10. お帰りとただいま

 いつもなら早足で通り過ぎる道を、真衣と一緒にゆっくりと進む。真衣は話し出したら止まらないので、景色を意識せずにいられて、ちょうどいい。

 駅からいつもより時間がかかり、およそ15分ほどで見慣れた赤い屋根が見えてくる。


 赤い屋根に、壁の上半分がクリーム色、下半分がレンガ調の一軒家が我が家だ。

 とても可愛らしい外観の家で、亡くなったお母さんの趣味だと聞いた。

 今では手のかからない緑しか植えられていない花壇に、昔は色とりどりの花を植えていたそうだ。


 そういったことは全て鈴木のおじさんやおばさんに教わった。

 お母さんの生前の写真や、その頃の我が家の写真は、お父さんが処分してしまったのか見たことがない。

 でも、伝え聞く話や家の趣味で判断する限りでは、お母さんは可愛らしい人だったのかもしれないと想像している。


 お母さんがこの家で過ごしたのはわずか半年ほどだ。私が幼稚園に上がる前に家が完成し、幼稚園に上がってしばらくした頃、事故にあい帰らぬ人となった。

 その日、私はお隣の鈴木家に預けられていたおかげで、難を逃れたらしい。

 もしもその時、お母さんと一緒に出かけて、事故に巻き込まれていれば……なんてことを考えてしまうことはある。

 幸せというものがわからず、生きている意味が見出せないんだ。

 だから、ときどき。本当にときどきだけど、お母さんと一緒に死んでも良かったのに、と思ってしまう。


 でも、そうしたら、こうやって真衣と過ごすことはなかったのよね。

 隣で笑う真衣を見ていると、こんな人生も悪くないのかなと思えるので、私の人生にも幸せがあるとすれば、鈴木家の隣に住んでいることなのかもしれない。


 私は家の前で一瞬迷ってから、インターフォンを押して、鍵を開けた。

 自分の家のインターフォンを鳴らす必要はないけど、いきなり開けたら、崇さんが泥棒か何かと間違うかもしれないと思ったのだ。

 平日、今井さんは私の帰宅前に帰っているので、誰かが待つ家に帰るという状況が私にとって特殊だ。どうすることが正しいのか知らない。

 玄関で靴を脱いでいると、リビングからエプロン姿の崇さんが出てきた。


「お帰り」

「ただいまです」


 私は崇さんに頭を下げた。

 誰かと「お帰り」「ただいま」と言い合うことも少なくて、こそばゆい。


「あなたが崇さんですか? はじめまして、隣に住む鈴木真衣です」


 靴を揃えて脱いだ真衣も、上がり框を上がると丁寧に頭を下げる。崇さんも同じように返した。


「はじめまして、紺野崇です」


 私たちは挨拶を終えるとリビングに入った。

 真衣と一緒に、ソファに腰を下ろしたところで、崇さんが紅茶と焼き菓子を持ってきてくれて、私は下ろしたばかりの腰を上げた。

 これは決して崇さんの仕事ではない。家政夫とは言っても、料理と掃除の契約だけで、接客までするメイドとは違う。


「すみません、こんなことさせて」

「あー気にすんな。友達が来るって言うから、何かあった方がいいと思って、オレが勝手に用意しただけだ」


 そうやって差し出されたのは、見覚えのあるブールドネージュとクロッカンだった。


「これってもしかして、favoriの?」


 真衣がブールドネージュを1つ手に取って崇に訊く。

 ブールドネージュはアーモンドパウダーの入った丸いクッキーのようなものに、粉砂糖をまぶしたものだ。ほろっとサクサクでおいしい。

 クロッカンは卵白とナッツの焼き菓子で、カリカリザクザクの食感が楽しい。

 油脂が入ってないので軽くて、食べだすと止まらないのだ。


「自分でお菓子焼く時間はなかったからな。この前もらったケーキが美味しかったから、他のお菓子も美味しいかと思って買ってきた」

「崇さんすみません。お金は払いますので。って、崇さんってお菓子も作れるんですか」

「まあ、あんま気にすんな。お菓子は簡単なやつな。オレも甘いの好きだから、ときどき作るぞ。それより、今日は料理教えるのはなしにした方がいいのか」

「あー……」


 答えに困って真衣を見ると、目があった。


「茜、料理を教えるって何?」

「都合のつくときだけ、崇さんに料理を教えてもらうことになったの」

「茜が、大丈夫?」

「いや、大丈夫じゃないから危機感にかられて」

「まあ、ねえー」


 私の料理レベルを知っている真衣が遠い目をする。

 私が調理実習で卵をレンジにかけて、爆発させたことでも思い出しているのだろうか。

 温泉卵を作るために、黄身につまようじで穴を開けてから電子レンジにかけるという手順だったのに、何もせず電子レンジに入れてしまったんだ。

 でも、その失敗のおかげで、調理実習で洗い物に徹していても怒られなくなった。


「それなら、茜はちゃんと料理を教えてもらいなよ。私は茜の家に男の人が出入りするって聞いて、どんな人か見に来ただけだし、料理してるところを眺めてるよ」

「ええー、ただでさえ下手なのに、見られてるとやりにくいじゃない」

「まあまあ、気にしない気にしない」

「それで、オレは鈴木さんのお眼鏡にかないましたか」


 崇さんは作り笑いかと思うほど、にっこりと笑った。イケメンの笑顔は眼福……のはずなのに、空気がおかしい。


「んー。それはまだわからないけど、とても気遣いのできる真っ当な人だとは思います」


 対する真衣も、笑顔で応酬する。

 なんだ、これは。

 笑いあっているというのに、蛇とマングースがにらみ合っているような、不気味な対立に見えてしまう。


「まあ、じゃあ。お菓子を食べるでも、キッチンを覗くでも、お好きにどうぞ」

「はーい」


 崇さんがため息をついて、何かを諦めたように言うと、真衣は片手をあげて了承の声を上げた。


「茜は着替えたらキッチンに」


 私を見た崇さんに「わかりました」と頷いた。

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