井陘落日賦

左安倍虎

趙の軍神

 李左車りさしゃは兵の調練を終えると、井陘せいけい城の城門をくぐった。

 趙の誇る騎馬隊が長い縦列を作り、鎧兜が落ちかかる夕陽をきらびやかに照り返しつつ整然と行軍していく。一糸乱れぬ統率の取れた軍隊だ。


「軍神・広武君がこの国にいてくだされば、成安君も枕を高くして眠れようというものだ。漢など何するものぞ」


 路傍から、町人の感嘆の声が飛んだ。馬の背に揺られつつ、李左車は秀麗なおもてにわずかに憂愁をにじませた。成安君・陳余ちんよは実質的な趙の統治者だが、この陳余よりも自分の声望が高まっては面倒なことになる。


(それでは、私がいなければ成安君は夜も眠れぬと言っているようなものではないか)


 それは、なかば事実でもあった。だからこそ困るのだ。成安君がこの自分の将才を危ぶみ、いずれ己にとって代わるのではないかと疑いをかけるようでは、思うように采配を振るうことなどできない。


(いずれ、韓信がこの国に攻め寄せる。あの男だけは、確実に屠ってやらねばならない)


 韓信とは、のちに漢の初代皇帝となる劉邦が大将軍に任じた男の名である。

 韓信はこの時すでに漢軍の別働隊として魏を平定し、代を降し、余勢を駆って今この趙へと進軍しようとしていた。劉邦が項羽と対峙しているあいだに、韓信は巨大な勢力圏を中華世界の北部に築きつつある。

 李左車は兵法家として、自分こそがもっとも韓信の才をよく知るものと認識していた。韓信は一度、漢から逃亡しようとしたことがある。このとき、丞相の蕭何しょうかが自ら韓信を追いかけた。蕭何までが逃亡したと思い込んだ劉邦は、なぜ韓信ごときを追いかけたのかと叱りつけた。このとき蕭何は韓信の才を評して、


 ──国士無双


 といったと伝えられている。蕭何の目には、韓信がこの世にふたりといない大才の持ち主と見えていた。しかし、この時点ではまだ韓信の才を正しく評価するものは少なかった。かれは故郷の淮陰で、俺が怖いならこの股の下をくぐれ、と大男に言われてその通りにしたという話がいまだに流布している。そんな臆病者の率いる軍など恐れるに足らない、とまだ多くのものが思っていたのだ。


(あの男は、その風評をこそ利用しているのだ)

 

 しかし、李左車はそう確信していた。自分が韓信の立場ならそうする、と思っているからだ。兵法家の李左車は、敵がこちらを侮ってくれるほど戦がやりやすくなることをよく知っている。

 これから相手にしなければいけないのは、そのような男の率いる軍なのだ。万が一にも油断などしてはならない──と、李左車はきつく唇を噛んだ。




 ☆



 

 数日が過ぎ、李左車は陳余に呼び出されて軍議の席にいた。いよいよ韓信が趙に至るとの報を聞き、兵法家としての見解を求められたのだ。


「韓信は井陘せいけい口の隘路を通り、この国へと至ろうとしております。かの道は車二台すら並んで通れぬ難所ですから、輜重車ははるか後方を進むことになるでしょう。私は奇襲部隊三万を率いて輜重部隊を本隊と分断しますので、成安君はこの城を守ることに徹してください。そうすれば進退に窮した韓信軍など容易に殲滅できるでしょう」


 李左車は確実に勝てる策を述べたつもりだったが、陳余は眉根を寄せ、豊かな顎髭を撫でた。


「広武君よ、その策はよろしくない。あの股くぐりごときに小細工を弄しては、我が趙は臆病だと諸国に嗤われよう。二十万の兵を擁する我らが正々堂々と韓信を迎え撃たずしてどうするのか」


 朗々とした声が辺りに響きわたった。儒者として知られる陳余は、言うことはいつも正論だが、その思考には柔軟性が欠けている。頭は悪くないが、その知性はいつも己の体面を飾ることにばかり使われている、と李左車は見ていた。


「恐れながら、韓信は漢の丞相が国士無双とまで評する男です。たとえ臆病とそしられようと、確実に葬ってしまわねばなりません。韓信が井陘口を通過しようとしている今こそが好機なのです」

「広武君よ、股夫こふずれをなぜそれほどまでに恐れる」

「あの男は、自らの悪評を利用し、我らを油断させようと企んでいるのです。韓信の策に乗ってはなりません」

「ほう、この私よりも漢の丞相の言葉を信じるのか」


 李左車は絶句した。この期に及んでなお、この男はつまらぬ意地を張ろうというのか。


「広武君よ、貴方の将才は私もよく知っている。しかし、韓信ごときにその才を用いるのは牛刀で鶏を割くようなもの。我らは鍛え抜かれた趙兵二十万をもって、井陘口を抜け出た韓信を正面より叩けばよいのだ」

「しかし、それでは絶好の機会を逃します」

「そうまでしてこの井陘の民に讃えられたいのか、広武君」


 李左車は再び口をつぐんだ。陳余はこの城市の民が自分を軍神と噂していることを知っている。そして、そのことにつまらぬ妬心を燃やしているのだ。


「なにも無理をして李牧りぼく殿に並ぼうとする必要もあるまい。この戦いに、兵法などは必要ないのだ」


 さっと李左車の頭に血がのぼった。李牧とは、趙の名将として知られた李左車の祖父の名だ。李牧は匈奴の侵攻をふせぎ、秦を撃退する活躍をみせたが、趙王に忠誠を疑われて処刑されている。陳余の言葉は、お前も忠誠を疑われて死にたいのか、とも取れた。


「なんと情けないお言葉。この私が趙のためにならぬことを一度でも申し上げたことがあるとでもおっしゃるのですか」

「落ち着かれよ、広武君。貴方はこの趙の至宝。奇襲部隊を率いさせ、万が一にも貴方を失うようなことがあってはいくら悔やんでも足りないではないか」


 李左車は机の下で拳を握り、固く唇を引き結んだ。椅子を蹴ってこの場を立ち去ってやろうかと思ったが、かろうじて耐えた。


(結局、この私に功名を立てさせたくないだけではないか)


 陳余には大した軍功はない。それは別に問題ではない。軍事が不得手なら、この自分に戦術面は頼ってくれればいいのだ。だがこの度量の小さな男はこちらの力量を妬み、声望が自分を上回ることを恐れている。たとえ兵力が上回っていようと、君臣が相和せずしてどうして韓信を打ち破れようか。


「大軍に兵法なし。我が趙は二十万の軍をもって、韓信を圧する」


 陳余は陶然とした表情で言い切った。己の美声に酔っている風情だ。李左車は心のなかでその顔に唾を吐きかけると、そのあとの陳余の言葉を全て聞き流した。




 ☆




 夜も更け、邸宅に戻った李左車は自室に籠もり、しばらく綴じ合わされた竹簡を眺めていた。竹と竹をつなぐ糸は、すでに擦り切れそうになっている。隅々までそらんじられるほどに、何度もこの書物に目を通していた証だった。


(勝兵はまず勝ちて、しかる後に戦いを求める、か)


 孫子の一節だった。まずは必勝の状況を作っておき、危なげなく勝つ──そんな戦いをこそ、李左車は理想としてきた。軍議の席で陳余に献じた策も、確実に韓信に勝利を収めるためのものだった。

 しかし、好機はすでに失われた。兵法家としての李左車の頭は休むことなく回転を続けていたが、陳余が自分を信じてくれないこの状況で、どう兵を動かしたものか良い知恵が浮かばない。


(祖父も、このような状況に置かれていたのだろうか)


 李牧は、秦の間諜の撒いた悪評を信じた趙王に処刑された。市民の他愛もない評判を信じ、この自分が増長していると思っている陳余を、李左車は趙王に重ねていた。


「こんなことを考えて何になる」


 首を振って雑念を振り払うと、李左車は酒盃に手を伸ばし、一気に胃の腑に流し込んだ。酒精が心身を満たすと、少しだけ気分が軽くなった。その時、部屋の外に足音が聴こえた。


「将軍、屋敷の外におかしな者が参っております」


 部屋に入ってきた従者が、小声で告げた。


「何がおかしいというのだ」

「将軍の危機をお救い申したいのでどうしても会わせてくれと言って聞かないのです。追い返しますか」

「いや、よい。ここへ通せ」


 おずおずと尋ねる従者に、李左車は静かに声をかけた。たとえ瘋狂の者の言葉にでも、この危地を脱する手立てを見出だせないものかと思った。しばらくすると、小柄な男が従者に連れられて部屋を訪れた。


「夜分遅く申し訳ございません。どうしても、将軍が虎口を脱する方策を早くお伝えしたいと思ったものですから」


 男は揖礼ゆうれいをして深々と背を折り曲げると、ゆっくりと顔をあげた。

 蝋燭の灯りに照らされた童顔の中で、好奇心の強そうな丸い瞳が強い光を放っている。


「その前に、名を聞こう」

蒯通かいとうと申します」

「ほう、貴方が」


 蒯通かいとうの名は、この趙ではすでに広く知れ渡っていた。縦横家である蒯通はその弁舌を駆使し、秦末の混乱に乗じて陳余が趙を平定するのに手を貸したこともある。李左車もその能力には一目置いていた。


「それで、先生はこの私がどんな危地にあると言われるのか」

「恐れながら、この井陘せいけいにおける将軍の声望は日に日に高まっております。それ自体は望ましいことでしょうが、果たしてこの事態を成安君が黙ってお見過ごしになりましょうか」

「はて、どうも先生のお言葉の意味がわかりかねるのだが」


 李左車は訝しんだ。蒯通の童顔には、仮面のような笑みが張り付いている。ここで本音を漏らすわけにはいかない。蒯通が陳余の遣わした間諜である可能性も捨てきれないからだ。


「お分かりになりませんか?成安君は貴方の大才を使いこなせる器か、と問うているのです」

「そんなことは改めて論ずるまでもない。成安君ほどに立派な方を、私はみたことがない」

「本当に、そうお思いですか」

「なぜ、先生は成安君を疑われる」

「私は、いささか観相の術も心得ております。私の見たところ、成安君のご尊顔は句践こうせんによく似ておられる」


 李左車は立ち上がると腰の剣を抜き、蒯通の首筋に刃を突きつけた。


「滅多なことを言われるな、先生。成安君が私に猜疑心など抱くはずがない」

「はは、そうでしたな。これは私も言葉が過ぎました」


 悪びれる風もなく、平然と蒯通は言ってのけた。


「もう酔いも回ったゆえ、私は休ませていただく。先生も今晩は泊まって行かれよ」


 剣を鞘に収めると、李左車は己を宥めるように、つとめて静かな口調で言った。


「どうか、くれぐれも身辺にはお気をつけなさいますよう」


 油断なく光る目で李左車を見据え、深々と頭をさげると、蒯通は悠然と部屋を出ていった。


(──私が范蠡はんれいの立場にあると言いたいのか)


 范蠡とは、越王勾践の覇業を助けた忠臣の名だ。范蠡は人相から句践の猜疑心が強いことを知り、句践が宿敵の呉を滅ぼすと難を避けるため自ら越を去ったという。

 

(仮にそうだったとして、韓信と戦わずして逃げるわけにはいかない)


 李左車は、祖父の代から趙に忠誠を捧げてきた。たとえ李牧のような最期を遂げることになるとしても、李左車は趙を去るつもりはない。趙の臣として、そして兵法家として、当代随一の将である韓信を破ってみせるという夢を捨てることはできなかった。

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