十四.かなしき再会



「いま、広場に王族と麒麟の使いがいるんだって」



 ティエンがかすみノ里に辿り着いたのは、サンチェと会った夜から数え、翌日の昼のことだった。サンチェの案内の下、里の正面入り口は避け、川沿いに生える背丈の高いあしに身を隠しながら、里の外れへと潜り込む道を選んだ。


 たいへん険しい道ではあったが、正面入り口の門付近にはグンヘイの屋敷があり、王族の兵が厳戒に見張っているとのこと。

 とくに、今は第二王子セイウが滞在しているので、大回りをしてでも、より安全な道を選ぶべきだと、案内人のサンチェは助言してくれた。


 おかげで翌日の昼間となってしまったが、それでも無事に里へ潜れたので、ティエンはホッと胸を撫で下ろした。兵士らに見つかってしまえば、当然この命はない。慎重に動かなければ。


 ひとまず、体を休めてから、次の行動に移ろう。

 そう話していた最中、里の様子を見回ってきたサンチェが、このような知らせを寄越してきた。


 それは驚きの知らせだった。


「本当なのか。サンチェ」


 今にも戸が外れそうな、おんぼろ納屋の中。干し草束に寄り掛かっていたティエンは、思わず立ち上がって、戻って来たサンチェに詰め寄る。 

 子どもは何度も頷き、市場にいた里の人間がもぬけの殻になっていることを伝えた。


「今なら食い物が盗み放題だぜ。ねぐらに残してきたジェチやチビ達にたらふく、飯を食わせられそう。ほんとうに人っ子一人いなかった。みんな、王族に頭を下げるために広場へ集まっているみたいなんだ。兵士達が麒麟の使いを口にしていたから、きっとユンジェも広場にいるはずだ」


 ティエンは喜びの声を上げそうになった。

 離れ離れになって幾日、やっと、ようやっとユンジェと同じ土を踏めている。

 今のあの子は下衆げすな兄の下にいる。頭の中では分かっていれど、まずティエンの胸を占めたのは大きな喜びだった。


 はやく会いたい、たった一人の家族に。あの子の顔が見たい。ああ、あの子は元気だろうか。


(ユンジェ。もう少しの辛抱だ。待っていろ。私は必ずお前を迎えに行くから)


 迎えに行ったら、うんっと褒めてもらおう。

 ユンジェならきっと、「俺よりも大人だろう?」と、笑いながら褒めてくれるに違いない。そして、わしゃわしゃと髪を乱してくるに違いない。

 髪を乱されるのは、あまり好きではないけれど、ユンジェがそうしてくれるのだから甘んじて受け止めたい。


 ユンジェがあれをしてくれると、いつも、くすぐったい気持ちになる。


「しかし。なんで、王族が広場に?」


 疑問を口にしたのは、眉間に皺を寄せているハオであった。


「ここは王都に比べると、あまりにも辺鄙へんぴな場所だ。里の人間を集めたところで、王族に何の得があるってんだ? 麟ノ国第二王子のセイウさまは、確かに青州を統べているお方の一人だが……どうも腑に落ちねーな」


「確かに。天降ノ泉を任された里だから、と言われたら、それで片せる話だが、いま泉を任されているのは里の人間ではなく将軍グンヘイだ。里の人間を集めずとも、あれと会えば、それで済む話だと思うが」


 王族の威厳を里の人間に示そうとしているのだろうか。カグムが腕を組み、軽く首を捻った。


 それはティエンとて同じだ。セイウの目論見が見えない。

 おおよそ、あれのことだから、善からぬことを思いつき、里の人間を集めたのだろうが、それにしても不可解である。


 考えても埒が明かない。

 ティエンは外衣を頭からかぶると、サンチェに広場へ案内してくれるよう頼んだ。第二王子の目論見とユンジェの様子が気になって仕方がない。


 カグムから納屋に留まるよう進言を受けたものの、それは綺麗に聞き流しておくことにする。彼はティエンの顔の広さを謳い、見つかれば大変厄介になることを切に訴えたのだが、じっとなんてしていられなかった。


 カグムも見越していたのだろう。力なく嘆息すると、こう一言添えた。


「少しでも、危ないと思ったら、ここに戻りますからね」


 返事の代わりに、軽く舌を出すと、「生意気なガキに成り下がりやがって」と、悪態をつかれた。知ったことではない。大切なのはユンジェだ。


 納屋から出ると、ティエンは足音を立てないよう、先導するサンチェの背中を追った。

 身軽な子どもは先に道を行き、十二分に兵士がいないかどうかを確認してから、大人達を手招いた。


 また彼は頭が回る子どもで、サンチェは広場に直接赴くのではなく、ある程度、広場と距離を置ける、けれど広場が見通せる場所を探してくれた。


 曰く、その方が兵士に見つかる危険も少なく、何か遭っても逃げる時間が稼げるだろう、とのこと。


 その結果、広場から少し離れた、高さのある家屋の平たい石屋根にのぼることが決まった。

 ここならば、そう簡単に兵士にも見つからないだろうし、見つかりそうになっても、身を伏せて過ごすことの可能だ。

 なにより広場の隅々まで見通すことができる。サンチェは鼻高々と言ってのけた。


 名案だ。ユンジェもきっと、同じような案を出すだろう。


「……クソガキも大概で野人だったが、このクソガキも野人だったか。揃いも揃って、高い所にのぼろうとしやがる」


 屋根の上にのぼることに、ハオは少々不満を持っているようだったが、時間は惜しい。

 ティエンは頭陀袋から草縄を取り出し、小石を先端に結びつけて、近くの木に放った。軟な力ゆえ、カグムの手を煩わせることになったのは余談としておく。


「よくもまあ、そんな非力でのぼろうと思いましたね。ティエンさま」


 嫌味を頂戴し、絶対に力をつける、と悔しい気持ちを抱いたのも蛇足としておく。


 こうして屋根にのぼり終えたティエンは、みなと共に広場の様子を窺った。

 不思議な光景が目の前に広がっていた。

 王族がいるにも関わらず、里の人間は平伏せずに広場を囲っている。それどころか広場の中央を指さし、興味津々に隣の人間と話を交わしている。


「あれ、ユンジェじゃね?」


 サンチェも指をさす。


 そこには色鮮やかな敷物と、数人の侍女と従者。そして、重量感のある木の椅子。

 その椅子には美しい簪や絹衣をまとった第二王子セイウと、同じく美しく着飾ったユンジェの姿があった。見慣れた顔なのに、見惚れるほど美しい容姿をしているように思えるのは、やはり贅沢の力が原因なのだろう。


 ティエンの両隣では、「クソガキがクソガキじゃねえ……」だとか、「あれで農民の子どもなんだから驚きだよな」だとか、「うへえ。ユンジェの奴、似合わねぇ」だとか、好き勝手な感想が飛んでいる。ユンジェが聞けば、さぞ苦笑いすることだろう。


 そんなユンジェは、セイウの足元で片膝を立てるように座っていた。

 寛いでいるようにも見えるが、思案しているようにも見える。正直、距離があるのでユンジェの細かな表情は読み取れない。


 目を引くと近くには、ああ、忘れもしない。おぞましい将軍グンヘイの姿。王族兵を連れて、第二王子の傍に立っている。


 またセイウの前には、両膝をつかされている、三人の男の姿が見受けられていた。首に縄が括られている様子から、おおよそ罪人だろう。


 セイウが口を開く。声はティエンの耳まで届く、よく通った声であった。


「王族に刃向かい、このセイウの首を狙った、愚かな賊の残党よ。いま一度、お前達に機会を与えましょう。お前達が自由になれる、その機会を」


 それだけではない。

 昨夕の襲撃に対する罪は不問とし、それぞれ願いを聞いてやる、とセイウは告げた。


 罪人らは大層訝しげな顔をしていたものの、とうの本人は生涯遊んでくらせる財をくれてやっても良いし、王族の兵士として雇っても良いし、土地をくれてやっても良い、と太っ腹なことを口にしていた。


「なんなら、私の首をくれてやっても良いですよ」


「せ、セイウさま」


 なんてことを言うのだ。

 口を挟んできたのは、近衛兵のチャオヤンであったが、セイウは右の手をあげて、彼の言葉を制する。


「此処に集まる里の人間らが、私から言質を取っています。ゆえに約束はたがえません」


 一度不問にしたからには、決して王族兵に手出しなんぞさせない。

 食えない笑みを浮かべ、肘掛けで頬杖つくセイウは語りを続ける。


「なあに。そう身構える必要はありません。少しばかり、私と勝負をしてもらいたいのです。聞くにお前達は元兵士だと聞いているので、どれほどの腕前なのか、少々見てみたい。リーミン、おいで」


 セイウが椅子から腰を上げると、ユンジェも立ち上がって、第二王子の背中を追い駆ける。その後を兵士達が追おうとするが、セイウは誰も来るな、と強く命じた。


(勝負? ……まさか兄上)


 嫌な予感を過ぎらせるティエンは天に祈った。この予想は外れてくれ、と。


 しかし、天は無情だった。


 セイウはユンジェの肩に手を置くと、兵士らに罪人の縄を解くよう命令し、高らかに言うのだ。


「この子どもは麒麟の使い。天から使命を受けた懐剣。これを折ることができれば、お前達の勝ちです。誰か、罪人らに剣を与えなさい。飛び切り良い切れ味の良い剣を」


 途端に里の人間らは口々に言った。

 やせぎすの子どもが麒麟の使い? なんて勝負だ。決まり切った勝負ではないか。勝てるわけがない。


 同じようにティエンも勝てるわけがない、と心中で嘆いていた。

 吐き気と眩暈がしてくる。なんて勝負だ。向こうに慈悲深いことを言っているようで、最初から決まり切った勝負を仕掛けるなんて。仕掛けるなんて。


「ど、どうしよう。ユンジェの奴、大人と勝負をさせられそうになっているぜ。死んじまうよ」


 青い顔をしたサンチェが急いで助けに行こう、とティエンの外衣を引っ張る。

 反応ができなかった。急かされても、返事すらまともにできずにいる。


「ティエンっ」


 サンチェが声を強めると、カグムがそっと子どもの肩に手を置いた。


「……大丈夫だ。ユンジェなら、大丈夫」


「えっ。でも」


「寧ろ、可哀想なのは、偽りの希望を持たされた罪人たちの方だ」


 哀れむカグムの言葉は、吹きすさぶ風に呑まれてしまう。ユンジェが懐剣を抜いた合図だ。


 その場にいる人間を圧倒させるほどの風を纏い、麒麟の使いと呼ばれた子どもは帯にたばさんでいる懐剣を抜くや、剣を向かって来る三人の男を見据え、冷たく微笑んだ。

 ティエンの背筋が凍ってしまうほど、それは冷たい笑みだった。


「あんた達はうつくしくないね」


 美醜を口にする子どもは、ユンジェらしくなかった。

 一振りの剣を避けると、目にも留まらぬ速さで懐に入り、容赦なく喉元に懐剣を差した。

 返り血で真っ赤になったところで、次の一振りを懐剣で受け止める。しかし、すぐに相手を斬り捨てることはせず、三人目の男を受け止めるために走った。


 それはセイウに向けられた一振りで、迷わず第二王子の胴を狙っていた。


「なっ」


 男が驚きの声を上げる。

 里に人間らも、どよめきの声を上げる。

 そして、ティエンは悲鳴を上げそうになった。もうやめてくれ、と叫びそうになった。


「だめだよ。主君を刺すのは、懐剣を折ってからじゃないと」


 麒麟の使いは迷わず、己の体で刃を受け止めていた。生身の体だというのに、突き刺された痛みすら表情かおに出さず、左肩に突き刺さった剣を思いきり上へ弾き飛ばした。


 後は流れるように男が刺され、その場に崩れ落ちるだけ。むごい光景であった。


(ユンジェになんてことを。心優しいあの子に、なんてことをさせるのだ。セイウっ!)


 何度も石屋根を拳で叩いた。悔しさのあまり、涙がこみ上げてくる。

 それでも、目を逸らすことだけは決してしない。ユンジェが負わされている業の重さを、ティエンは知る必要があるのだから。


「ふふっ、何度も見ても心躍る光景だこと。リーミン、戻りましょう」


 逃げ出す男を斬り終えたところで、セイウがユンジェに声を掛ける。

 高価な絹衣で懐剣を拭っていた子どもは、その呼び掛けに「はい」と、返事をして鞘にそれを収めた。

 主従の儀のせいだろうか。ユンジェはセイウに対して、たいへん素直だ。


 と、セイウが思いついたように頬を緩めた。里の人間らを見渡すとユンジェに命じる。


「リーミン。ここで平伏し、服従を示しなさい」


 麒麟の使いは誰のものか、ここで示す必要性がある。


 セイウの言葉に頷き、ユンジェはその場で両膝をついた。

 さも当たり前のように両手の甲を見せ、右の足で踏まれたことを確認すると、そっと足の甲に額を合わせる。


 完全に見世物だ。


(おのれっ、セイウっ……おのれっ)


 ティエンは涙の量を増やすしかできなかった。

 話には聞いていたが、こうしてセイウに服従している姿は初めて目にした。


 やるせなさがこみ上げてくる。

 なぜ、あの子ばかり苦痛な目に遭うのだ。どうして、あの子はいま、人間としての尊厳を奪われ、畜生だと皆に知らしめているのだ。なぜ、どうして。


 こんなにも悔しい思いをしているのにティエンは指を銜え、セイウを見送ることしかできない。

 ちょっと走れば、ユンジェの下に行けるのに。同じ土を踏んでいるというのに。


 ティエンはセイウの馬に乗るユンジェを、ただただ見送ることしかできない。


「……ユンジェは、王族の見世物なのか?」


 石屋根から下りるや、サンチェが悲しそうに尋ねてくる。

 彼もまたやり切れない思いで一杯なのだろう。あれはとても可哀想だ、と肩を落としてくる。


 誰がどう見ても、セイウがしていることは収集物コレクションの見せびらかし、だ。

 国に一つしかない懐剣をみなに見せびらかし、溢れんばかりの優越感に浸っていた。それはとても歪んだ優越感であった。


 子どもの問いに、涙を流すティエンは何も答えられない。代わりに、ハオが気まずそうに唸った。


「クソガキはどこまでいっても、生意気なクソガキだ。見世物でもなんでもねえよ。ただ、麒麟の使いである以上、これから先も王族に狙われちまうだろうな。あんなクソガキ、初めて見た」


 まるで別人だ。ハオは哀れみを瞳に浮かべた。


「おおよそ、懐剣の所有者がティエンさまから、セイウさまにかわったせいだろうな」


 誰よりも冷静なカグムは、別人に思えても仕方がないだろう、と意見した。

 今のユンジェは自分達の知る子どもではなく、セイウの影響を受けた懐剣リーミンと言って良い。普段は殆ど口にしない美醜を口にしていたのが何も証拠だ。


 やはり建前上でも、主従の儀をあの子どもに受けさせるべきだったのでは。

 カグムは棘のある言葉をティエンに投げる。頬を引きつらせるハオをよそに、「戯けたことを言うなっ」と、ティエンは烈火の如く怒りを見せた。


 ユンジェは人間なのだ。

 なぜ、主従の儀を受けさせ、畜生にしなければならない。


 強く訴えるも、「受けさせておくことで守られたかもしれないだろう」と、真っ向から反論を食らった。彼の荒々しい口調は昔を思い出す。


「主従の儀を聞く限り、確かに屈辱的な儀だと俺も思う。けど、辱めを受けるのはたった一度切り。その後は今までどおり過ごせば良い。ユンジェに儀を受けさせなかったばかりに、こんなことになっちまった。ピンイン、お前の優しさが今回、仇になってしまったんだ」


 表向きティエンがユンジェを下僕にしていれば、しかと所有者は自分だとセイウのように示しておけば、事態はもっと軽くなっていたやもしれない、とカグムは辛辣に物申した。


「この際、はっきり言うぞ。ピンイン。お前はユンジェに思いを寄せすぎなんだ。事情はどうあれ、あいつは懐剣の子ども。そしてお前は王族の人間だってことを忘れるな」


 この身分は天と地がひっくり返ろうと変わらない。

 カグムの正論に、ハオが「それくらいにしとけ」と、恐々口を挟むが、ティエンはすでに激情に呑まれていた。


 自分は好き好んで王族に生まれたわけではない。呪われた王子に成り下がるくらいなら、平民として生まれたかった。ユンジェとて、己を守りたい一心で麒麟の使いになった程度。王族に利用されるつもりなど、つま先もなかったはずだ。


 今まで王族扱いとは無縁の生活を送っていた。みなから死を願われていた。


 なのに、今さら王族の人間だの、身分だの、理不尽だ。


「思いを寄せて何が悪い。あの子は私の家族であって、下僕にするつもりなど毛頭ない。建前だろうが、なんだろうが、大切な家族に辱めを受けさせるなど、私にはできない」


「それが甘い考えなんだ。お前が望めば、ユンジェは主従の儀だって辛抱してくれる。あいつは賢い子どもだ。儀を受けることで、少しでもお前との関係が長引くなら、喜んで受けてくれる奴だ。なんで、お前はそれが分からないんだ」


「もう偽りの関係なんてまっぴらごめんなんだ」


 かつて友人だと信じて疑わなった男に、建前の関係など死んでもごめんだと嫌悪を吐き出した。


 たとえユンジェの頼みでも、主従の儀など交わさない。

 上辺の関係だとしても許せないのだ。所有者として間違った守り方だというのなら、間違いのままで良い。甘い考えだと罵られても、この考えを曲げるつもりはない。


 頑固になるティエンに、カグムは呆れ顔を作った。


「そういうところが、思いを寄せすぎだって言っているんだ。そこまでユンジェに思いを強めてどうする。あいつが折れた時、生きていけなくなるぞ」


「なぜ、生きる必要があるのだ?」


 カグムは面白いことを言う。

 ティエンがいま、生きている理由は、あの子と一緒に生きるため。二人で静かな土地で暮らすためなのだ。国のために生きているわけではない。王になるためでもない。ティエンはティエンの生きたいように生きようとしているだけ。


 二人で一緒に生きる約束がたがえてしまう日が来るのなら、ティエンは迷わず、あの子同様、折れる道を選ぶ。


「それはさせない」


 カグムが真っ向から、ティエンの生き方を否定した。

 白く細い手首を掴み、「お前は生きるんだ」と、生きなければいけないのだと、強く訴える。笑わせないでほしい。自分は第三王子の死を願っているくせにっ!


「たとえユンジェが折れたとしても、俺はお前を折れさせない。お前は国の椅子に座らなきゃなんねー男なんだよ」


「寝言なら寝て言え。貴様がピンインを殺したくせにっ」


「ああ、そうだ。否定しねーよ。そんでも、お前はユンジェとは違う。後追いして良い、軽い存在じゃねえ」


 お前はユンジェとは違う。身分が違う。カグムはしつこく訴えた。それがティエンの神経を逆なでさせた。


「だったら、ユンジェは軽い存在だと言うのか!」


「そうは言ってねーだろうがっ」


「そうではないかっ。大体、お前のやっていることは支離滅裂なんだ。私を守る兵かと思いきや、逆心を向け……かと思ったら、また私を守るお役に就いている。死を望んでいるのか、それとも生を望んでいるのか、はっきりさせたらどうだ」


 ティエンの問い掛けに、カグムは真っ直ぐ返事した。


「今も昔も放っておけねえ。その気持ちだけは、あの頃と変わらない。どんな思いを持っていてもな」


 それは、あまりにも狡い返事だった。

 憎しみを抱くティエンが、その言葉に苛まないとでも思っているのだろうか。手形がつくほど、強く握って見つめてくるカグムを見据える。やっぱり、この男の心が見えない。何年も一緒にいたのに。


「そこ。痴話喧嘩している場合じゃないぜ。なんだか、通りが騒がしい」


 終止符を打ってきたのはサンチェであった。人差し指を立て、里の人間の声を拾っている。


「ばっ、なんで、この雰囲気で痴話喧嘩とか言えるんだ」


「え? 違うのか? 二人の喧嘩を見ていると、両親の喧嘩を思い出してくるんだけど」


「そうだとしても、痴話喧嘩はちげぇって。意味を理解してから言葉を使え」


 ハオの非難を綺麗に聞き流すサンチェは、「ちょっと様子を見てくる」と、言って駆け出す。その足はすぐに止まり、息を呑む音が聞こえた。


 視線を投げたティエンは目を見開いてしまう。


 家屋の日陰となっている向こう。

 日差しをいっぱいに浴びて、こちらへ歩んで来るのは、返り血と己の血で真っ赤に染まった絹衣を纏う麒麟の使い――ユンジェであった。


「ゆっ、ユンジェ。ユンジェっ!」


 ずっと、ずっと、会いたかった子どもがそこにいる。

 感極まるティエンだが、その体を押しのけて、いち早くカグムが走った。彼はサンチェに下がるよう声を張ると、迷わず太極刀を抜く。

 カグムには見えていたのだ。ユンジェが懐剣に手を掛ける、その動作を。


 サンチェの体を思いきり引き倒すと、カグムは太極刀を振り下ろす。対照的にユンジェは懐剣を振り上げ、その小さな刃でカグムの一振りを受け止めた。

 互いに本気の一振りであった。


「くっ。ユンジェ、お前」


 顔を顰めるカグムを見上げるユンジェの目は、悪意や邪な心を見通そうと、どこまでも澄んでいた。

 しかしながら、いつも見ている目にはない、冷たい光が纏っていた。


「ハオっ。ティエンさまとサンチェを守れ。こいつはユンジェじゃあない。リーミンだ!」


 瞬きのこと。隙を突いた麒麟の使いが、カグムの股の間へ滑り込んで背後と取る。小柄な体躯だからこそできる芸当だった。


「舐めんなよクソガキ!」


 双剣を抜いたハオがカグムの背中に向けられた懐剣を受け流す。

 無防備になったところで、左の剣を振るうも、ユンジェはその一撃を避けることもなく、体で受け止めようとした。

 おかげでハオの方が寸止めせざるを得ない。


「くそっ。てめぇが怪我したら、また俺がお守する羽目になるだろうが」


「ばかやろう。手加減してんじゃねえぞハオ。相手は麒麟の使いだぞ」


 カグムの叱責よりも先に、懐剣の刃がハオの左腕に狙いを定めた。

 ハオは舌を鳴らし、瞬時に外衣を靡かせて、子どもの視界を奪った。これでも兵士の端くれ。戦を踏んだ数は、遥かにユンジェよりも多い。


 相手が怯んだ隙に、胴を蹴り押して距離を取る。

 すかさず、刀を逆手に持ったカグムが、体勢を崩したユンジェに一撃を喰らわせようとするも、突風に邪魔されて失敗に終わってしまう。その頃合いの良さは、まるで子どもに天の加護が宿っているよう。


 それだけでも畏怖の念を抱いてしまうのに、カグムは後ろへ飛躍するユンジェの身なりを見て、思わず息を呑んでしまう。


 ユンジェの足元にぽたぽた、ぽたぽた、と絶え間なく血の粒が落ちている。それは、先ほどセイウを庇った時に負った傷だろう。近くで見てはじめて分かる。ユンジェの傷は深い。


 それはつらく、苦しい痛みだろうに、子どもは涼しい顔で懐剣を構えた。


「ユンジェ。いまのお前は……痛むことすら許されないのか」


 依然、表情を崩さない子どもは目を眇め、「主君に逆心を向ける者はみな醜い」と、小さく呟いた。

 さらに子どもは続けて言葉を重ねる。なんびとも、このリーミンの目を誤魔化すことはできない。その悪意も、憎悪も、邪な心もすべて両の目でお見通しなのだから。

 ゆえに、主君にとって不利益になる、汚らわしいものはすべて斬り捨てる。すべて、すべてっ!


「っ……ユンジェ、正気に戻れよ!」


「サンチェ。前に出るな!」


 我慢がならなかったのだろう。

 カグムの脇をすり抜けたサンチェが、なりふり構わず、ユンジェに掴みかかる。


「お前ずっと、兄さんに会いたいって言っていたじゃないか! そこにいるのはお前の兄さんだっ! 悪意なんだか、邪な心なんだか知らないけど、その目が澄んでいるなら、しっかり兄さんを見ろよ! 俺はお前の願いを叶えたんだぞ!」


 絹衣の胸倉を掴んで大きく揺する。その勢いは衣を破くほど、強いものであった。

 しかし。ユンジェは鬱陶しいと言わんばかりに、サンチェの体を引き倒すと、馬乗りになり、両手で懐剣を握って振り下ろした。その殺意は本物であった。



「ユンジェ――っ!」



 誰もが目を瞠る。

 懐剣を突き刺そうとした、ユンジェの左肩に太い鉄鏃てつやじりが刺さっている。元々傷を負っていた左肩に深く突き刺さるそれを放ったのは誰でもない、ティエンであった。

 あのティエンがユンジェに弓を放ち、子どもに傷を負わせたのだ。それはカグムやハオにとって信じがたい光景ほかならない。それだけ、ティエンはユンジェを大切に思っているのだから。


 彼は構えていた弓づるを下ろすと、くしゃりと顔を歪めて、左肩を押さえるユンジェに命じる。


「ユンジェ、それを下ろしなさい。所有者の……主君であるティエンの声を聞きなさい」


 傷を負ったのはユンジェであるが、表情を変えない子どもの代わりに、痛みに顔を歪めていたのはティエンであった。


「お願いだから。私の声を聞いてくれ、ユンジェ」


 すると。能面のユンジェが懐剣を握ったまま、ゆるりと左の手を帯へと伸ばす。そこには布と紐に縛られたもうひとつの懐剣。

 ティエンは気づく。あれは自分の懐剣だ、と。


 こちらへ視線を流したユンジェと目が合う。

 その目を見た途端、ティエンはなりふり構わず駆け出した。が、すでにユンジェの眼には強い敵意が戻っており、馬乗りにしているサンチェから飛び下りるや、太極刀で斬り込んでくるカグムの一撃を受け止めた。


「待て。待ってくれ、カグムっ!」


 悲願するティエンを嘲笑うかのように、通りの向こうから青州兵がやって来る。

 先導を切る近衛兵チャオヤンを見つけると、「ちっ。厄介な奴のお出ましだ」と、カグムは大きく舌を鳴らした。ユンジェの懐剣を受け流すと、背中を向けて走り出す。


「ハオ! サンチェを連れて来い!」


 そう言うと、カグムはティエンの腕を掴み、目的のユンジェをその場に置き去りにした。あまりにも分が悪い、と判断したのだろう。


 それはハオも同意見のようで、サンチェの襟首を掴むと、無理やり立たせて走り始めた。


「ゆ、ユンジェは」


 振り返るサンチェが背後を指差す。

 向こうでは、すでに数人の兵士に囲まれているユンジェの姿。逃げる自分達を追い駆け、その懐剣で斬るために、兵士の制止も聞かず左肩に刺さった矢を躊躇いなく抜いている。よほど邪魔だったのだろう。大量の鮮血が流れても、なお兵士らの囲いから飛び出そうとしていた。


「ユンジェっ。ユンジェ!」


「振り返るんじゃねえよっ。いまは逃げることだけ考えろ。いまは、それしか手がねえんだ。それしか」


 分かっている。ハオの言いたいことは分かっている。それでも。

 とうとうサンチェは、断腸の思いでユンジェから目を逸らしてしまう。友達を助けるはずが、なぜこんなことに。泣きたくなってしまった。


 一方、ティエンは下唇を噛み締めながら小さくなるユンジェを目に焼き付けると、いっそう走る足を速めた。戸惑いながら走るサンチェとは対照的に、振り切るように足を動かす。


(ユンジェ。お前はこんな時も、こんな時すらも、私をろうとしてくれるのだな。すまない、本当にすまない。私はお前を迎えに来たというのに)


 周りの誰も気づいていないようだが、ティエンだけは子どもの隠された想いに気づいている。気づかないわけがない。一年間、口が利けなかった自分は、ずっとユンジェと目で会話していたのだ。それが寸時であろうと、子どもの想いは読み取れる。確かな自信があった。


(ユンジェ……)


 ほんの寸時に見せた、あの目を思い出すだけで胸が熱くなる。

 ユンジェはまだ、完全なリーミンになっていない。あの子の心はちゃんと残っている。どのような仕打ちを受けようと、辱めを受けようと、あの子はあの子なりに自我を保とうとしている。

だったら、自分のすることはひとつ。


 ティエンらは家屋と家屋の合間を縫うように走り抜けていく。前方に回ってきた兵士らに気づくと、ティエンは迷わず足を止めて矢筒から矢を引き抜いた。


「退けっ! 貴様ら、道を開けろっ!」


 弓づるを千切れんばかりに引き、道を塞ぐ兵士らの顔面目掛けて放つ。

 鉄鏃のついた重たい矢は、向かって来る兵士の柔らかな眼球を貫いた。


 それによって、里を轟かせる断末魔のような悲鳴が上がるものの、ティエンの眼中にはすでに映らない。手早く矢を抜いては引き、兵士らの目を正確に狙った。

 卑怯と罵られようがなんだろうが構わない。いまは生き延びるために必死だった。


「カグム。走れ。援護する」


 とても短い命令だったにも関わらず、カグムはティエンを置いて先を走る。

 自分の考えを読んだのだろう。兵士らの前に立つと、太極刀でそれらの剣を弾いた。隙ができたところで、兵士らの目や頬、喉を狙って矢を放つ。


 追って来る兵士らの方から悲鳴が聞こえてくる。

 ハオが双剣で兵士らを斬り捨てたのだろうか。矢を構えたまま振り返ると、ハオとサンチェも背後を振り返っていた。彼らは驚愕していた。ティエンも目を見開いてしまう。追って来る兵士と剣を交えているのは、平民を装った王族。


「まさか」


 外衣をかぶって顔を隠しているが、あれは麟ノ国第一王子リャンテで間違いない。

 兵士らを薙いでいる青龍刀は、第一王子がこよなく大切にしている愛刀なのだから。



「行け愚図。貴様はまだ、ここで死んで良い人間じゃあねえ。俺がつまらなくなる」



 逃げる手助けをしてくれるリャンテも、広場の見えるどこかで、麒麟の使いを見ていたのだろう。あれも麒麟の使いを狙う者。隙あらば第二王子から奪おうと目論みを立てているに違いない。


 そんな男がティエンを助けるなんぞ、おおよそ、くだらない理由があってのことだろうが、今は輩の行為に甘んじる他ない。

 ユンジェを助けるためにも、ティエンはここを乗り切って生き延びなければいけないのだから。


「こっちです。ティエンさま」


 先を走るカグムが通りを指さし、ティエンらを誘導する。

 また、彼は家屋の前に繋いである大きな荷馬車に目を付けると、馬の手入れをしている里の人間に刃を突きつけた。ひえっ、と悲鳴を上げて腰を抜かす男を尻目に、二頭の馬を奪うとカグムは各々に乗るよう指示する。



 こうして速い足を手に入れたティエンらは、兵士らを撒くために馬を走らせた。

 すでに包囲網が張られているであろう里の外へ逃げるのは諦め、身を隠せそうな場所を必死で探した。里の人間にも、将軍グンヘイの兵士らにも、簡単には見つからない場所を。


 その結果、ティエンらは里の中央部にあるうっそうとした森に目を付けた。架け橋を駆け抜け、警備兵を飛び越えると、厳かな空気が流れる森の奥へ奥へと進む。


「もう良いだろう」


 ここまでは追ってこないはずだ。そう判断したカグムが手綱を引き、馬の足を止めた。後ろを走るハオも、それに倣って手綱を引く。

 ざっと周りを見渡しても、見えるのは木々や小川ばかり。追っ手は見る影もない。


「さてと。撒けたのは良いが……これからどうしたもんかな。ユンジェが完全にリーミンになったいま、下手に手を出すのは難しいぞ」


 吐息をつくカグムを流し目にすると、ティエンは馬から勢いよく飛び下りた。


「どこへ行くのです。勝手な行動は慎んで下さい」


「案ずるな。お前の目の届く範囲にいる。ただ、少しひとりにしてくれ。気持ちの整理がしたい」


 その言葉の後、ティエンは声を窄める。


「カグム。先ほどの話だが……私の判断は、あの子を傷つける結果だったのやもしれんな。ユンジェには主従の儀を受けさせた方が、あの子のためだったやもしれん」


 もしも。もしもの話。

 ユンジェに主従の儀を受けさせていれば、このような事態にはならなかったのだろうか。あの子はティエンの下僕として、セイウの命令に抗うことができたのだろうか。己の判断は偽善で愚かだったのだろうか。疑問を置いて馬から離れる。

 返事は聞こえてこなかった。


 すぐ側を流れる小川の前に座り込む。

 そっと小川を覗くと、そこは木陰になっているため、はっきりと己の顔は映らなかった。


 しかし、流れる小川の水はとても澄んでいることが分かった。右の手で水を掬う。肌が粟立つほど、小川の水は冷たかった。


(ユンジェの心はまだ残っている。私はあの子を救ってみせる。決して、あの子のことを諦めるものか)


 だが。


(私とあの子の関係を……少し考えなければいけないのかもしれない。私はユンジェと家族であり続けたい。しかし、あの子がセイウ兄上と主従の儀で繋がっている以上、ユンジェは第二王子に逆らえない。それだけではない。もしもリャンテ兄上まで、あの子と主従の儀を交わしてしまったら。麒麟の使いがリャンテ兄上の懐剣を抜いてしまったら)


 おおよそ、麒麟は『黎明皇』を見極めるために、麒麟の使いを王族に寄越している。


 だとしたら、優先的にユンジェは主従の儀を交わした王族に従うことだろう。血で繋がった儀は、培った見えない絆よりも、ずっと、ずっと重い関係なのやもしれない。


 だったら、ティエンもいずれ主従の儀をユンジェと交わすべきなのだろうか。あの子を守るために、ユンジェを下僕にするべきなのだろうか。


(あの子は私と関わることで、どんどんと不幸になっていく気がしてならない。これも私の呪いのせいなのだろうか)


 もう何が正しい判断なのか、ティエンには分からない。


 ふと隣の草花が揺れた。そっと目を動かすと、サンチェが胡坐を掻き、持っていた水袋をティエンに差し出す。


「水。飲みなよ。落ち着くと思うぜ」


 半ば水袋を押し付けられる。

 困惑していると、「助けてくれてありがとう」と、前触れもなしにお礼を言われた。先ほど、ユンジェに襲われた時のことを言っているのだろう。ティエンはかぶりを横に振った。


「サンチェ。お前には謝らなければならない。ユンジェが……私の弟が、ひどいことをしたな。本当にすまない。あの子の分まで謝らせておくれ。サンチェには怖い思いをさせてしまった」


「べつに気にしてねーよ。ユンジェが正気でなかったことくらい、ガキの俺でも分かったし」


 それよりも。子どもはティエンをそっと見上げた。


「あんたは大丈夫なの? ユンジェのこと、矢で射ただろう? ……俺のせいだよな。ごめん」


「お前が謝ることじゃないさ。ああでもしないと、ユンジェを止められなかったからな」


 あの時、ユンジェがサンチェを刺してしまえば、あの子はいつまでも罪悪感を背負うことになる。以前、自分のことを『人殺し』だと言っていた子どもだ。その心の負担は想像もつかない。


「サンチェ。どうか、ユンジェのことを嫌いにならないでおくれ。あの子がああなってしまったのは、すべて王族のせいであり、私のせいなのだ。本当は心優しく賢い子なんだ」


 するとサンチェは軽く笑声をもらし、「どうして嫌うんだよ」と、軽くティエンの脇腹を小突いた。


「俺だって初対面のユンジェにひどいことをしたんだ。あいつの身ぐるみを剥がそうとした。そんでも、ユンジェは俺や俺の家族を守ってくれた。俺らのことをあんま責めることもなかった。優しい奴だってことはとっくに知っているさ」


 そんなユンジェを、サンチェは友達だと思っていると、つよく謳う。


「俺さ。ユンジェに言ったんだ。兄さんと再会できたら、兄さんも一緒に俺らと暮らさないか? って。俺らの家族ってガキばっかだから、まとめられる人間がほしくてさ」


 いや。こんなの建前だ。

 本音はもっと、もっと、ユンジェのことを知りたい。繋がっていたい、と思う自分がいる。

 あれはとても賢く知恵がある。その一面を見る度に、悔しかったり、すごいと思ったり、対抗心を燃やす自分がいたり。一喜一憂してしまうのだと、サンチェは語った。


「だから、さっきのユンジェを見て……悲しくなった。元のユンジェに戻ってほしくて先走った行動をしちまった。ごめんな。俺が走らなきゃ、あんたは矢を放たなくて良かったのに」


「サンチェ」


「安心してよ。俺はユンジェに対する気持ちは、なに一つ変わっていないから。あんたこそ、ユンジェに対する気持ちを変えないようにしてくれよ。俺にはあんた達の難しい事情とか、そんなの分からないけど……きっとあんたの想いは間違っていないと思うんだ」


 下僕より家族の想いを取ったティエンは、なに一つ間違っていない。サンチェはハッキリとティエンに伝えた。


「俺だって、チビ達を下僕にするなんて、そんなの……建前でも出来ないや。下僕にすることで守ることができたとしても、俺は俺が嫌いになりそう。もっと別のやり方で守れたんじゃないかって。ティエン、まだユンジェを下僕にするべきかどうか、結論を出すのは早いと思うぜ。それが正しい答えかどうかなんて分かんないじゃん」


 まずは死に物狂いで手段を探すべきだ。それこそ自分が納得するまで。

 ティエンはまだそれをしていない。他人の意見に流されそうになっているだけ。それではきっと、ティエン自身も納得せず、自己嫌悪に襲われ、それを見たユンジェも自己嫌悪してしまうことだろう。


「諦めるなよ。俺はあんたの考えに賛成するからさ」


 サンチェは子どもらしい笑顔を見せた。

 屈託のない笑みは、ティエンの不安を溶かしていく。


 何一つ解決などしていないのに、己の考えに自信が湧いてきた。


 そうだ、自分は納得も何もしていない。簡単にしか足掻いていないのに、何をもう諦めているのだ。よく考えてもいないくせに、主従の儀をせざるを得ない、なんぞと諦めるにはまだ早いではないか。


「サンチェ、ありがとう。私は気づかない内に、心が折れかかっていたようだ。目が覚めたよ。そうだな、お前の言う通り、諦めるにはまだ早い」


 うん、サンチェは満足気に頷く。


「大丈夫。あんたならユンジェを元通りできるよ。俺はそう信じているから。主従の儀とかなんとか、小難しいことは分かんねーけど、ティエンもそれっぽい儀を交わしたら良いかもしれないぞ。家族の儀とか」


 可愛い提案に噴き出してしまう。


「ふふっ、それは名案だな。家族の儀か。ぜひ、交わしたくなる儀だ」


 ふと、そこまで話した時、ティエンの脳裏に懐かしい思い出がよみがえる。

儀。そういえば、ユンジェに自分の懐剣を預ける際、あの子と儀を交わしたような記憶がある。あれは確か、ユンジェが使命を賜った際の立派な言葉を使ってみたいと、駄々を捏ねて――パキッ。枝の折れる音が聞こえ、ティエンとサンチェは素早く立ち上がった。追っ手か。


「サンチェ。私の近くに」


 警戒心を高め、サンチェの身を引き寄せた時であった。

 小川を挟んだ向こうから、柳葉刀りゅうようとうを持った男が姿を現す。


 数は五人、いや六人。身軽な麻衣姿は、王族兵ではなさそうだが、どいつもこいつも体躯は太く逞しい。武器を片手に歩いているのだから、物騒な連中には違いない。


 向こうもティエンらを見つけるや、顔が険しくなり、目つきが鋭くなった。やはり敵のようだ。


「ティエンさまっ!」


 異変に気づいたカグムが馬の腹を蹴り、こちらへ駆けてくる。しかし、それよりも先に、駆け出す者がいた。


「サンチェお兄ちゃんっ? やっぱりお兄ちゃんだっ!」


 それは男らの大きな体の陰に隠れていた。サンチェの姿を見るや、泣きそうな声を上げて、穏やかな小川に渡る。小さな男の子であった。しかも、その子どもは、ジェチと逸れた幼子であった。


「ヒョヌ! お前っ、ヒョヌじゃないかっ!」


 サンチェも小川に入ると、早足で幼子の下へ向かい、ヒョヌを力強く抱きしめる。

 緊張の糸が切れたのだろう。幼子は怖かったと、さみしかったと、か細い声を振り絞り、サンチェの体に顔を押し付けた。その姿にサンチェは心底安堵する。


「良かった、兵士に捕まっていなかったんだな。ジェチがお前のことを心配していたぞ。ひとりで、よくがんばったぞ」


 すると。ヒョヌが嗚咽を噛み締めながら後ろを指さした。


「あの人たちが、たすけてくれたの……でもね、あの人たちも、兵士さんだって」


「兵士?」


「うん。兵士さんだけど、兵士さんじゃない……兵士さんだって。たすけてくれた時に、お話してくれた」


 眉を寄せるサンチェの背後で様子を見守っていたカグムが、抜きかけの太極刀を鞘に収めた。



「お前ら、グンヘイの謀反兵か」



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