七.共に生きるということ


 ユンジェは久しぶりに、夢の中でじじと会った。

 ティエンと出逢う前は、人恋しさによくじじと夢で会っていたのだが、彼と出逢ってからはその機会がめっきり減ってしまった。

 それだけ寂しくなくなったのだから、悪い話ではない。


 でも無性に会いたくなる日もある。

 ユンジェは夢だと分かっていながら、じじとの再会を喜んだ。さっそくティエンと家族になったことや、旅をしている話をしよう。焼けた故郷の話や、リオの結婚も話してやらねば。


 あれ、じじが急かすように背中を押してくる。まだ何も話していないのに――そういえば、妙に腹がすいてきた。何か食べて来ようかな。何か食べて。


「良かった。ユンジェ、気が付いたのね」


 目を開けると、じじは消え、安堵したリオが顔を覗き込んでいた。寝ていたのだと察したユンジェは、寝台に入った前後がないな、と寝ぼけた頭で考える。


 それを尋ねようと声を出すが掠れた。風邪を引いたような、がらがら声だった。


「まだ動いちゃ駄目よ。傷が開くわ」


 身をよじって起き上がろうとするユンジェを、リオが慌てて止める。肩に鋭い痛みが走った。おかげで一気に目が覚める。


「体が動かねーんだけど。なんでだ」


 しかも、妙に頭がくらくらする。まるで全力で走った後のよう。やはり風邪だろうか。


「ユンジェ、憶えていないの?」


「憶え……あれ、ティエン」


 首を動かすと、ティエンが隣で身を丸くしていた。

 部屋は明るく、蝋燭に火も灯っていないので、日中だと分かる。なのに、彼は芯から眠っていた。ユンジェの右手を握り、寝息を立てている。青白い顔は彼の具合を示していた。


「ティエンさん。寝ずにユンジェの看病をしていたの。さすがに、三日が限界だったみたい。ご飯も水も取ってくれなくて、説得するのに大変だったんだから」


 ユンジェはようやく、自分の身に起きたことを思い出す。

 そうだ、自分は斬られたのだった。この痛みは賊にやられた時のもの。じつを言うと、斬られた後のことはあまり憶えていない。


 ただ、ただ、無我夢中に走ったことだけは、鮮明に憶えている。


 リオにみなは無事なのかと尋ねる。彼女は頷き、ジセンが軽傷ではあるが、他の者達は無事であることを教えてくれた。


 あの騒動から今日で四日目。

 ユンジェはその間、一度も目覚めず、高い熱を出していたそうだ。大量に出血していたことも原因だろうと彼女。ちなみに例の賊共は、織ノ町の駐在所に引き渡された。


 曰く、この土地では知らぬ者などいない、悪名高き辻強盗だったそうだ。

 織ノ町や周辺の養蚕農家、旅行商人などを相手取り、金目の物や人を攫っては懐を豊かにしていたという。


「元は傭兵だったそうよ。内一人が養蚕農家の子で、この辺りを知り尽くしていたみたい」


 なるほど。だからあの夜、容易に敷地に侵入できたのか。

 ユンジェは複雑な気持ちになる。養蚕農家の子どもであれば、仕事や身分もひっくるめ、家業の苦労も知っていただろうに。


「なんか。ごめんな。お前の家を騒がせて。あとで、ジセンにも謝らないと」


「何を言っているの。ユンジェ達のおかげで、賊を捕まえられたのよ。それどころか、私達を守ってくれたじゃない。ジセンさん、町長に感謝されたそうよ」


 賊共には賞金が懸けられていたらしく、目を瞠るほどの大金を貰ったそうだ。ジセンは困ったように笑い、こんなことを言っていたという。


『災いを歓迎したら、本当に幸いが降ってくるなんて。助けられたどころか、こんな形で大金が手に入るなんて思いもしなかったよ』


 それを聞いたユンジェは、思わず笑声を漏らす。そう思ってもらえるなら心も軽い。なんにせよ、迷惑を掛けたことには違いないのだから。


「でも、賊をどうやって運んだんだ。ジセン一人じゃ大変だっただろう?」


 するとリオが苦い顔を作り、突き上げ戸の方に視線を流した。つられて頭を持ち上げたユンジェは、物の見事に顔を引き攣らせる。


 そこには満面の笑みを浮かべたカグムが、腕を組んで立っているではないか。なんでここに彼が。


「あの人達が手伝ってくれたの。ユンジェの止血をしてくれたのも、あの人達なの」


「止血はハオだよ。あいつは看護兵だったからな」


 ユンジェは枕に頭をあずけ、深いため息をつく。

 本来であれば感謝しなければならないのだろうが、相手が相手だ。せっかく織ノ町で撒いたのに、なんでそこにいる。ああもう、笑顔が嫌味ったらしくて仕方がない。


(お手上げだな。ほんと)


 これはあれだ。今度こそ逃げられないというやつだ。

 謀反兵らに見つかっているだけではなく、ユンジェ自身が怪我人なのだから。


 向こうも分かっているのだろう。笑みを深める。


「ピンインさまが目覚め次第、お前を連れて発つ。下手なことは考えない方が身のためだ」


 分かっている。

 ユンジェはティエンに掛かっている衣に目を向け、それを引き上げて掛けなおしてやる。手を放す様子はない。それだけ、心細い思いをさせてしまったのだろう。


「カグム。助けてくれてありがとう。俺が寝ている間、世話を焼いてくれたんだろう?」


 どのような理由があろうと、ユンジェは彼等に助けられている。そして、友のリオ達に手を貸している。それについては礼を言わなければ。


 カグムは小さく頷き、気持ちを受け止めてくれる。それはそれ、これはこれ、と弁えてくれているのだろう。


「ユンジェ……」


 リオが眉を下げ、心配を寄せてくれる。嬉しいが、こればっかりはどうしようもない。ユンジェ達は見つかった。今の自分達に逃げ出す術はない。だったら、おとなしく従うしかない。




 ティエンは夕刻に目覚めた。


 看病疲れのせいで、すっかり美貌が褪せて見える。挨拶代わりに、それをからかってやれば、彼は大層驚いた様子でユンジェを凝視した。


 そして、目覚めたと分かるや、顔をくしゃくしゃにしてユンジェに縋ってきた。良かったと安堵し、涙目になって、体を小刻みに震わせていた。


 彼が目覚めることで、カグムは宣言通り、ジセンの家を発つ準備を始める。少しでも早く、天士ホウレイに王子を届けたいのだろう。


 ただし。すぐにでも発つのかと思いきや、そうでもないらしい。てっきり首に縄を括られ、歩かせられると思ったのだが。

 思ったことを口にすると、謀反兵のハオが阿呆だろうと、呆れた様子で説明する。


「お前は大量に血を流したんだ。もう三日は絶対安静だ。飯もまともに食えていない、自力で動けない、傷も縫ったばかり。そんな状態で、旅なんざ連れていけねーよ。死ぬ気か」


 そんなにも酷い状態だったのか。ハオに尋ねると、自分の止血がなければ、今頃天の上だと素っ気なく告げてくる。


 だったら、ユンジェは彼に礼を言わなければならないだろう。


「助けてくれありがとう。おかげで、死なずに済んだよ」


 気持ちを込めて礼を言ったつもりなのだが、なぜだろう、彼は疑心暗鬼になった。

 首をかしげるユンジェに、ハオは目を細め、自分をじろじろと観察して指さしてくる。


「クソガキ。そうやって油断させておいて、俺に何かするつもりじゃねーよな?」


 なんでそうなるのだ。ユンジェはきょとんとした顔で彼を見つめる。


「お前のことだ。隙を突いて、逃げ出すんだろう。そうだろう」


「俺の体のことはハオの方が詳しいじゃん。いまの俺が走れると思う?」


「……そりゃ、まあ」


「カグムはちゃんと、礼を受け取ってくれたぜ? なんでもかんでも、人を疑うのは良くないことだと思う。そんなんじゃお嫁さんが貰えないぞ」


「うっせぇ! だあれがそうした! お前、今までの行いを振り返ってみろ!」


「俺、頭の悪いガキだから、もう憶えてねーや」


「はああっ、なんでこんなクソガキを助けたんだか!」


 ハオは心底悔いていた。

 次は絶対に助けてやんねーと高らかに宣言されたが、ユンジェが眩暈を起こすと、早々に症状を診てきたので、根は気の良い奴なのかもしれない。どうしたってユンジェとは馬が合いそうにないが。



 結局、出発は四日後となった。


 その間、ジセンの家に多大な迷惑を掛けてしまうことが、心苦しくて仕方がないが、とうの家長は四日でも早いと素っ頓狂な声を出していた。

 彼はユンジェが完治するまで面倒看る気でいたようだ。ユンジェが怪我を負った原因は、自分にあると思っているのだろう。


 しかし。あれはユンジェ自身に原因がある。


 懐剣を抜けば、どうにか切り抜けられると思っていた甘さが、こんな怪我を招いてしまった。


 懐剣を抜いたところで、麒麟が力を貸してくれるかといったらそれは否。

 あくまで麒麟は、使命を果たす時のみしか力を貸してくれない。だから、無様にも斬られてしまったのだ。


 裏を返せば、使命を果たす時は常人離れした力が出る。ユンジェはうすらぼんやりと思い出していた。斬られた後も、なお所有者を守るため、全力で走っていたことを。


(俺はティエンの懐剣。それを絶対に忘れちゃいけねーんだ)


 さて。その所有者であるティエンは、どうもユンジェが目を覚まして以降、思い悩んでいるようだ。


 最初こそ謀反兵に連れて行かれることを懸念しているのかと思っていたが、どうもそうではないようだ。


 彼が他に悩むことなんて、ユンジェ自身のことしかないだろう。



「ティエン、どうしたんだ。明日は出発なんだから、今日の内に言いたいことは言っておけよ。しばらく二人きりになれないだろうしさ」



 出発前日の夜。

 ユンジェは寝台の上で胡坐を掻き、リオから貰った、針や糸、保存食を頭陀袋に仕舞っていた。


 今ある中身をしっかり確認して、今後の旅に備える。ジセンが報奨金の少しを分けてくれたため、路銀も増えた。


 じつは全額を渡されそうになったのだが、こんなにも世話を焼いてもらったのだ。それは、お礼代わりに受け取って欲しいと言って断っている。


 準備を整えたユンジェは、己の肩をさすり、問題はこれだとしかめっ面を作る。


 怪我のせいで、しばらく不自由を強いられるだろう。

 とはいえ、この怪我は不幸の幸いだ。自分は賊に斬られた時、肩から胸に掛けて斬られている。


 だが、胸に傷は無い。

 それはティエンが預けてくれた、麒麟の首飾りのおかげだ。これが柳葉刀の動きを止めてくれたおかげで、致命傷を負わずに済んだ。


(歩けるかな。正直体が重いし、まだ痛みも強いんだけど)


 隣を一瞥する。

 そこには、難しい顔で保存食を睨むティエンの姿。声を掛けると、間の抜けた声を出された。どうやら考え事をしていたらしい。慌てた様子でこっちを見つめてくる。


「どうした? ユンジェ。肩が痛むなら、痛み止めを持ってくるぞ」


 話を聞いていなかったらしい。ユンジェは吐息をつくと、体ごと彼の方を向いて、ティエンを見上げた。


「俺はお前がどう言おうと、くっついて行くからな」


 彼が呆ける。唐突の申し出についていけないようだ。


「口の利けないお前と一年も過ごしてきたんだ。その目を見れば、何を考えているかくらい想像がつくよ。おおかた、怪我人の俺をここに置いて行こうか、どうしようか、なんて考えていたんじゃねーの?」


 いたずら気に指摘すると、ティエンがやや視線を逸らして、違うと否定した。見え透いた嘘に笑いも出ない。


「違うなら俺の目を見ろ、ティエン……確かに今回のことは、お前にも迷惑を掛けたと思っているよ。俺は懐剣を過信していたんだ。抜けば、あの賊からジセンを守れると思った」


 しかし。懐剣はただの剣として、ユンジェの手に収まった。

 使命以外のことで使用しようとしたためだ。下手こいたと思っている。痛い目を見て、考えを改めさせられた。もっとよく考えようと反省した。


 ユンジェは謝罪する。

 自分の失態で心細い思いをさせたことを。

 けれど、こんな怪我で約束をたがえるようなことはしない。最後までティエンについて行くつもりだ。


 すると、それまで目を逸らしていたティエンが、まっすぐこちらを見つめてくる。

 てっきり、泣きそうな顔を向けてくるかと思っていたのに、彼の見つめてくる眼光は強かった。強い意思が、そこには宿っていた。


「すまないユンジェ。私は嘘をついた。少しだけ、お前をここに置いて行こうかと、お役を返上させようかと考えた。そうすれば、ユンジェはただの農民の子に戻る、と」


「だから、お前は俺を置いて行くって? ヤだね、俺はお前を一人にしてやんねーよ」


 そのようなクダラナイ理由であるのなら、懐剣だって返さない。

 一度授かった使命を放り投げることだってしない。ユンジェはティエンに生きてほしいのだ。一人にしてしまえば、ティエンはどこかで行き倒れになるやもしれないではないか。


 第一ティエンは勘違いしている。


「俺は麒麟の使いとか、懐剣じゃなくても、お前を生かすためによく考える。鬱陶しいと言われようが、どこまでもくっついて行く。使命が先だっているけど、ティエンと一緒に旅したいのは俺自身の気持ちだ」


「だが、ユンジェはあの時、止まらなかった。私はお前を止められなかった。ユンジェは私を守ろうと、使命を果たそうと、傷付いた体に鞭を打って走った」


 身に覚えはある。

 ユンジェは確かに使命を果たすことで、頭がいっぱいになっていた。何が何でも果たそうと走った記憶がある。


「それだけ、お前に生きて欲しいって気持ちが強かったのかもな。ごめん、そこは改めるよ。痛い思いはもうたくさんだし……ティエンに嫌な思いはさせねーよ」


「違うんだユンジェ。使命を果たそうとしたお前は何も悪くない。ユンジェを置いて行く、だなんて、そんなこともできない。弱い私は最後までお前について来てほしい、と願っている」


 無論、ユンジェは最後までついて行くつもりだ。先ほども言ったように、約束を違えるようなことはしない。


「ティエン、何を怖がっているんだ?」


 彼が何かに怯えていることは、目を見て分かる。しかし、口で言ってもらわないと、分からない部分だってユンジェにある。

 彼の気持ちを尋ねると、ティエンは一呼吸置き、「いまがとても幸せなんだ」と、返事する。


「形はどうあれ、私はユンジェと出逢えたことが本当に幸せだ。お前と出逢ったことで、はじめて自分で生きようと思えた。生かされる人間を捨てることができた。もう、孤独だったあの頃には戻れない」


「なら、悩む必要ないじゃん。お前は巻き込んだ責任を、最後まで取るんだろう? 一緒に生きるって約束したじゃん」


 なぜ、あえて独りになるような道を考えたりするのか、ユンジェには一抹も分からない。


「申し訳ない、私は不安だったんだ。ユンジェ、お前はもう私と同じ狙われる存在だ。兄達が、王族が、お前に目をつけ始めている」


 麒麟が王族以外の人間に使命を授けた。

 しかもそれは、麟ノ懐剣を通して授かった者。同じ懐剣を持つ王族は、ぜひ麒麟の使いを我が物にしたいと考える。

 それだけ、懐剣の所有者にとって名誉あることなのだ。


 ティエンは胸の内を赤裸々に語る。

 獰猛な兄達やクンル王、王族から家族を守れるだけの自信が自分にはなかった。ゆえに臆病風に吹かれ、ユンジェの呆れるようなことを考えてしまった。

 なにより、家族を奪われ、失うことが怖くて仕方がない。


 彼は弱音を吐く。ユンジェすらも目を見開くほど。こんなティエン、初めてであった。


「お前と過ごした一年も、いまの旅も、苦労は多いが楽しい。こんな日々が続けば良いと思っているのに、周りはそれを許してはくれない」


 いつか、ユンジェは懐剣として傷付くのではないか。利用されるのではないか。死を迎えるのではないか。

 そんな暗い思考を持ってしまうのだと彼は、苦々しく笑った。


「旅に出て、ずっと不安を胸に抱えていた。どうすれば良いのか、考えれば考えるほど、よく分からなくなったよ。私はお前を守りたいのに」


 そうか、ティエンはそんなにも深く悩んでいたのか。ユンジェは間を置き、そっと答える。


「俺だって、ティエンがいつ殺されるのか考えると怖いよ。怖くないと思った日なんてない」


 でも。それをさせないために、自分はお役を持った。

 それがなくても、ユンジェはティエンを生かすためによく考える。知識が足りないなら、ティエンに助けを求める。

 ひとりでは無理でも、ふたりならどうにかなると思っているのだ。


 懐剣だとか、麒麟の使いだとか立派なこと言われても、結局は十四のガキ。ユンジェひとりではどうしようもないことだってある。


「ティエン。俺が一緒に生きるって言った意味には、嬉しいや楽しいだけじゃない。苦しいや悲しいも含まれているんだ。都合が悪くなったら一人で頑張る、なんて変だろ?」


 そういう時こそ、二人でどうにかして乗り越えるべきなのだと思う。



「ティエンの不安はよく分かった。じゃあ、二人で今後のことをよく考えよう。それが、きっと、一緒に生きるってことだと思う。上手く言えないけど、一人で悩みそうになったら、今みたいに話し合えば良いんじゃねーかな」



 それだけでも、きっと不安は薄れる。いつもティエンに精神面を支えられているからこそ、ユンジェもこうして悩みを聞きたいもの。


「お前はもう、俺を十分に守ってくれているよ。目に見えないところでさ。これからも、なんか遭ったら助けてくれ」


 痛む肩を動かし、両手でティエンの髪をぼさぼさにしてやる。

 彼は小さく噴き出すと、力いっぱい抱擁してきた。痛みに悲鳴を上げるユンジェだが、ティエンはまったく許してくれない。

 それどころか、仕返しがてらに髪を乱された。


「ジセンの言う通りだ。お前と話したことで、なんだか、気が楽になった。気持ちも固まった。ユンジェ、私はお前と共に生きる意味を履き違えていたよ」


 頭に手を置いて、約束を結んできた。


「ユンジェは言ってくれたな。私を生かすと。ならば、私もお前を生かす。誰にもお前を利用などさせやしない。ユンジェは私の懐剣、兄達になんぞ奪われてなるものか」


 この約束は決して破らないと誓う。彼は高らかに宣言した。


「私は強くなる。少なくとも、お前を守れる程度には、強い男になるよ」


 ユンジェは妙に照れくさい気持ちを噛み締めた。けれど、相手の決意をからかう気にもなれないので、軽く抱擁を返すことにする。


「俺より強くなるなよ。懐剣の立場が無くなるから」


 小声で言うと、彼は声を上げて笑った。



 ◆◆



「やっぱり行ってしまうのかい? ユンジェ、ティエン」


 出発の朝、ユンジェとティエンはジセン達に見送られる。

 不安げに尋ねてくるジセンを筆頭に、幼子を抱くトーリャや、涙ぐむリオがもっと休んで行けば良いと言ってくれた。


 嬉しい申し出だが、これ以上、彼等に迷惑は掛けられない。

 向こうには見張りとも言える、天士ホウレイの兵が待ち構えている。二人がここにいる限り、カグム達は動かないだろう。仕事の邪魔になってしまう。


 また二人はお尋ね者だ。そして謀反兵のカグム達も追われる身だ。王族の兵に見つかれば、この土地共々ジセン達の大切な桑畑が荒らされてしまう。一刻も早く出発した方が良い。


「すごくお世話になっちまったなぁ。リオ、トーリャ、ジセン、本当にありがとう。この恩は忘れないよ」


「何を言うんだい。僕達こそ君達に救われたよ。二人がいなかったら、僕は嫁も家も失っていた。ユンジェ、あの時は本当にありがとう。僕は君のおかげで命拾いをしたよ」


 ジセンは手を差し出し、ユンジェと握手を交わすと、ティエンにもそれを求めた。


「ティエン、君は災いを運ぶと言ったけれど、僕はそうは思わなかったよ。寧ろ、あの夜の君を通じて僕は、麒麟を見た気がする。もしかして君は麒麟なのかもね」


 目を丸く彼に、「なんてね」とジセンは肩を竦めた。


「どうか、また遊びに来ておくれ。君もユンジェも大切な友人だ」


「呪われた王子に、そんなことを言ってくれる奇特な方は、国を探してもジセンくらいなものですよ」


 彼と入れ替わり、トーリャが交互に額を重ねてくる。


「どこに行っても仲良くするんだよ。ユンジェ、しっかり者のあんたなら大丈夫さ。ティエン、ちゃんと食べて太くなるんだよ」


 そしてリオは天士ホウレイの下へ連れて行かれる二人を、きつく抱擁した。


「死んじゃ駄目だからね。ユンジェも、ティエンさんも、私のご飯をまた食べに来て。温かいご飯をみんなで囲んで、楽しいお話をしましょう。お酒だって飲みましょう。待っているからね、ここを訪ねてくる二人を、ずっと、ずっと!」


 追われる二人にも、生きて再会を待つ者がいる。リオはそれを何度も教えてくれた。泣きながら教えてくれた。


 ユンジェは困ってしまう。最後くらい笑顔で見送ってほしい、と思うのは、些か贅沢だろうか。


「リオ、頑張れよ。ジセンさんとしっかりな。一人にしてやんなよ」


「ユンジェもね。ティエンさん、私より弱そうだから、ちゃんと守ってあげてね」


 大笑いするユンジェの隣で、ティエンが複雑な顔を作った。十五の娘にまで、自分より弱いと言われるとは思わなかったようだ。

 しかし、比較してみると、確かにリオの方が強そうである。ティエンが、まこと強い男になる道のりは険しそうだ。


「あとね。これ、生桑の実。保存が利かないから、今日明日中に食べて」


 布袋に入った桑の実を受け取り、二人はみなに深々と頭を下げた。

 別れの言葉を交わす、その中に三人の多大な心配が伝わってくる。これはただの出発ではない。天士ホウレイの兵達に連行される出発だ。

 これからの旅路を三人は、いつまでも心配してくれる。


 ユンジェとティエンとて、不安がないわけではない。カグム達の目を盗んで、また逃げ出すことができるのか、頭を抱える日々が続くだろう。

 だが、見送ってくれる三人には笑顔で大丈夫だと言いたかった。彼らに大きく手を振り、自分達を待つ謀反兵の下へ向かう。


「ティエン。俺達、しばらくはカグム達の言いなりだな。どうするよ」


「言いなりになんてなるものか。お前とよく考えて、逆らう道を探すさ」


「偉そうに、よく言うぜ。俺を置いて行こうかなぁ、なんて考えたくせにさ」


「そんなクダラナイ話はもう忘れた。まあ、話はユンジェの傷が癒えてからだな。それまでは、向こうの様子見だ。必ず隙を見つけてやる」


 ティエンは逃げ出す気満々のようだ。

 さっそくリオから貰った桑の実を、ひとつ抓み、あくどい顔を作っている。体はともかく、心は確実に強くなっている気がした。良い意味でも悪い意味でも。



「ユンジェっ!」



 足を止めて振り返ると、長い髪を靡かせたリオがユンジェに駆け寄り、勢いよく飛びついてくる。反射的に受け止めたことで肩が悲鳴を上げた、面には出さなかった。


 一体全体どうしたのだ。

 彼女の行動に戸惑っていると、リオが泣きながら、笑いながら、告げてくる。


「ユンジェ。私は幸せになったわ。仕事だって挫けずに続けているわ。ジセンさんの傍で、いつも笑っているわ。貴方の言葉通りになったの。私は今、とても幸せよ」


 それはリオが嫁ぐと知った時に贈った、激励の返事であった。気付くのに少々遅れてしまったユンジェだが、幸せを繰り返されることで、返事だと察する。


「だからっ!」


 感情をこらえ、リオはしゃくり上げる。


「今度はユンジェの番。必ず幸せになって。何が遭っても挫けないで。貴方は笑っている顔が一番素敵よ」


 リオのくしゃくしゃな笑顔が、頬を伝った涙が、胸に突き刺さる。

 でも、あの時のようにつらい気持ちにはならない。少々しょっぱかったが、喉の奥もひりついたが、とても温かな気持ちになった。この気持ちにつける名前を、ユンジェは知らない。


 ユンジェは必死に言葉を探す。

 王族が使う立派な言葉も、気の利いた言葉も、知らない自分だけど、素直な気持ちなら伝えられる。


「いつかまたリオに会いに来たら、その時、今の言葉に返事をするよ。お前が俺に返事をくれたように、俺もお前に返事をする。それまで待っててくれな」


「絶対よ。私、おばあちゃんになっても待っているから」


 これで最後になる抱擁を交わし、ユンジェはリオに笑顔と想いを残して、ティエンと去って行く。

 彼女は最後まで二人を見送り、大きく手を振ってくれた。いつまでも手を振ってくれた。


 ああ、彼女は確かに、ユンジェの想い人であった。甘さも酸っぱさも苦さも、そして――いとしい気持ちも、余すところなく教えてくれた、初恋の人であった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る