コロネころりん


 その日、僕は山に芝刈りへ行った訳でも、川で洗濯をしていた訳でも、竹やぶで光る筒を見つけた訳でもない。ただ、パン屋に行ったのだ。カスタードクリームがいっぱい詰まったコロネが食べたくて。

 家の近くのパン屋へは週に二、三度通っていた。歩いて十分程度の場所にある。個人営業の小さなパン屋で、こうして何回も通っていると会話をするようになり顔も覚えられていく。おじさんやおばさんとも仲良くなった。


 「いらっしゃい。今日は何を買って行くんだい」

 「コロネが食べたくてね」

 「丁度作り立てだよ。タイミング良かったねぇ」


 パンは僕にとって小腹を満たすためのおやつであったり、弁当を作る時間が無かった日の昼食になったり、友人に会う時に手土産として持って行ったりとその日によって用途は様々である。今日は自分で食べるおやつとして買った。


 「他には買ってく?」

 「いや、コロネだけで」

 「はいよ」

 「あ、二つお願いします」

 「二つね、ありがとう」


 おばさんは袋にコロネを二つ入れた。お金を払って、紙袋を受け取る。思わず笑みがこぼれた。僕の顔を見たおばさんは「全く安い男だね」と呆れたように笑いながらも、六十円を手のひらに乗せてくれる。

 二百四十円。つまり、一個で百二十円。確かに安い。


 「また来てちょうだい」

 「はい」


 おばさんに見送られパン屋を後にする。外は暖かく、天気が良い。冷たすぎない風が背中を押すように吹き、道端の草花を揺らした。

 春だ。

 ほんの一か月前までは風も痛いと感じる程冷たい日が続いたのに、不思議なものだ。大抵の人も同じではあると思うが、冬になるとどうも家に籠りがちになる。暖房の利いた部屋でぬくぬくとしていたい。しかし、たまには外で食べるのも悪くない。こんなにも良い日だ。世に言うピクニック日和。弁当ではなくおやつを食べるだけだが、今は細かいことなどどうでもいい。今日を逃していつするというのか。僕はうんと伸びてから、公園へと向かった。


 公園と言っても、ブランコとすべり台の他に動物のモニュメントがある程度の場所。主に芝生がメインで、ハイキングコースや小高い丘などがあり、静かな場所である。僕はその丘の上のベンチに腰を下ろして一息ついた。見晴らしが良い。


 買ったばかりの紙袋の口を開けると、パンの良い匂いがした。カスタードクリームの甘い香りも立ち込める。僕は一度紙袋を自分の横に置き、ウェットティッシュで手を拭いた。


 遠くに風船が見える。赤い風船。そう言えば、ここに来るまでの展示場で子供に配っていた。あそこで貰ったのか。

 子供は風船をよく欲しがる。家に帰れば用済みとばかりに放って置かれると言うのに。数日後の朝にむなしく萎んだ物を母親がごみ箱に捨てるか、子供の居ない隙に割ってしまうか。そんなことは目に見えている。

 びゅうと風が吹いた。女の子の手にしていた風船が飛んでいく。小さな手を伸ばしているようだが、もう遅いだろう。空高く、吸い込まれていく。僕は空に上って行く赤色を見つめ、しばし気を取られていた。途端にその風は僕の元へもやって来る。思ったより強い風は紙袋を揺らす。袋はベンチの上で倒れ、緩んだ口はコロネを地面へと落とした。


 「あっ」


 丘は、転がるには十分な傾斜のようだった。見事に転がって行く。僕は反射的に、それを追いかけていた。

 芝生の上をころころと。貝殻のような渦巻きが、回っているように見える。眩暈がしそうだ。緩やかな斜面のはずが、止まらない。石にも枝にもぶつかること無く落ちている。全ての物がコロネを避けている気さえしてくる程だ。



 小さな穴にすとんと落ちた。

 落ちて、消えた。


 「うわ」


 僕はその穴を真上から見下ろした。自分の体で影になってしまっているのか、中は真っ暗で何も見えない。立ち位置をずらしながら何度か試してみるが、結果は同じであった。


 こんなに転がって地面に接触しているのだ。もちろん、拾ったとしても食べる気はない。ただ、食べ物をその辺に捨てて帰るようなことはしたくなかっただけのこと。ごみのポイ捨てと同じになってしまう。しかし、見当たらないのだから仕方ないだろう。



 諦めて、ベンチに戻ろうとした時。どこからか小さな声が聞こえた気がした。


 「コロネがころりん、こーろころ」


 耳を疑う。まさかと思ってその穴に近付いて耳を傾けてみる。すると先程の声が少し近付いた気がした。


 「コロネがころりん、こーろころ」


 僕は近くにあった小石をその穴の中に落としてみる。音もなく、落ちたような気配もない。


 「いたいっ!痛いじゃないですか……」

 「ご、ごめんなさい」

 「謝るくらいなら、石なんて落とさないで下さいよ」

 「ごもっともです」


 はたして、僕は誰と喋っているのだろうか。周りから見たら僕は不審者なのではないだろうか。そう思い、慌てて見回すが、辺りに人はいない。そして、また歌のような声が聞こえてくる。昔、ばあちゃんが読んでくれた昔話に出て来るような歌だ。


 「コロネがころりん、こーろころ」

 「なんか違くないですかね」

 「違う、とは」

 「いや……その。おむすびじゃないのかなと」


 穴の中に話しかける。ちゃんと会話が成立しているから不思議だ。


 「今ではおむすびが落ちて来ることなんて殆どありませんよ。良く考えてもみて下さい。普段、おむすびなんて言葉使いますか?おにぎりって言うじゃありませんか。それも最近では握ることも面倒だとかでなんてものがあるのだとか。全く、あなた達の食生活の変化で私たちの食事も欧風化してますよ」


 「……はあ」


 「コロネだけじゃありませんよ。そうですね……あんぱんだったり、メロンパンだったり。そうそう、この間はクロワッサンが落ちて来たんですけど何層にもサクサクしていて食べ終えたあとが大変でした。あちらこちらにクロワッサンの欠片が散らばってしまっていて、家中大掃除する羽目に」



 なんて声が聞こえるはずもない。


 しゃがみこんで覗いてみた穴は思ったより深いようで、中は見えなかった。モグラの掘った穴だろうか。どちらにせよ、土まみれになったものなど食べることは出来ない。

 戻って残りの一つを食べよう。二つ買っておいて良かった。

 緩やかな傾斜を上って行く。穴の中から聞こえて来た歌は、春風に掻き消された。



 コロネがころりん、こーろころ。

 もひとつちょうだい、こーろころ。


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