八匹め『近くてそわそわ』

 来島は変わらずソファで原稿に向かっていた。

 邪魔しないよう礼人はテーブルに盆を置いて離れようとする。

そのそでを来島の手が捉えた。


「……」

「く、来島さん?」


 それ以上は何もせずこちらを見ることもない。さして心情を映しているようには思えない横顔はかわらず文字を追っている。


『座れってことじゃないですかね?』


 ひつ字が電球のエフェクトを頭上にピンと浮かべた。ちょうど来島の目がページ終わりで止まり袖がぐっと引かれる。


「あ、ハイ」


 意味も分からずそれに従った。さして大きくもないソファに並んで腰掛ける。

 来島の手が原稿に戻りページがめくられる。代わりにその肩がじわりと寄せられた。


「っあ、の?」

「……」


 常よりやや近い。市の健康講習で測った礼人のパーソナルスペースは平均より広め。ひつ字は別としてあまり近くに他人がいると不安になる。

 戸惑いつつ二個目の電球を期待してひつ字を見れば、ソファの脇で目を塞いでいた。


『だいじょうぶです、わたしなにも見てませんっ、遠慮なくどーぞっ!』

(遠慮したいんだけど……)


 指の間から興味津々に目を光らせる彼女を礼人は見限る。


「来島さん? その」

「……て……」


 非日常的な距離で来島の口が動いた。


「寒くて……すみません、そこにいてください……」


 気付けばその肩は小さく震えていた。

 お茶を一口飲んだ彼女はほうと白い息を吐く。


「酷い……作品ですね。これだけ思いを尽くした上の結末が主人公の死だなんて」


 礼人は自分の書いたラストを思い返した。


 ――旅路の果て、ただ一人となった主人公は“印”を封じる場所を目前にして力尽きる。だが氷と吹雪に護られた土地がその亡骸を隠した。それから長い年月が過ぎ――


「……ですが、これ以外ない終わり方ではあります。神に愛されなかった男の無力感。それははるか未来で、ただ信仰と文化の証として発掘される」


 あぁやっぱり、と礼人は思う。この人はすごい目を持っている。荒削りの文章から一番欲しい部分へのレスポンスを返してくれる。

 来島はひざへ原稿を置いた。その頭が礼人の方へかたむく。


「駄目ですね」

「……そう、ですか」


 厳とした宣告に礼人は目を伏せた。だがいつもほどのダメージはない。


「はい、これは本にできない、というよりしたくありません。このお話はただ一人を除いた読者に対しては大きくその価値が減衰する」


 ぐっと首をそらして上向いた目が、礼人のそれを覗き込んだ。


「……これは牧先生ご自身のための小説、ですね」

「はい」


 素直にうなずく。同時に面食らった。

 来島の口端がほんの少し笑っているように見えて。


「初めて先生の作品を読んだときのことを思い出しました」


 あぁ、そうかと得心する。

 ただただ腹が立って、不安で、耐えがたくて、逃げ込むようにキーボードへ向かった。あの切羽詰まった心境は最初に小説を書いたときに似ていた。


「弱さは作家にとって武器です。それを持たない人間はいません。先生はそれをえぐり出すことに長けている。……安心しました。先生は帰国されてから、作品に自分を吐き出すことを避けているように見えたので」

「そう、かもしれません」


 顔が熱くなり誤魔化すように頭をかく。

 もっとも、すぐ出版しようという作品以外には何とでも言えてしまうのがこの界隈かいわいだ。来島の言葉もおそらく編集者としてのものではないだろう。それでも昔のようだと言われて礼人は嬉しく面映おもはゆかった。


『――イ、センセイ……っもうこれは行くべきでは? こう、ガバッと!』


 背後からささやくひつ字の声で我に返った。


「あ、その、来島さん。エアコンの温度を上げますから」

「いえお構いなく。失礼しました」


 接していた身体が離れる。立ちあがった来島は平静な表情。


「この原稿、お預かりしてもいいですか。第一印象はさっき言った通りではあるんですが、もう少し考えてみたいので」


 もともとどこに出す予定もなかった作品だ。否やはないと礼人は頭を下げる。


「期待しないで待ってます」

「そうしてください。でも似合わないですよ、そういう達観したセリフ」


 礼人は恥ずかしさから顔を熱くした。

 では、と来島は原稿を書類ケースへしまう。スマートグラスを掛け直したその目が礼人の隣へと向けられた。


「ひつ字、牧先生のところで学びたいというのであれば構いませんが、あまり先生に負担をかけないように。……昨夜のあれはやりすぎです。あなたの挙動はモニターしています」

『はいっラジャーです、アサカさん!』


 ひつ字がぴしりと敬礼する。

 退室しようとする来島の背中へ礼人は問いかけた。


「待ってください、昨日のって? もしかして僕がそれを書いたことと関係が?」


 冷静に考えればやはり普通ではない。中編をわずか一昼夜で自分が書き上げたことも、来島がその存在を知っていたことも。

 ピタリと立ち止まった来島はじっと、振り返った片目だけで礼人を見た。


「……知りたいですか?」

「あ、当たり前です!」

「後悔しませんか?」

「い……は、はい」


 気圧されそうになりながらも頷くと、来島は露骨に『思ったより粘るな』という表情で嘆息した。

 数秒の間。長めのまばたきから目を開けた彼女はふたたび礼人へ向き直る。


「分かりました。牧先生にはもう少し踏み込んだところまでお話すべきかもしれません」


 その唇が何かをためらうように動き、やがてひとつの言葉を発した。



(プロローグ 了)

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