第5話 呪術師

 朝食も身だしなみも整えたところで庭を眺めつつウトウトとする。

 さすが高貴なパパの別邸ということもあり、常には使わない場所であるが庭の手入れは十分に行き届いている。日本古来の奥ゆかしい苔が多く覆っている敷地に、外にある山や雲までもを世界観に取り入れる自然と一体化した美しい庭である。いや、庭という狭苦しいものではない、敷地も広大で池や川が流れており庭園と呼ぶべきだろう。

 もちろん日本庭園と言われるのはもっと後の時代からであろうが。


 かなこのいる部屋からは一部しか見ることができないが、四季折々の花が自然と一体化して植えられておりその時々にしか楽しめない風景を演出している。

 この暑さが広がっている季節では草も青々と手足を伸ばし緑がまぶしい。

 丸の内のビルの隙間に人工的に作られた箱庭であれば、申し訳程度に植えられた草がちょろちょろと生えているだけで、すべて同じ緑色と表現していた。

 だがこの庭園で生きている草花には一つとして同じ色はない。何万あるか分からない草たちがすべて違う色をしている。そしてどの草もが、

「私は自由、自分で選んでここで生きているの。」

と自己主張して堂々と生えているのだ。だから同じ緑色などとまとめてしまっては失礼だ。人の手による手入れも十分に行っているのであろうが、それがわざとらしくなく、あくまで自然の草花の力を補助しているだけというさりげなさだから草花も堂々としているのだろう。


 おちよが、おやつとしてすももを持ってきてくれた。みずみずしく輝いているすももからは優しく甘い草木の香りが漂う。ちょうど喉が渇いてきた頃だったので、すももで喉を潤そう。一粒手に取りかじる。


「んー甘酸っぱい。」


 口の中にすももの甘酸っぱい果汁がジュワッと染み込み、喉だけでなく心をも満たしていく。


「屋敷の裏庭で採れたすももにごじゃります。今年は実のできもよく艶やかな果実となりました。昔のたれぞの物語にも、幼き頃にはいかに一番美味しい時期を鳥に食べられないようにするか、鳥と競争をして喉を潤したという話がごじゃりましたな。鳥たちにとっても馳走にごじゃりまするな。」


 2個目に手をのばしながら、おちよのすももうんちくに耳を傾け頷く。確かに自分が鳥であったら、狙って採りたくなる一品だ。


「んー甘酸っぱい。」


 同じセリフが口から漏れ出てくる。


「んー。ん。」


 はて、何かが引っかかった。さっきのおちよの話で何か気づきがあった気がする。おちよの話を頭の中で反芻してみる。頭にも水分と糖分が回ってきたようだ。


「裏庭。いや、違う。鳥と競争か。いやいや私は鳥とは競争しない、負けるだけだ。」


「かなこさま、どうかされましたか。またお加減がお悪うごじゃりまするか。」

脳よ、フル回転してくれと思いながら、3個目のすももを咀嚼する。


「昔の、そう昔のたれぞの物語。そうだ物語だ。」


 急に立ち上がったかなこに驚き、おちよがあたふたと体を支えようとしてくれている。そのおちよの両肩をかなこの両手ががっしりと掴んで揺らす。


「おちよ、物語よ。本よ、図書館だと情報が収集できるわ。誰か私と同じような境遇の方の情報が残っているかもしれない。」


「とうしょかんとはいかなるところにごじゃりまするか。」


「あぁ、本よ。書物。この時代であれば巻物かしら。巻物がたくさんあるところへ私を連れて行ってちょうだい。」


「この奈良の別邸にはあまり巻物はごじゃりませぬ。京都の本宅でなければ。このあたりで巻物が多く所蔵されているのは、やはり東大寺の蔵にごじゃりまするか。」


「では、東大寺の蔵へ連れて行って。すぐに支度を。」

重い着物をそそくさと脱ぎ捨てて着替えの準備をしているかなこの両肩を今度はおちよの両手ががっしりと掴んでいる。


「かなこさま、落ち着いてくだされ。巻物を読むには許可が要りまする。女人に許可は下りないかと思われまする。」


「ではパパに、ではなく父上さまにお頼みしてみましょう。父上さまのところへ連れて行って。」


 切羽詰まっているかなこの勢いに、おちよも引き下がって中納言さまへの許可申請の手紙をしたためる手配をしに部屋を出て行った。


 この時代であれば和歌が教養の一つであったので、読書に関しての男女格差はないと考えていたが、もしかしたら男性の読み物、女性の読み物と分かれているのかもしれない。紫式部や清少納言が書いた物語は恋の話題が多いので女性向けで、政治や海外情勢については男性の読み物という分類があるのか。

 いづれにせよ、東大寺の巻物が男性限定のものとされているのは気に食わない。何としてでも読みたい。


 だが、果たしてこの時代の文字を私は読むことができるのか。平安時代の絵巻物は教科書か美術館かで見たことがあるが、かな文字はかなり崩されていたので解読が厳しかった記憶がある。だから美術館での解説はそれなりに現代語に訳されていた。

 京都や奈良が好きで奈良の正倉院展には良く訪れてじっくりと見ているが、平安時代から少し遡っただけで、オンリー漢字だった。正倉院展で出展されている戸籍や手紙なども解読できるのはほんの数箇所の単語のみ。それも解説コメントが入っていて、読めるところの存在に気づくといったレベルである。その私が巻物を解読できるのだろうか。おちよが翻訳してくれれば良いが、おちよもどこまで読み物ができるのか確認できていない。


「かなこさま、かくにんしてまいりました。」


 巻物を読めるか思案していたかなこの頭脳回路に、おちよの声が響く。


「で、いかようであった。」


「かなこさまの現在の記憶を無くされている状態の要因を探すためとして、中納言さま付きの女中へお伝えし、なんとか中納言さままでお取次いただくようお願いしてまいりました。また明日にはお返事があるかと思います。」


「結局明日にならないと分からないのね。」


 ちょっとパパに用事をお願いするのに、SNSを使えば5秒で終わることを、こんなにも遠回りに様々な人の託けで伝言ゲームとなってしまうのは歯がゆいが、直接やり取りするツールがないので仕方ない。


「いえ、明日になって中納言さまへお伺いはできまするが、おそらく前例を確認

して、東大寺の住職へ許可をもらうとなると、巻物を読めたとしても半月はかかるかと思われまする。」


「なんと。」


と言ったきり、絶句してしまった。


 普段の仕事では何か依頼をする際はボリュームにもよるが、決裁、資料チェック、スケジュール確認など数時間前に依頼をすれば大抵のことは対応してもらえる。仕事では段取りと水面下での差配が重要であるが、半年も前から段取りをしておくなど、よほどの重役のスケジュール確保や報道発表を控えたものくらいではないか。


 この時代であれば、何かを依頼する際は些細なことであっても1週間くらいは調整時間がかかると見ておいた方が良さそうだ。前例確認がどのくらい前まで遡るのか分からないが、平安時代から前で記録に残っている天皇の御代まで遡るとなると気が遠くなる。ましてや前例がないものをしようという風潮ではないだろうから、前例がなかった場合のハードルは相当高いだろう。

 女帝時代、確か孝謙天皇や持統天皇時代の記録があれば、東大寺の書物も読まれていたと想定されるが、読み物の範囲は限られているかもしれない。


 今の時点で他に情報を得られる手段が思いつかないのであるから、前例を調べて東大寺へ許可をもらうという手順が踏まれるのを待つことにしようと腹をくくる。


「とりあえず、なる早でお願いします。」


「なるはや。そういう巻物があるのでごじゃりまするか。」


「いえ、できる限り早めに確認をお願いします。」


 略語は厳禁であった。


 情報収集や伝達をするのに現代の通信は何と発達したことか。それに慣れきって当たり前に使っていると、人間はどのようにしてそこへ至ることができたのか、人々の知恵と努力を感じる。この時代からすると、平成の世は想像だにできない便利な世の中だ。私たちが22世紀の未来を夢見るのとは桁違いの行為なのである。


 現代から未来を予想するのにはSF映画や摩訶不思議なアニメの世界があり、想像力を養うことができる環境が揃っている。それに比べて平安の世での想像は陰陽道や呪いといった世界に端を発しているところ、その延長線上に並ぶ想像の未来はどのようなところに行き着くのだろうか。


「おちよ、あなたがいろいろな話を知りたいと思ったら、どうするのかしら。」


「話が集まるところといえば、井戸端と決まってごじゃりまする。市中へ出かけるのも。」


 そこまで言っておちよは口を噤んでしまった。おそらく、市中へ簡単に出ていける身ではない私に気をつかったのであろう。だが、聞いてしまったのだから、私を止めようとしても手遅れである。


「おちよ、市中へ出かけましょう。」


「何をおっしゃいまするか。外はあぶのうごじゃりまする。お外へあそばされたと中納言さまのお耳にでも入ったら大変なことになりまする。」


「こっそりと行けば大丈夫よ。」


と言う私に向かって、おちよは膝を忍ばせて近寄ってくる。近づいてきたからか顔はいつもの2割増に大きく、目は更に見開いているので5割増となって私はおちよの影の中へと引きづり込まれてしまった。


「何があってもかなこさまは屋敷の外へはお連れできませぬ。まだ回復もされていない御身に何かあったらと思うと。」


凄んで見たものの、やはり最後の方は涙声となり聞き取りづらくなったが、泣き上戸のおちよの涙に負けてはいけない。私は早く情報を収集して現世に戻らなくてはいけないのだから。


 その後、約1時間ほど、おちよは粘って私の説得を試みたが、とうとう折れた。


 先日の夜に怪しい男を私の寝間へ連れ込んだという罪状を突きつけ、中納言に言われたくなければ私を外へ連れ出すようにという、少々強引な手を使った。それでも最初は大泣きに泣いていたので、市中で髪飾りを買ってあげるというと、何とか涙ながらに頷いたのだった。ちゃっかりしている。


 夜は危ないので、明日の朝食後に体調が思わしくないという理由で寝込む振りをして、下女の服装に着替え、市中へ買い出しをする予定があった下女に成りすまして裏口を出るという作戦を取ることになった。



 翌朝。天候は上々で市中見学日和である。

 朝の洗顔と化粧と髪漉きと朝食をいつもの通り終えるが、ところどこで頭に手をやってみたり軽く咳き込んでみたり演技を交えて体調不良の様相を徐々に出していく。抜け出すのが他の下女にも知られぬように一旦はいつもの雅な着物を着付けてもらい、平然と定位置に収まる。


 四半刻して、周りの者たちが部屋から遠ざかりそれぞれの持ち場での作業についた頃を見計らい、そろそろ脱出の頃合いかと図る。


「おちよ、さぁ、着替えを。」


 急いで重い着物を脱ぎ放ち、下女の服装に着替える。重い着物から軽い着物になると、華やかさは減ったものの解放感と自由度が増して軽やかに弾みたくなる。対照的に未だ外出に渋っているおちよは何をするにも動作が遅くなる。


「さぁ、急がないと、おちよの髪飾りを選ぶ時間がなくなってしまいますよ。」

おちよの耳がピクリと動き、無言には変わらないが俄然動作が素早くなる。



 下女の服装に着替えてみたが何かしっくりとこない。また手かがみを最適な位置に置いてそっと自分の姿を遠ざけてみる。


「姿格好はなるほど下女だけど、髪型と化粧が少し下女にはない感じなのかしら。」


「かなこさま、失礼いたしまする。」


 かなこのつぶやきに対して、おちよはどこかから汚そうな晒しを持ってきてかなこの顔をゴシゴシと擦り出す。少し憎悪を含んでいる擦り方に感じる。


「おちよ、痛いわ。それに何だかこの晒しは匂いが、臭い。」


「そりゃ糠漬けの余分なところを拭った時に使う晒しですからね。このくらいの匂いと泥臭さがなければ、かなこさまの香と化粧を剥がして下女に見せることはできませぬ。」


そりゃそうだと納得する。


「臭い。」


「我慢くだしゃりませ。」


「痛い。」


「お忍びで市中に出たいとおっしゃったのはかなこさまにごじゃりまする。」


臭さと痛さを浴び続けて顔を背けたり仰け反ったりしているうちに頭も自然と右へ左へ振り乱していたようで、顔がくすんでくるのと同時に髪型も下女らしく苦労を湛えた風に収まった。


「これで下女に近づきました。失礼いたしました。」


とかなこの変装を満足気に眺めるおちよ。だが、おちよにも下女感が足りていない。そそくさと晒しを仕舞いに行こうとするおちよの手から晒しを奪い取り、おちよの顔にもお返しをする。


「臭い。」


「我慢しなされ。」


「痛い。」


「何の、これしき。先ほどはもっと優しくしてくれていたでしょ、お返しですよ。」


 無事に二人とも下女のなりになったところで、裏の勝手口から外へ、かなこさまの使いで市中へ行く用事があるということを門番に伝え、そっと出る。

 この屋敷の中だけでも数十人の人々が仕えているので、初めて見る顔の女人でもかなこの遣いと言うだけで怪しまれずにすぐに外へ出られる。


 屋敷からしばし離れたところで大きく伸びをする。


「フムム。外の空気は本当に気持ちいいわ。」


 平成の世の夏であれば出来る限り屋内の暗いところで過ごしたいと思うところだが、この時代は夏といえども過ごしやすい。猛暑日どころか夏日にすらなることはなさそうだ。皆暑い暑いと口を揃えて言うが、それは単に着物が分厚いだけであって、気候自体はいたって過ごしやすい。


「それにしても、本当に夏の間の仮住まいとはいえ、大きなお屋敷ね。端から端までがこんなにも広いなんて。」


「そりゃ中納言さまの別宅でごじゃりまするから。おちよもかなこさまに仕えられ、この大きなお屋敷で過ごすことができて幸せにごじゃりまする。」


「では、そんなおちよが普段息抜きに行くところへ連れて行って。多くの情報を収集したいの。」


「では、まずは市にごじゃりまする。市には人が多く集まってまいりまする。それに美しい髪飾りや化粧道具なども多く並んでおりまする。」


 自身の目的をさらりと一番最初に持ってくるところはちゃっかりしている。


 既に遷都されて大和の地は都ではないにしても、保養地なだけあって市には多くの人々が集まって賑わいをみせている。


 屋敷から旧平城京の大極殿があった近くへ歩いていったところに大きな広場が広がっており、人で賑わっていた。露天に多くの商品が並べられている。1平米の筵を引いている上に、それぞれの店の主人が座って商品を売っている。売っている商品には野菜や果物や山菜といったものが多いが、中には川魚を桶の中に入れているところもあり、涼しげで人が自然と多く集まっている。客が来ていないところでは、草履を編んだり竹細工を作ったり空き時間も有効に活用している。


 見た目には美しいと言うよりも土や泥にまみれて汚らしさの方が勝っているが、活気があり主人との交渉をしている庶民の姿も楽しげである。貴族の暮らしぶりはゆったりとしているが、庶民の暮らしぶりはどこか工夫をして生活の知恵を見出そうとしている創造性を感じさせる。

 その日暮らしの者もいるかもしれないし、市へ来る途中では物乞いも多くいたが、寺社では施しもされているとのことだった。


 貴族からの寄進で寺社は成り立っているのであるから、うまくお金が社会の中で回って成り立っていることが感じられる。おちよによると、今年は豊作であったから庶民も皆余裕があって笑顔が多いとのことで、不作の年であれば犯罪が多発するので、貴族も夜の外出を控えるようになるのだそうだ。

 であれば、豊作の今年は夜這いに気をつけなければと、違う方向に心配の種を感じてしまう。


 市を見て回ると、面白い話を見聞きすることができる。


「あすこのぉ西大寺の裏手ぇにある秋篠寺にはぁ、100歳を超えているぅ神職がいるだとよ。仙人のようじゃわい。でも物事をよう知っているでぇ、相談をすると何でも解決してくれると専らの噂じゃ。」


 秋篠寺は確かに平安時代以前からあったと記憶している。この時代で100歳を超えるには仙人級の日頃の養生と健康ノウハウがなければ達せないであろう。なるべく早くにその仙人に会って、未来へ帰るための秘策を聞く必要がある。


 こちらでは野菜売りと草履売りが話し込んでいる。


「京の都におわす伊集院さんという人は死にかけていたところを西方からの秘薬で起死回生したんだと。わしゃらは年貢地獄から早よ逃れたいと思うだに、貴族は銭をかけてでも長生きしたいもんなんだわな。」


「そりゃそうだわね、そりゃ貴族はわしゃらでは想像もつかん雅で優雅な生活を送っていると聞きよるに、その栄華を少しでも長生きして味わいたいと思うじゃろう。」


「それにしても西方の秘薬とはどんなものじゃろかね。海という大きな池が広がっていて、その先の陸地のその更に先に西方の国があると聞く。その海すら見たことがないぎゃ、西方の国はほんにすごいところなんじゃろね。その国では皆が不老不死なんじゃろか。」


「そりゃ違うじゃろ、西方の国というのは極楽浄土じゃね。わしゃらも死んだらその国ば行けるとで、楽しみにしとったらば良いじゃろ。」


「なんじゃ、市中で御念仏している僧侶さまが仰っている極楽浄土が西方の国かいや。極楽浄土から来た秘薬ならば、起死回生できるにちげぇねぇ。そりゃを取ってきた人もすごいもんでねぇ。」


 秘薬とは中国あたりから来たウコンや朝鮮人参といったところか。大和の国では周辺を山に囲まれているので、海を見ることすら叶わない。その日暮らしであれば、海を見に旅するという余裕もないだろう。それが噂話を聞いて極楽浄土の着想を得るということは、この時代での想像力も乏しくないのかもしれない。


 穀物売りと山菜売りが物々交換をしているところに出くわした。一般的には銅銭を貨幣として商品の対価に支払うケースもあるが、基本的には原始的な物々交換が行われているようである。


「いや、このアワとヒエは1日山の中に入っただけでは手に入れられんもんだけん、その山菜の量との交換では少なかろ。」


「山菜も生えているところを見つけるのには長い修行が必要なだで、あんさんが1日山に篭ったところでこんだけの量は見つけられんさね。毒水仙をありがたく頂戴してお陀仏になるのが見えとるわぃ。」


「なんじゃと。」


「やるけぇ。」


 威勢良く話をしてたが、だんだんと喧嘩ごしになってきた。


「かなこさま、早くこの場から立ち去りましょう。危害が及んでは屋敷に戻れませぬ。」


 おちよが青ざめた顔で促すので、そっとその場に背を向けて立ち去る。


 しばらく進んで後ろを振り返ると、人だかりになって周りが楽しげに野次を飛ばしているので、乱闘になっているのだろう。それも市の見世物の一つになっているようだ。


「かなこさま、こちらには美しい髪飾りがごじゃりまする。」


 草鞋やと籠やの間にある10歳くらいの少女が売っている髪飾りやを目ざとく見つけたおちよが寄っていく。


「あなたの親御君が作ったのですか。」


 美しく細工がされた竹でできている髪飾りをそっと手に取り、少女に尋ねる。派手な彩色はされておらず、竹を彫られたままではあるが、彫り方が丁寧で美しい文様を奏でている。


「いえ、櫛の形にはおとっちゃんがしてくれるんだけんど、彫りはあたいが入れてるんで。ここで待っていてもお客さんこねん時は彫ってより綺麗な髪飾りにしとるんで。」


「こん子は手先が器用じゃけ、細工物をやらせとんだばさ。」


 隣の籠やの男が会話に入ってきた。どうやら親子なようで、涼やかな目元がよく似ている。父親の竹の籠も見事な美しい出来栄えで、他の竹細工の店や籠を売っている露天を幾つか見たが、遥かにレベルが異なる美しさだ。


「美しい。華美すぎることなく繊細にできているので上品だわ。」


 現代でもこれくらいの品になると、京都の簪やでは30,000円以上はするであろう。


「かなこさま、こちらはかなこさまに良くお似合いにごじゃりまする。で、私はこちらをいただこうかと思いまする。」


 自分の気にいったものを基準にそれより大きく目立ちそうなものを私に勧めてくるあたり、さすがはちゃっかり者のおちよである。


「いつもここで売っているのかしら。」


「米や野菜がなくなったら、だいたいこのあたりでいつも売ってるだ。かかぁは弟妹の面倒と小さな畑で手一杯だに、おっとぉとこうして夜に作ったものを売りに来るだぁ。」


 少女の手先の器用さは素晴らしい。毎日その日暮らしをしなくてももっと適した職業がありそうだが、この時代は親の家業を手伝って継ぐのが一般的。勿体無いと感じる。


「これはおいくらなのですか。」


 おちよが早速購入すべく価格交渉に入ろうとする。


「2つで米一合。」


 米の量で言われても物価が良く分からない。それに今2人が持っているのは宋銭のみであり、米は持ち合わせていない。


「宋銭ではいくらじゃ。」


 おちよが宋銭での交渉に挑んでみるものの、少女は困った表情をして目で父親の助けを求めている。宋銭での勘定は宮中の中では当たり前となっているが、市中では中途半端にしか流布されていないようだ。ということは基本的にはこの市にくる人々は米を持ち歩いているということか。

 野菜や山菜程度であれば少しの米で交換できるような仕組みなので大丈夫だが、大きめの買い物や少し高くなる香草や薬草ともなるとどれだけの米を持ってここへ来なくてはいけないのか。荷物が増えるではないか。皆重い米を背負って遠くからこの市へ来て本当に大変だ。

 とあたりを見渡すと、2人以上できて、皆荷車のようなもので一人が店を開いていたり、端の方で視界に入る位置に置いているのが目に入る。

 現代でいうところの郊外型大型ショッピングモールで数日に一回家族で車で買い物に来て、父親と子どもは車で待機し、母親が買い物をするという姿と同じか。父親と子どもは待ち時間を使って自分のところの畑で収穫できた米やら野菜を販売して物を得ているという図式なのだろうか。


「わしゃらは宋銭はもっとらんで、あっぢの米売りのところで米にしてけろ。」


 おちよが米売りのところまで行って宋銭を米に交換してきてくれる。現代でいうところの両替所だ。方式や交換するものは変わっているものの、仕組みや考え方は1,000年以上経った今とは変わりない。

 時代によって、米に価値の主軸を置いて交換するのか、銭つまり金を主軸にするのか、現代ではもはや仮想通貨がこれに変わろうとしている。しかし全ては物々交換の考え方が根本となっているのだ。


 ここ最近の私はネット通販におけるクレジットカードの支払いが日常の買い物スタイルで定着している。仕事でも通信インフラ業界ではいかにシームレスに物を持たずに生活を豊かにするかを考えているので、人と顔を合わせて交渉をしたり、物の価値を自分の食料で換算して計算することがなくなっている。基本に立ち返った気がする。この視点をもう一度取り入れてみるか。


「何か新しいビジネスに。」


「かなこさま、新しい美人酢とは、美しくなれる酢にごじゃりまするか。薬種やに良きものがあるかもしれませぬ。」


 また独り言が漏れていたようだ。両替して支払いを済ませたおちよが上機嫌に酢を売っている店の方を覗きに行こうとしている。

 美人の酢とは健康食品のような感覚なのだろうか。いつかの夕食でも夏だからと酢が調味料として出ていた。おちよに聞くと、高級調味料として、漢方や薬の一種でもあるので、なかなか一般人の手の届くものではなく、薬種やで売られているとのこと。


 ここが大和の地で最も有名な薬種やとおちよが指差した先には、風が吹けば飛んでいってしまいそうな藁でできた小屋に、右半分には猿ぼぼのようなものが屋根から大量にぶら下がっている。その重さで屋根が半分傾いているような気がする。

 またその隙間には木簡のような木の板に刃物で文字を書いたものが立てかけられており、不気味さを醸し出している。左半分の軒先には干しワカメのようなものやら、骨やら、ヤモリや蛇の干物やら、怪しさマックスなものがぶら下がっている。

 入り口のところから奥は暗くて見えないが、何かを燻しているような匂いが漂ってくる。


「おちよ、ここは怪しいよ、早く行こう。」


「いいえ、かなこさま、こちらがかの有名な薬種や陀羅尼でごじゃりまする。」


どこかで聞いたことがある薬名のような気がする。にしても、このようなところで売られているものが確かだとは言い難い。何だかハエも市中より多くなっているような気がするし、ここの近辺だけ人が少ない気がする。


「おちよ、有名と言うけれど、全然人がいないじゃないですか。」


「薬種は本来高いものですから、一般人の足が寄らないのは当然の事。それに上流階級の邸宅へ売りに来られるのが普通なのでごじゃりまする。」


 なるほど。訪問販売が一般的なスタイルなのだ。なので軒先に怪しいものがぶら下がっていようと、小屋が今にも潰れかけていようと、店で販売するスタイルでないのであれば納得できる。


「では、邸宅にこられた際に再度薬はいただくことにいたしましょう。」

そそくさと来た道を戻ろうとするかなこの袖を引っ張り、好奇心旺盛のおちよは目を輝かせて耳元でつぶやく。


「美人の酢はあまり手に入らぬものにごじゃりまする。直接買うべきでごじゃり

まする。」


「もし。」


 かなこの袖を掴んだまま、おちよにが小屋の方に向かって尋ねる。

 反応がない。代わりにザックザックという何かを擂り潰しているような砕いているような音が聞こえてくる。


「もーし。」


少し声を大きくしてみると、ザックザックという音が止まり、


「何じゃ。」


という嗄れた声が返ってくる。おちよが小屋の入り口と思しき隙間に手を入れて広げ、中を覗いてみる。


「そっちじゃねぇ、こっちから入れ。」


 隙間はただの隙間だったようで、入り口は別にあった。横に回ると、なるほど筵のようなものが上からかかっており、それを開けると入り口が出てきた。

 かなこはおちよより3歩下がって遠くから中を覗き込む。暗い小屋の中に目をこらすと、一人の小さい干からびてシワシワの老人がこちらをジロリと見ている。まとっているのはみすぼらしいボロ切れであり、筵の上に胡座をかいている。その手元には薬挽きの道具があり、それがザックザックという音を出していたのだと判明する。

 小屋の中にも所狭しと薬の材料になりそうな薬草やら爬虫類を干したものやら木の根やらがぶら下がったり、置かれたりしている。


「もし。こちらに酢はごじゃりまするか。」


「あいにく今は切らしているよ。どこぞの邸宅のもんかね。わざわざ店まで求めに来るなんぞ珍しいことじゃ。急病のものでもおるんか。」


 美容のためですとは言いづらい。この時代は本当に薬として重宝されているものなのだ。


「中納言さまの別邸にごじゃりまする。姫君が酢をお好みなのですが、もう直ぐ切らしてしまいそうなのでごじゃりまする。」


「あんた、下女じゃないじゃろ。比較的位が高いものがお忍びで買いに来るなんぞ酢が目的ではなかろう。毒が目的か。それとも呪いをかけたい相手でもおるのか。」


 老人の目がキランと鋭い光を発する。

 さすがは薬種に精通しているだけあって、知識が豊富で世の理をお見通しなのであろう。だが、記憶喪失になった遥か先の未来から来た姫君がお忍びで出かけた先で、’ビジネス’という言葉を聞き間違えた先が薬種やで酢を求めることになったなど通じるはずもない。


「ご明察と言いたいところじゃが、ただの市中見学のついでに酢を求めただけじゃ。」


 胡散臭そうな目で老人はこちらを見てくる。


「女人だけでこのようなところへ来るのは危ない。それにあらぬ疑いをかけられるかもしれぬぞ。ここは古代からの呪いを扱っている店なのだから。」


 おちよと老人との会話を何となしに聞いていたかなこであったが、老人は物知りであり、特に薬種に詳しい。また古代からの呪いにも精通しているのであれば、何か現代へ戻る術を教えてくれるのではなかろうか。


「あの、実は私は未来からタイムスリップ、と言っても分からないか。えっと、違う世界からやってきたのです。どうしたら本来の私に戻れるか術をご存じなのでしたら教えていただけませんでしょうか。」


 老人が目を見開く。


「何と。そちらのご婦人には込み入った事情があるようじゃ。狭苦しいが、ここへ入って詳しく話しを聞かせてもらおう。」


 本当に狭苦しい小屋の中に入る。座れるようなところが見当たらないが、ちょうど剥製になった亀の甲羅があったので、その上に腰掛けてみる。怒られなかったので、普段からイスとして使っているのかもしれない。

 込み入った事情を伝えてみる。おちよに事の次第をはっきりと話したことがないので、隣で聞いてもらうには少し憚られたが、そうこう言ってはいられない。現世での夏休みはとうに終わっていて、仕事の納期にも迫られている身。このまったりと会話の一言に数十秒もかけて過ごす時代からさっさとおさらばして元の世界に戻らなくてはならないのだから。


 特にこの時代の人からは突拍子もないかなこの話をじっくりと最後まで聞いていた老人は、話を咀嚼するかのように、手の中の擂粉木をすり鉢の中でぐるぐる挽きはじめた。5、6回ほどぐるぐる回してから、ふむと小さな声で呟いた。


「そなたは今よりもっとずっと後の時代から来たと。先にもそのようなものがおったと聞いたことがあるが、わしのもっとずっと先代の話だから、わしが後の時代から来た者におうたのは初めてのことじゃ。だが、そなたの言っておることは、先代から受け継がれている話に通づるところがある。先代の話では天高く山より高く櫓を積み上げて町を見下ろしていたとか、空を飛ぶ家に人が乗っていけたりとか、果てはあの天空にある月に住んでおったという話まである。」


「やはり、未来から人が来ることもあったのですね。天高く櫓を積み上げていたのは戦国時代から現代まで可能性はあります。空を飛ぶ家は飛行機かしら、となると私のいた時代に近いかもしれない。月に人が住むのはもっと先の話でしょうね。」


 少し希望を与えられて声に張りが出てきた。


「では、その先代の話では、後の時代から来た人々はどうやって元の時代に帰って行ったのかしら。」


「そこまでは詳しく伝えられておらぬ。ただ、ふらりと消えた者もいたし、留まった者もおったようじゃ。でもふらりと消える者なぞ数多おる御時世。神隠しか、追剝ぎに会っただけで元の世界に戻れていないかもしれぬ。」


 希望を与えられたのに、一瞬にして谷底にまで突き落とされた感じがする。呪いに携わっているからか、この老人の人の操り方は乱暴で遠慮がない。

 おちよはどこまで話を現実のものとして理解できたのかは分からないが、いつもの通り


「かなこさま、おいたわしや。」


と声にならないような囁きとともに袖の端で目を拭っている。


また擂粉木をぐるぐる回しながら思案顔になった老人は、口の中でもぞもぞと何やら呪文のような独り言のような言葉を発し出した。


「ふむ、やはりそうじゃな。そうじゃ。しかし。じゃが。がじゃがじゃやじゅめいんだらそうじゃ。ふんばらぎゃん。そうれりゃ。」


 そして最後は決心したかのように、擂粉木をすり鉢の中にトントントンと3回ついて、こちらを見上げた。


「女人よ、そなたは後の時代から来たが、後の時代に戻る必要はあるのか。この時代で長く暮らすという選択肢もある。この御時世に送られてきたということは、呪いが働いたか、神の図らいかどちらかじゃ。何故そなたであったのか、何故この御時世であったのか、誰から何を求められて今ここにいるのか。それを解き明かせば、元の時代へ戻るべきか、あるいはここへ留まるべきか、解が出るやもしれぬ。」


 確かに、言われてみれば何故私であったのか。そのような視点でこのタイムスリップ問題を捉えたことがなかった。さすがは呪術の老人、物知りなだけでなく思慮深い。古代での一生の思考が、現代では1日思考に相当すると聞いたことがあるが、そんなことはない。この平安の世でもしっかりと考えている人は考え方が違う。私ももっと広く物事を捉えるようにしなくてはと反省する。


「私が何かこの御時世で成し遂げなければならないということでしょうか。知識も何もなく私にできることなどとんと思い浮かびませぬ。何かヒントのようなものをいただけませんでしょうか。」


「ううむ。わしでも分からぬ。心の支え程度の物にしかならぬが、一つ占ってしんぜよう。だが所詮、占いはただの気休め。そなたの心持ち次第でいかようにもなる。そのことを心しておくことじゃ。」


 さすがは名の知れた呪術者。占いは絶対ではないと理解している。


 現代でも若い女の子達はみんな手相占いだのタロット占いだの透視だのと目の色を輝かせて行く。大抵占いで知りたいのは恋愛事情。明らさまに恋愛を占って欲しいとは言いづらいので、金運や仕事運を知りたい、そしてそのついでに恋愛運もというように遠慮している風を装って。そして当たっているとはしゃぐ。

 おそらく当たっているのではなく、占師は占いに来た女の子の話をしている雰囲気、身なり、言葉遣いや友達との接し方を占いの机に向かう前から観察している。そして占いの机まで来たところさも始めて見たかのように生年月日を聞いて占っている風を装う。

 行動観察から8割方の答えは導き出されているのだ。後の2割は適当に嘘を織り交ぜても、8割は当たっているのだから、この占師はよく当たると評判になる。


 また、占い好きの女の子は自分の干支を雑誌の占い欄で毎月チェックをしている。だいたい干支の固定概念ができているので、本来はそのような性格ではなくても干支の持つ性格を見続けてそういうものだと洗脳されていくので、雑誌に掲載されている干支の傾向を伝えるだけでも大抵当たっていると感じてしまうものだ。

 占いとは所詮そのようなレベルの話なのだ。その事に気づくのに私は30年かかってしまった。20代では私も世の女の子達と一緒に占いにせっせと通い、恋愛運や結婚運を占うのを楽しみにしていた。

 しかし、ある時気付いたのである。過去の占いが全く当たっていなかったことに。当たっていたのであれば今頃大富豪の石油王に嫁いで家族がいて海外在住だったはずだ。それに気づくのには遅すぎた。



 あれこれ占いについての思い出を巡らせている間に、老人は小さな香箱を出してきて、おそらく両生類と思われる怪しい干物の先を削ってその香箱にくべる。そして小さく火たき棒で火を熾し、薄く細い煙が真っ直ぐと干物から立ち上がる。

 おちよは先ほどまで袖で涙を拭っていたのに、占いと聞いて目をキラキラ輝かせて老人を見つめている。先ほどまでは嘘泣きだったのかと疑うほどの切り替わりようである。

 老人が呪文のようなものを唱えながら、魔法遣いが使いそうな棒をゆっくりとその煙にたぐらせる。そして細かく文字を描くようにしながら煙の形をじっと見つめている。口の中で小さく呪文を唱えている。


「はにゃまんだら。しょしわかし。しょしわかし。にょはまんだらさんげんだらし。」


 いかにも占いと言う感じで、今まで受けたどの占いよりも本物らしく有り難みが感じられる。この儀式によって私の心は何かで満たされていくかのようだ。


「もうすぐ歌詠みの会がある。その中の殿方の一人が何かを知っているかもしれぬ。」


「かなこさま、曲水の宴が来月ごじゃりまする。それにいらっしゃる殿方がかなこさまの運命の御方なのでごじゃりまするね。」


 おちよにとっては占いイコール恋愛なのだ。胸の前で両掌を乙女組みにし、キラキラと輝かせた目でこちらを見つめてくる。

 もはやこの時代の殿方は恋愛対象ではないが、その曲水の宴で出会う殿方は私がタイムスリップをした経緯か、私のこの時代でのやるべきことを教えてくれるのかもしれない。

 静けさが満ちた小屋の中で、占いの残り香が薄く漂い、かなこの周りにまとわりついている。謎という灰色の靄のように。

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