黎明皇の懐剣

つゆのあめ/梅野歩

第一幕:懐剣と少年

一.天人の男



「もしかして、こいつ……男なのか?」



 ふたりのはじまりは、蒸し暑い雨の日から語るべきだろう。

 後に語り継がれる、黎明皇れいめいおう懐剣ふところがたなは、身寄りを失った農民の子であり、当時齢十三の少年であった。



 その日、収穫した野菜を生活物資と交換するため、町へ出掛けたユンジェは帰りの道すがらで、すごいものを見つける。

 草深い森で天女が倒れていたのだ。この世のものとは思えない、美しい衣に身を包んでいるので、ユンジェは一目で天女てんにょだと判断した。


(すごい。天女って本当にいるんだ!)


 死んだじじが、よく話を聞かせてくれたものだ。

 空の上には、人間に勝る天人てんにんと呼ばれる種族が暮らしており、皆が皆、美しい容姿をしていると。あれはまぎれもなく、天人。女なので天女と呼ばれる者だ。


 急いで駆け寄ると、木の幹に凭れる天女の衣は、雨水と泥と血でまみれていた。天から真っ逆さまに落ちてしまったのだろうか。こめかみの凝固した血が目立つ。


 顔を覗き込むと、これまた美しい顔立ちをしていた。一つに纏められた美しい黒髪、ふっくらとした唇、長い睫毛。青白い肌を差し引いても、まずユンジェに勝ち目は無い。

 背丈は高く、肉付きも良い。やせぎすのユンジェより、ずっと良いものを食べているのだろう。また年上だと分かる。相手は天女なのだから、百年は悠に生きているに違いない。


 だが、見るからに天女は若い。大人とは言い難い、幼さをかんばせに宿している。その横顔は、子どもと大人のはざまに揺れる儚さを感じた。


(あれ……)


 ユンジェは天女の胸元へ目を向けた。

 無遠慮に、己の両手を胸板に押しつける。膨らみがない。


(女じゃないのか?)


 よく見ると、天女の格好は美しいものの、女性らしさは感じられない。黒の羽織に、白絹、金糸の刺繍。髪に挿さった象牙のかんざし

 知識の乏しいユンジェでも、相手は高貴な身分の男だとは分かる。恐ろしく整った顔立ちのせいで、女だと見間違えてしまった。天人の男は、皆こんな顔をしているのだろうか。


「なあ、大丈夫か?」


 恐る恐る声を掛ける。反応はない。

 しかし。耳をすませると、しかと呼吸はしている。

 ユンジェは困ってしまった。じつは面倒なものを見つけてしまったのでは。ここには自分しかおらず、周りに家屋もない。天女、いや若い天人は怪我をしている。


 もし、この男が天の使いだったら……見て見ぬふりをすれば、きっと天はユンジェに裁きを下すことだろう。

 いずれにせよ、ここに男を放置したところで、彼に待つ未来は追い剥ぎだ。容易に想像できるからこそ後味が悪い。


「ちょっとだけ、待っててくれよな」


 ユンジェは着ていたみのを脱ぎ、雨具を男にそっと掛けてやる。

 そして、荷となっている背負い籠を家に置きに行くため、尻尾のような髪を靡かせながら、雨空の下をひた走った。


 

 ◆◆



 男は三日三晩、眠り続けた。


 傷の方は浅く、体中の擦過傷こそ目立ったが、どれも大したものではなかった。如いて挙げるのであれば、頭部の切傷と、右脇腹の打撲であろう。


 怪我人は疲労が溜まっているのか、寝返りを打つ回数は少ない。こんなに寝て、腹は減らないのだろうか。ユンジェは看病をしながら首を傾げていた。


 男の格好は美しい衣から、使い古しの薄汚い衣に代わっている。


 それも仕様のない話。ここにある着替えが、彼の衣に代用できるものがなかったからだ。幸い、祖父の使っていた衣を取っていたため、男の着替えには困らない。


じじが着ていたものなのに、こいつが着ると高価な衣に見える。なんでだろう?」


 まったく見栄えが違うので驚いてしまう。これも天人の力なのだろうか。


「……こいつの着ていた衣はどうしよう」


 美しい衣に付着した血は、ユンジェの手では取れそうになかった。

 こんな時、知識と知恵があればな、と思う。


 死んだじじはいつも言っていた。知識は力だと。知恵は心だと。これらが豊かになればなるほど、人間は一回りも二回りも大きく成長するのだそうだ。


 生きるためには知識をつけろ。

 生き抜くためには知恵をつけろ。


 二つは同じ意味合いのようで、まったく異なる性質を持っている。


 死ぬ間際まで、じじはユンジェに諭そうとした。


 けれど結局のところ、意味は分からず仕舞いだ。

 ユンジェの持てる知識といえば、ひとりでも生きていけるよう、畑を耕したり、野菜を育てたり。木を伐ってまきを作ったり。藁を編んで縄やむしろを作って、それを売ったりする。その程度だ。


 どれもきっと、じじの指す知恵ではないのだろう。


「知識と知恵、何が違うんだろう」


 十三のユンジェには、とても理解しがたい話だ。



 そうそう。

 男の所持品であるが、驚いたことに、身に纏っている衣と、麒麟きりんが描かれた首飾り、そして懐剣ふところがたなしか持っていなかった。


じじが絵に描いてくれた麒麟より、首飾りの方が立派だな。でも、売ったところで大した金にはならないぜ。これ」


 まったくの無一文だったので、寝食はどうするつもりだったのだろうと疑問に思う。


 特にユンジェの目をひいたのは、護身武器の懐剣だった。


 これは見事であった。鞘の装飾に感嘆が出る。

 無駄のない漆黒の鞘に、煌びやかな宝石、黄玉トパーズが飾られている。それも満遍なく、ではなく、鞘の中心に大きく彩られていた。ただしユンジェは宝石を見たことも、聞いたこともなかったため、綺麗な石としか感想が出ない。


 ただ一点、この懐剣にはおかしなところがあった。


「やっぱり抜けない」


 力を籠め、鞘から刃を抜こうとするが、びくともしない。何度、試しても結果は同じ。ユンジェは懐剣をあらゆる面から観察する。

 護身武器のくせに、鞘から抜けない短刀なんて、使い物にもならないだろうに。


「天人にしか抜けないのかなぁ」


 ユンジェはまだ、この男を天人であり、天の使いだと信じていた。こんなにも美しく立派なのだ。天の使いだと言われた方がしっくりくる。

 懐剣を男の衣の上に置く。早々に抜くことは諦めた。男の所持品を、無暗に扱っては後で罰が当たるだろう。

 爺(じじ)が生きていたら、ユンジェの行いを咎めるに違いない。生きていたら、きっと。


「そろそろ飯にすっかな。腹が減った」


 ユンジェのひとり言は、己の腹の虫の音と重なり、静寂な家の内に響いた。




 夜更け。

 せっせと藁で縄をこしらえていると、寝台で横になっていた男の口から、低い呻き声が聞こえた。目覚めたのだろうか。手を止め、振り返る。起き上がる様子はない。

 寝台に近付いてみると、男は額に汗を浮かべていた。魘されているようだった。右の手が持ち上がり、何かを探すように宙を掻く。


 ユンジェは迷わず、その手を握った。驚くほど、男の手は柔らかい。

 農作業も何も知らない、清らかな手だ。所々マメがあることに気付くが、農作業に明け暮れるユンジェの手に比べると、まったく比ではない。まるで女のような手だ。


「どこか、痛いのか?」


 優しく声を掛けると、応えるように手を握り返された。


「天の使命を果たそうとしているなら、傷を癒してからでも大丈夫だと思うよ」


 そっと腹を叩く。


「大丈夫だよ」


 じじはいつも、ユンジェが怖がったり、怯えたり、不安になると、こうして腹を叩き、あやしてくれた。

 そして、大丈夫と呪文を掛けた。親が恋しくなった時だって、これで乗り越えられた。

 だから男にも効くと思った。


「大丈夫。ひとりじゃないよ」


 どうして、それを口にしたのかは分からない。

 だが、なんとなく男に慰めの言葉を掛けてやらねば、と思った。魘されている男は、どこか怯えて、怖がって、さみしそうに見えたから。相手はユンジェよりも大きいのに、小さな子どものように見えた。



 事態が急変したのは、夜明け前のこと。


 男の手を握ったまま眠りこけていたユンジェは、強い引きによって、浅い眠りから目を覚ます。重たい瞼を持ち上げると、繋いでいた手を振り払われた。

 顔を上げると、あの男が目を覚ましていた。黒真珠のような瞳がユンジェを捉えると、眼を見開き、口を開閉して叫んでいる。正しくは叫んでいると思われる。


 実際は擦れる音ばかりで声が出ていない。


「あんた、声が出ないの?」


 動揺している相手に、ゆっくりとした口調で話しかける。本当はユンジェだって、何かしらの感情を表に出したいのだが、男がこんな調子だ。それはできそうにない。


 男はますます動揺し、混乱したように両の手で喉を押さえた。声を出そうと腹に力を入れ、頑張っているようだが、やはり音は擦れている。


「無理に声を出さない方が良いよ。喉を痛めるから」


 手を伸ばすと、男は酷く怯えた。寝台から飛び退き、四隅に逃げる。そして、ユンジェと距離を取り、懐から何かを取り出そうとした。それも衣が違うことで青い顔を作る。

 男の鋭い睨みが飛んできた。所持品を盗んだと勘違いしているようだ。


 だったら、最初から追い剥ぎをしている。


(助けたのに疑われるなんて……)


 確かにユンジェは、常にお金がなくて困っている。食べ物だって、十分に調達できないことが多い。


 けれど、盗みを働いたことは無かった。

 過去に一度だけ【大きな過ち】を犯してしまったことはあったが、それをのぞけば、まっとうな道を生きてきたつもりだ。


 男の衣を取りに行く。ユンジェなりに丁寧に畳んでいたつもりだが、様子を窺う男の眉はつり上がっている。不満のようだ。


「はい。これ」


 寝台に衣を置く。その上に、彼の所持品を置いた。

 男は懐剣を探していたのか、それを見るや、ユンジェに捨て身でぶつかってきた。


「いて!」


 床に倒れ、後頭部を強打するユンジェの上に、男がのしかかる。そして、いとも簡単に鞘から刃を抜いた。びくともしなかった、あの懐剣を抜き、鋭い刃を振りかざしてくる。

 男はユンジェを殺すつもりなのだろう。


(なっ、なんでこんなことにっ)


 とんでもないことになってしまった。親切心で助けたら、恩を仇で返されてしまうとは。


 いや、それとも、『これが』男の使命なのかもしれない。

 天は見ていたのだ、ユンジェの罪を。それを裁きに来たと言うのなら、ユンジェは覚悟を決めなければいけない。

 怖くて目を瞑った。殺されると分かった瞬間、体が小刻みに震えた。身を小さくし、心の中で祈った。どうかじじの、両親の下に逝けますように、と。


 しかし、待てども待てども痛みがこない。


 ユンジェは恐る恐る瞼を持ち上げる。

 途方に暮れた眼と、視線がかち合った。死を恐れる自分と同じように、男も何かを恐れ、体を小刻みに震わせている。

 振り上げた懐剣を胸元まで下ろす、男の姿を目にしたユンジェは、勇気を出して声を掛けた。


「あんた、腹は減ってないの? 三日も寝ていたんだ。ひもじくない?」


 ありふれた言葉しか思い浮かばなかった。

 本来であれば、「殺さないで」とか、「助けて」とか、「許して」とか、そういった単語を口にするべきだろう。正直なところ、ユンジェ自身も、酷く動揺しているのである。


 すると。男が懐剣を落とす。

 ユンジェから退くと、両の手で顔を覆い、その場にうずくまった。幾度となく聞こえてくる擦れた音に、洟を啜る音、額を床に打ちつける音。


 男は慟哭どうこくしていた。よほど悲しいことがあったのか、怖い思いをしたのか、指の隙間から涙を零し、声なき声で泣き喚いている。


 呆然としていたユンジェだが、徐々に冷静を取り戻すと、男の傍らで両膝をついた。


「大丈夫。もう、大丈夫」


 背中を擦り、じじがいつも、唱えてくれた呪文を男に掛けてやる。一層、擦れる音が強くなる。男は腹の底から叫び、悲しみ、喚いているのだろう。


 ユンジェは男が落ち着き、眠りに就くまで、ずっとじじの教えてくれた呪文を口にしていた。


 何故だろう。男の方が年上な筈なのに、ユンジェの方が兄になったような気分だった。


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