフィーも、半日を過ぎるころには雪に対する興味を失ってしまった。それでも雪は途切れることなくずっと天から降り注いでいたし、どこまでもどこまでも積もっていった。

 町に沿うようにして歩いていたはずなのに、いつの間にか町へ続く道から大きく逸れしまっていた。辺りに見えるには白く染まった木々や植物、山、動物。時折古ぼけた民家が遠くの方に見えるだけで、店はおろか畜農家の一件も見当たらなかった。途中、一件だけ家を見つけてこんこん扉を叩いたが、生憎空き家だったようで返事が返ってくることはなかった。けれどそれはむしろ幸運のことだったらしく、固いベッドの上でぼろぼろの布きれに体を包み、冷たい雪に晒されることなく一夜を過ごすことができた。

 歩き続けて二日目を過ぎることには、自分がどうやら東の方向ではない違うところへ来てしまったらしいとということに気が付いた。けれど、気が付いたときはすでに遅し、町からも人からも遠く離れた山の奥まで来てしまっていた。

 けれど、今更町へ戻ろうとしても、フィーには一体自分がどちらから来たのはどのようにしてここまで来たのかすでにわからなくなっていたし、小さなフィーには戻る体力も気力さえもすでに残っていなかった。

 途中、どこかの狩人の罠にかかって怪我をした足を引き摺っている子狐に遭遇した。狐の足跡をたどるようにして小さな血液が点々と垂れて、空から降り注ぐ雪がそれを覆うようにして積もっていった。

 ポケットの中からボロ雑巾のようなハンカチを取り出して足に巻いてやると、小さな子ぎつねは甘えるようにしてフィーの足もとにすり寄ってきた。雪まみれの子狐の毛皮はふかふかとして冷たいけれども柔らかく、ささくれたフィーの心を温めた。

 フィーは子狐を抱きかかえたまま、絶え間なく降り続ける雪から隠れるようにして木々の間に潜り込んだ。

 フィーは心身共に限界だった。フィーは子狐を抱きかかえたままゆっくりと瞼を閉じた。最初のうちぺろぺろとフィーの顔を舐めていた子狐も、次第に眠りに落ちて行った。  

 雪はいつまでもどこまでも降りつづけたが、フィーと子狐は一向に目を覚まそうとはしなかった。それはまるで辛い現実から目を逸らしているかのようでもあった。

 こんこんと死んだように眠るフィーを発見したのは、「ポポ」という名の老人だった。

 ポポは、その場所から三キロほど離れたところにある、人里離れた山の奥底に住んでいた。

 深く雪の降り積もるこの季節、殆ど山はおろか家から出ることもないのだけれど、その日は珍しく、山の麓にある店へと薬を買いに行ったのだ。

 ポポは非常に驚いた。なにせ、ひぃひぃ言いながら雪降る山を登っていると、真白く染まった木と木の間にぼろきれのような服を着た灰色の子供が怪我をした子狐を抱えたままごろんと転がっていたのだから。

 最初は死んでいるのかと思った。この時期雪の降り積もった山の中、興味本位で山に来て道に迷い、そのまま凍死してしまっている場合も珍しくない。実際ポポは、今までに何度も雪に埋もれてかちかちに凍ってしまっている人間を何度も何度も見つけていた。

 ポポは慌てて子供の体を起き上がらせると、半分ほど覆っている雪を払いのけた。小さな体はほとんど温度を失っていてそれこそまるで氷のようになっていたが、木の間に隠れていたことと子狐を抱いていたことがよかったのだろうか。灰色の髪を持った異色の子供は、目を覚ますことはなかったが小さく唸り声をあげてころんと首を動かした。

 この雪の中、本来だったら凍死してもまったくおかしくはなかっただろう。この子供は、素晴らしく驚異的な生命力で凍ってしまうような寒さの中を生き抜いていたのだ。

 ポポは子供が小さな反応を示したことを確認すると、自分の着ているコートを脱ぎそれで子供の体を包み込んで家に連れて帰ることに決めた。足にハンカチをつけた子狐は、フィーが抱き上げられたことで目を覚まし驚いて、そのまま山の奥に逃げ去った。

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