四.ティエン(弐)


 ユンジェはあまり、町が好きではない。

 そこは人が集い、様々な物が売られ、賑わいと活気があるので、見ている分には楽しい。特に祭りの時期は、朝な夕な人々が集まって、美味しい食い物や小物、曲芸なんかが見られて面白い。


 しかし。ユンジェはどうしても、町を好きになれない。農民であれば、誰もがそう思う。


 ユンジェは塩屋を訪ねた。

 農民達の間で、『カエルの塩屋』と言われ、忌み嫌われる店だ。店主がカエルのような顔をしているため、皮肉を込めて、『カエルの塩屋』と呼ばれている。


「こんにちは。塩を交換して下さい」


 奥の席で台帳に筆を走らせていた店主が、ゆるりと顔を上げる。

 のっぺりとした四面顔と、鼻にきびはいつ見ても、鳥肌が立ってしまう。口角をつり上げ、下劣な笑いを浮かべる姿は、本当に気味が悪い。

 背後にいるティエンも、何かを感じたのだろう。男の顔に、足を一歩下げていた。


「塩の交換か。なら、笊五杯分の芋と豆だ。それでいつも通り、一袋分の塩をやろう。ありがたく思えよ。これでも、安くしているんだから」


 途端にティエンが驚いた顔を作り、ユンジェに身ぶり手ぶりで何かを訴える。


 分かっている、あれは見え見えの嘘だ。塩一袋分が、笊五杯分の芋や豆と見合うはずがない。もっと、安く手に入ることをユンジェは知っている。

 塩の入った麻袋を一瞥する。値札がつけられているが、それがいくらなのか、読み取る力はない。


 なんとなく数字は読めるものの、それがどれほどの価値で、どれほどの芋や豆の量に相当するのか、ユンジェには理解できない。

 大半の農民達は文盲であるため、物々交換になると、町の商人から足元を見られることが多いのだ。


 それでも、塩は必需品である。

 金が用意できない時は、向こうに有利な交渉であっても、それを呑むしかない。


(相手が子どもだから、値段をつり上げてきているな。前は笊四杯だったくせに。気分で変えやがって)


 だから塩屋の店主は、農民達から嫌われているのだ。


(この後、油を買わなきゃいけない。芋と豆は、もう少し残しておきたいな)


 ユンジェは砂糖の入った袋を差し出し、店主に交渉を持ち掛ける。


「砂糖をつけるから、芋と豆、笊二杯分で勘弁してくれませんか?」


 店主の目の色が変わる。砂糖は贅沢品だ。商人といえど、簡単にお目に掛かれる品ではない。


「農民のくせに、良い物を持っているじゃないか。いいだろう。笊三杯分にしてやる。どうせ、砂糖の食べ方なんて、小僧には分からないだろうからな。有り難く頂戴してやるよ」


 ティエンの奥歯を噛み締める音が聞こえる。

 笊二杯分にまけないどころか、ユンジェの身分を蔑んできたのだ。腹立たしい物の言い草に、腸が煮えくり返りそうなのだろう。


「ああ、でも。この砂糖、本物かどうか分からないな。農民が砂糖なんて買えるはずもない。偽物だったことを考えると……塩は笊四杯分で譲ろう」


 とんでもない言い掛かりだ。

 さすがに偽物呼ばわりされ、砂糖を巻き上げられては困る。あれはトーリャがユンジェの気持ちに感謝を示した砂糖だ。

 それを苦肉の策として出したのに、まったく安くならないのなら意味がない。


「だったら砂糖は返してもらいます。笊五杯分、いま用意するので」


「だめだ。砂糖と笊四杯分でなければ、塩は譲らない」


 偽物呼ばわりしたくせに、しっかりと、贅沢品の砂糖は巻き上げる。なんて意地汚い人間なのだろう。


 ユンジェは下唇を噛みしめ、砂糖を出したことを後悔した。もっとよく考えて出すべきであった。


「分かりました。それでお願いします」


 結局、ユンジェは店主に丁寧に礼を告げて、物々交換を行った。

 顔色を窺いながらの物々交換は、いつ取引を行っても味が悪い。それでも、これに慣れていかなければ、生活していけない。もう塩を売らないと言われる方が困る。


 同じ要領で油屋から油を買うと、持参した収穫物が無くなってしまった。残っているのは藁の束ばかり。


 本当は収穫物を少しだけ残し、町で物売りをするつもりだったのだが、予定が狂ってしまった。


「ごめん、ティエン。嫌な思いをさせちゃったな」


 塩屋を出てからずっと、美しい顔が怒りにまみれている。

 やり切れない気持ちはユンジェも同じだ。

 もっと上手く交渉ができれば、笊二杯分で塩が手に入ったかもしれないのに。じじが生きていた頃であれば、この交渉は上手くいっていただろうに。


「俺が子どもだから、舐められたんだな。あのカエル店主、本当に嫌な奴だよ」


 気丈に振る舞う声が震える。目の奥が熱くなった。必死に顔を振って熱を冷ます。


 こんなことで挫けては、この先やっていけない。

 ユンジェは自分に言い聞かせる。大丈夫、いつものことだ。次は上手くやればいい。それを呪文のように繰り返す。


「ティエン、帰ろう。今日はお前の好きな米にするよ。それでも食べて、さっきのことは忘れ……ティエン?」


 町を出たところでティエンが立ち止まる。

 そして、おもむろに背負い籠を下ろすと、何度もそれを指さし、ユンジェに待ってくれるよう頼んだ。


「お、おいティエン!」


 ティエンが走って町へ戻っていく。

 残されたユンジェは、彼の背負い籠と留守番をする羽目になった。一体どうしたというのだ。町の用事はもう済んだというのに。便所だろうか。




「……やっと帰って来たな。ティエン」


 日が傾き、空が赤く染まり始める。

 それだけ、長いこと待ちぼうけを食らっていたユンジェの下に、ようやくティエンが戻って来た。何かを持っているようだ。


「お前な。急にどっかに行くなよ。心配しただろ!」


 帰って来るや否や、ユンジェはティエンを見上げて叱りつける。けれども、彼は優しく笑うばかり。まるで反省の色がない。

 眉をつり上げるユンジェに、ティエンが持っていた物を差し出してくる。

 笹の葉でくるんだ桃饅頭であった。蒸されて間もないようで、それは湯気立っている。


 声を上げて驚いてしまった。

 何故、ティエンが桃饅頭を買っているのだろうか。彼は無一文だ。それは助けた時に確認済みである。


「……お前、まさか」


 布から顔を出したティエンが、満面の笑みを浮かべる。

 予想した通り、彼の髪は短くなっていた。絹糸のように美しかった長い黒髪が、ユンジェと同じくらいに短くなっている。短髪になっても、その顔は女のように美しい。


「な、なにやってるんだよ。大切にしていた髪じゃないか!」


 ユンジェは知っている、彼が髪を大切にしていたことを。自分は農民であるため、髪を切ろうが、また伸ばせばいいと思える。


 だが、ティエンは違う。

 彼はいつも、あの長い髪を纏め、かんざしを挿していた。ユンジェと暮らし始めても、髪を纏め、簪を挿し続けていた。彼なりの誇りがあったに違いない。


 それを切って、売ってしまうなんて。


「もう簪が挿せないんだぞ。なんで、こんなことを」


 ティエンは笑みを深め、かぶりを横に振ると、腰にさげていた布袋を叩いた。銭の音がする。簪も売ってしまったのだろう。


 もう必要ないのだと態度で示し、頭に手を置いてくる。


 呆然と彼を見上げていたユンジェだが、次第に顔を歪め、体を震わせる。


「……おまえ、ばかだろ」


 先ほど堪えた涙が溢れ出てきた。


 ティエンは助けられた恩を返すために、髪を切り、桃饅頭を買って来たのではない。

 ユンジェを励ますために、これを買って来たのだ。町の大人達の汚いやり方に耐えるユンジェを、彼なりに慰めているのだ。


「ばかだっ、ほんとうに……」


 ユンジェを知る者達は皆、自分を『しっかり者』だと称賛する。

 じじがいなくとも、一人で生計を立て、前を向いて生きようとする姿が素晴らしいと拍手を送る。


 それは勘違いだ。

 ユンジェはしっかり者なんかではない。頼れる大人がいないから、一人でどうにかしようとも、必死に足掻いているだけなのだ。感情を殺し、我慢しているだけなのだ。大人になろうと、背伸びをしている、ただの子どもなのだ。


 抑えられない苦い感情を噛みしめ、ユンジェはティエンの懐に入った。胸に顔を押しつけ、我慢していた気持ちを吐き出す。


「悔しいっ、ティエン……俺、くやしいっ」


 上擦った声が泣き声にかわる。


「悔しい……悔しいよ」


 悔しいの言葉しか出ない。

 大切に育てた収穫物を、貰った貴重な砂糖を簡単に取り上げられ、尚且つ何も言い返せない自分が情けない。

 もっと知識があれば、言い返すこともできただろうに。塩の値札が読めれば、その価値を理解し、平等な物々交換が望めたかもしれないのに。


 無知だから損ばかりする。子どもだから舐められる。農民だから蔑まれる。そんな自分が嫌で仕方がない。


 知識さえあれば、こんな思いをしなくて済んだのだろうか。嫁ぐリオにも、素敵な言葉が贈れたのだろうか。ユンジェには何も分からない。


「桃饅頭っ……半分、お前にやるよ。一緒に食べよう。今日のことはそれで、忘れる。忘れられるから」


 強く頭を抱きしめられる。背中を叩かれ、子どものように慰められる。

 それが余計に涙と悔しさと情けなさを誘い、ユンジェは声を押し殺して泣いた。甘えるように泣き続けた。

 じじが死んで二年余り。誰にも頼れなかったユンジェが、初めて心から頼れる者を見つけた瞬間であった。



 ◆◆



「これが『おはよう』で、こっちが『おやすみ』で。えっと、『こんにちは』ってどう書くんだっけ?」


 ユンジェはティエンに、字の読み書きを習い始めた。

 これは彼の提案である。文盲のユンジェに、少しでも読み書きができればと、身近な物の単語を地面に書いて教えてくれるようになった。

 字が読めず、損ばかりしてきたユンジェなので、喜んでその案に乗った。


 読み書きの代わりに、ユンジェはティエンに生きる術を教える。畑仕事はもちろん、料理や火の熾し方、刃物の研ぎ方。狩りのやり方などなど、生きていく上で必要な知識は、すべて彼に教えた。

 

 そうそう。ティエンはとても狩りが上手い。どうやら弓の経験者のようだ。彼にそれを持たせると、百発百中で獲物を射る。ユンジェなんて足元にも及ばない。


「ティエンに狩りなんて教えるんじゃなかった。俺の出る幕ないじゃんかよ!」 


 あまりにも上手いので、ユンジェはその腕に嫉妬し、こんなことを言ってしまう始末。ティエンから大笑いされてしまった。



 二人で足りないところを補い合いながら暮らしていく内に、ユンジェにとって、ティエンはいつの間にか、かけがえのない兄のような存在となっていた。

 はじめこそ、世話の焼ける大きな弟ができたと思っていたが、ユンジェの精神面はいつもティエンが支えてくれた。

 理不尽な物々交換の取引時や、物がまったく売れなかった時、狩りの獲物を大人達に横取りされた時など、いつも彼が傍にいて慰めてくれた。


 口が利けなくとも、優しい目でユンジェを支えてくれる。

 そんな目に甘えたくなる自分がいるので、認めざるを得なかった。彼は弟ではなく、兄のような存在だと。


 一度認めてしまうと、小さな欲が出た。彼と言葉で会話をしてみたい。どんな声で、どのように喋るのか、とても気になったのである。

 思いが優り、ユンジェは何度か、ティエンに医者に行こうと誘ったことがあった。


「ティエン。医者に診てもらおう。俺、少しだけ髪が伸びたから、金は作れるよ。声が戻るかもしれない」


 しかし、ティエンは声の話になると、諦めたようにかぶりを横に振る。医者に診てもらったら、声が出ない原因が分かるかもしれないのに、彼は遠慮を示す。


 戻らないと分かっているようなのだ。

 ティエンはユンジェの気遣いに、いつも曖昧に笑う。そんな顔を向けられたら、無理に意見を押し通すこともできない。


(ちゃんと話してみたいんだけどなぁ。もし声が戻ったら、ティエンの本当の名前を呼べるのに)


 それだけではない。ティエン自身のことも、たくさん聞くことができるのに。




 ユンジェにすっかり心を許し、自分を可愛がってくれるティエンだが、ひとつだけ、未だに許されない行為がある。それは彼の懐剣に触れることだ。

 あれはとても大切な物らしい。ユンジェの頼みであろうと、決して触れることは許さない。いつも肌身離さず持っている。


(ティエンはあれを、簡単に抜けるんだよな。どうしてだろう?)


 一度、鞘から抜こうと試みたことがあるユンジェは、懐剣を見る度に首を傾げてしまう。非力なティエンに抜けて、彼より力のあるユンジェに抜けない理由なんて、皆目見当もつかなかった。



 ティエンと初めて迎えた、冬のある日。

 薪づくりに精を出していたユンジェは、ティエンの様子がおかしいことに気付き、作業の手を止めた。

 彼には細かく切り分けた木を束ね、広い場所まで運んでもらう仕事を任せている。もしや、運ぶ最中に足でも挫いたのだろうか。


「ティエン。何か遭ったのか?」


 声を掛けると、彼は焦燥感を隠すこともなく頷き、しきりに地面へ目を配っている。

 口が利けないティエンと、毎日過ごしているユンジェだ。彼の主張は態度で分かる。


 青ざめた顔で地面を見ている。

 ということは、何かを落としたのだろう。彼をここまで焦らせているのだ。ユンジェはティエンの帯を一瞥し、彼の落し物を把握した。


 たばさんでいる筈の懐剣が無くなっている。


(帯に挟んで作業したら、いつか落とすからやめとけって注意していたのになぁ。作業中は集中していることが多いから、落とした音にも気付きにくいのに)


 普段は懐に入れて持ち歩いている懐剣だが、体を動かす時は邪魔になっているようで、帯にたばさんでいることが多い。ティエンの悪い癖だ。


「手分けして探そう。二人で探せば、すぐ見つかるよ」


 すると、ティエンは自分ひとりで大丈夫だと、両の手を振ってくる。薪づくりを中断させては申し訳ないと思ったのだろうが、考えが甘い。


「あれ、鞘に綺麗な石がついているから、大人が見つけたら絶対に盗まれるぜ。ここらへんには、狩人や俺達のように薪を作る農民がうろついている。もし持ってかれたら、お前どうするんだよ。大切なんだろ?」


 急いで探すべき理由を教えると、ティエンは一層、青白い顔になった。よほど大切な物なのだろう。一緒に探して欲しい、と深く頭を下げてきた。


 水くさい奴だ。落し物を探すくらい、なんてことないのに。

 ティエンには運んでいた道を辿ってもらい、ユンジェは彼が木を束ねていた場所で、懐剣を探す。


(あいつのことだから、薪を持ち上げる時に落としたんだろう)


 木の束のどこかで懐剣を引っ掛け、落としたに違いない。非力な彼は、運ぶことに一生懸命になって気付くことができなかったのだろう。


(一番に力を使うところは、薪を持ち上げる瞬間だ。この辺りに落としていそうなんだけど)


 両膝をついて草を掻き分けていると、強い胸騒ぎを感じた。それは誰かに呼ばれているような、強いざわめきであった。息が詰まりそうだ。


 ざわめきにいざなわれる。手足が勝手に動き、夢中で草を掻き分ける。


「見つけた」


 ティエンの懐剣を見つける。

 大きな黄玉トパーズで彩られた鞘を見つめ、震える手でそれを拾う。これが己を呼んでいるのだ。この懐剣がユンジェを呼んでいる。


 懐剣を見つけたのだから、はやくティエンに知らさなければ。頭では分かっているのに、ユンジェは柄を握ると、ゆっくりと鞘を引いた。


 驚いたことに、いとも容易く、鞘から刃が抜けていく。以前は力を籠めても、びくともしなかったのに。


 半分ほど引き抜いたところで、頭に懐剣のざわめきが流れ込んでくる。

 そして嵐のように、ユンジェの中に入ると、好き勝手に暴れ回った。無数の針で刺されるような痛みが襲ってくる。吐き気がした。目の前に火花が散り、息が止まりそうになる。


(あっ、頭がおかしくなりそうだ!)


 ユンジェは体を折り、必死に胃液を呑み込んだ。口の中が酸いで満たされる。気持ちが悪い。急いで懐剣を鞘に戻さなければ。

 なのに懐剣は、ユンジェに使命を与えた。はっきりと、自分に伝えてきたのだ。


――汝、吉凶禍福の運命を背負いし天の子に、許されし者。その身が朽ちる時まで、守護の懐剣となることを。麒麟きりんの名の下に。


 ああ、これは天の声か。それとも幻聴か。


(鞘から懐剣を抜いてしまったら、きっと、この使命は俺のものになる)


 そんな気がした。

 遠いところで足音が聞こえる。ティエンだ。気力を振り絞って懐剣を鞘に戻すと、割れそうな頭の痛みに耐えながら、彼の下へ向かう。


(あっ……)


 森の向こうから歩いてくる、ティエンの姿を捉えたユンジェは、しかとその目で見た。彼の周りに、神々しい獣が纏っている。三本の大きな角、黄金の毛並み、鱗のある体。あれは彼が持っていた首飾りで見た、麒麟そのもの。


(なんだ。やっぱり、お前、天人なんじゃないか)


 吉凶禍福の運命を背負う天の子、ティエンに力なく笑うと、ユンジェは懐剣を手放し、その場に倒れて気を失った。


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