第7話 泡になった人魚姫

 最初の頃、ずっと一人だと思っていた篠原かなでにはいつの間にか友達ができていた。

 体が弱く休み時間に本を読んでいるのは変わっていないが、時たま他の女子の輪の中に入っていたり、可愛く着飾った女の子が彼女の周りに集まっていたりと、これもまた、猫のように気まぐれな女の子の習性か、もしくは矢沢萌のおかげなのか。

 矢沢萌を見てはわいわいと突き合っているツッチーとノリと対照的に、僕と篠原かなでの接点はほとんどなくなっていた。

 同じ年の女の子とマンツーマンで会話をするのが恥ずかしい、と思うと同時に、あの超強力な女の子の輪の中に入るというのは非常に勇気がいるものだ。

 女の子の群れというのは金魚の群れにもよく似ていて、休み時間でもトイレに行くにでもいつでもどこでも、数人で群れていた。

 あの団体でトイレから出てこられると、正直怖い。

 そんな強力な輪で構成されている女子グループの中でも、矢沢萌と篠原かなでというのはほんの少し外れていた。

 仲間外れ、というわけでもないが、他の女子たちのようにいつでもどこでもどこに行くにも一緒、というようなわけでもないらしい。

 彼女達らしい、といえば彼女達らしいのか。これは。

 僕だって、あんな窮屈な女の子達の輪の中に入るよりも、同じ年の男子とつるんでいたほうが精神的にも肉体的にも楽だった。

 でも僕は、相変わらず彼女のことをこっそりと目で追いながら、胸を張って堂々と彼女と会話ができないという歯痒さ、不愉快さを感じていた。

「あゆむ、作文書けた?」

「え?」

 土田幸樹のその言葉に、僕は目をきょとんとさせる。

「え、て。作文だよ。作文」

「作文、て、何?なんかあったっけ?」

「なんだよー。聞いてなかったのかよ。こないだ言ってたじゃん。“紙飛行機”に乗せるやつ」

「……ああ!」

“紙飛行機”は市内の学年共通の作文の冊子だ。

 年に一度、市内六校の小学校で学年ごとに児童にその年のテーマごとに作文を書かせ、優秀なものを選び担任が市の教育委員会へ提出する。

 その中でも更に選りすぐりの何点かが「紙飛行機」という名の冊子に載ることができるのだ。

「おれ、全然書けてねーんだよー」

「ツッチーはそういうの苦手だもんね。ノリは?」

「勿論俺は、もう書けたぜ」

 ぐっ、と親指を立てて決めポーズをするノリに拍手を送る、僕とツッチー。

 ぱちぱちぱちと喝采を送りながら、あれ、そういえば今回のテーマってなんだっけという疑問に行き着いて、それを問おうとするのだが、その言葉は矢沢萌の一言で遮られる。

「あゆむくーん」

 どこからか戻ってきたらしい矢沢萌は、両手にたくさんのノートを持った状態で廊下から登場し、前が見えにくいらしいふらふらと左右に揺れながら何とか教卓の上にノートの山を下ろした。

「大槻先生が呼んでたよー。あゆむくん、今日の宿題のノート出してないでしょー?」

 あゆむくんだけだってよー、という彼女の声に、クラスの一部から笑いが飛んだ。

 そうだ、そう言えば僕は今日遅刻しかけて、朝一番で出さなければいけない宿題を出し忘れたんだ。

 僕は机の一番下から算数のノートを取り出すと、教室を飛び出して一階の端にある職員室へ駆け出した。

 後ろのドアの辺りでは一年生くらいの小さな女の子が誰かを待っていて、持主の見当たらないランドセルが1つ残してあった。

「失礼しまーす」

 僕は適当にそう言って、職員室の敷居を踏んだ。大槻先生の席は窓際の、前から二番目。先生は眼鏡を掛けていてお腹が出ていて背の低い中年のちょっと太ったおじさん先生で、まるで狸か、熊のようにも見える。

 最初、六年生の体育の先生で大柄な人が邪魔をしてよく見えなかったが、その先生が移動するとでっぷりとした大槻先生の姿が見えた。

 声をかけようとして僕は、大槻先生が誰かと話していることに気が付く。

 篠原かなでだ。

 先生と篠原かなでは、なにやら真面目な顔をしていた。

 先生は、でっぷりとした顔にしわを寄せて。篠原かなでは、とてもとても寂しそうな顔で笑っていた。

 僕のところからは、二人の会話はよく聞き取れなかった。

 二人がなにやら、あまりよくない話をしていることはなんとなくわかっていた。聞かない方がいいだろう、と思うと同じに、どうしても聞きたいという願望と、聞かなくてはいけないという妙な義務感は合わさって、僕は一歩一歩近づいていく。

「せんせ――」

 僕はノートを提出するために、声をかける。が、僕のその声は、大槻先生に届く前に地面に落下した。



「しかし、急な話だな。転校だなんて」



 なんだって?


「せっかく、クラスの皆とも仲良くやってるようなのに。寂しくなるなぁ」

「わたしも、さみしいです」

「クラスのやつにはいったのか?矢沢とか、立花だとか」

「いってません。まだ、誰にも」

 僕の耳に専属のヘッドフォンが付いているようにして、二人の会話だけはやたらはっきりと聞こえてくる。二人の言葉だけがステレオ放送のようになる。僕の頭が真っ白になって周りの景色が見えなくなり、暫しの間――といっても、ほんの二、三秒のことなのだろうが――僕の周りの空気が止まる。

 僕の左後ろから来た女の先生が僕の肩に衝突して、手に持っていた算数のノートを床に落とした。どさり、という音を立てた算数のノートによって、二人の目が僕の方へ向いた。

 その先生もだいぶ慌てていたらしい。豊満な肉体をゆらゆらと揺らしながら、「ごめんなさいね、あら、ごめんなさいね」といって小走りで去って行った。

 僕はまだ放心状態の続く中、腰を屈めて落ちたノートを手にとって、まさか聞かれているとは思わなかったのだろういくらか驚いているらしい大槻先生にそれを渡す。

「あー……っと…せんせー、これ」

「あ、ああ」

「遅れてすいませんでした」

「おう」

 先生が僕のノートを机の上に置くと同時に僕は、二人からさっと目線を避けてつま先を反転させた。

 僕の後ろではまだ、大槻先生と篠原かなでが会話を続けている。

 篠原かなでの表情は見ていない。

 三階へあがる階段の途中で、のったりのったりと足を進める僕の後ろからぱたぱたぱたという小さな足音と「あゆむくん!」という僕の名を呼ぶ声が聞こえた。振り向かなくとも誰だかわかる。

 僕は首だけ反転させて、声の主を確認する。篠原かなでだ。

「なに?」

「転校のこと、秘密にしてたわけじゃないの」

 急いで走ってきたのだろう、はぁ、はぁ、と息を切らせながら彼女は、胸に手を当てて、息を切らせながら、必死に言った。

「あ、あのね。お父さんの転勤が急に決まってね。そこが、すごく空気がよくて、自然がたくさんあるようなところなの。そこだったら、わたしの体調も今よりもずっと良くなるとだろうし……わたし、ここを離れたいわけじゃないの。みんなと離れるのはね、すごく、すごく辛いことなの。でも、やっぱり、わたしひとりこんなとこ置いていけないし、わたしももっと、体、丈夫にしたいの……」

 職員室で、いつもと違う僕の雰囲気に気がついた彼女は、きっと、急いで追いかけてきたのだろう。

 転勤が急に決まったことは本当だろうし、秘密にしていたわけでもないだろう。

空気がいいところだというのも本当だろう。それならば体の弱い彼女だって今よりも大分健康になるだろうし、ここを離れたくないというのも本心だろう。

 僕はわかっていた。彼女の本心がわかっていたはずなのに、そのときの僕の口からは、なぜかこのような言葉しか出てこなかった。

「それで?」

 僕の言葉に、彼女の動きが停止する。

「え……」

「いいじゃん。空気のいいとこ、いけるんでしょ?こんな車がたくさん走ってるようなとこよりも、自然がたくさんあるところの方が、きっと体調もよくなるよ。よかったじゃん。おめでとう、篠原さん」

 僕の言葉に、彼女の不安そうな顔がさらに歪んだ。

 違う。違うんだ。僕が言いたいのは、僕が伝えたいのはこんなことじゃなくて。

 僕の本心とは裏腹に、僕の建前はどんどんどんどん天の邪鬼になっていって、思ってもいないことがすらすらとでてきてしまう。

 こんなことじゃないのに。僕が思っているのは、こんなことではないはずなのに。

「向こうにいってもさ。篠原さんなら、沢山友達できるって」

 僕の言葉に、目の前の篠原かなでの顔がどんどんどんどん曇っていく。泣くかも知れない――ああ、泣きそうだ。

 彼女は、ぐい、と奥歯を噛みしめると、声を振り絞るようにしてこういった。

「でも……」

 でも、わたしは――

 そのあとに続ける言葉が見つからなかったのか、言えなくなってしまったのか。

 それ以上言葉を続けることもなく、彼女は下を向いて唇を噛み締めた。

 沈黙に耐えきれなくなった僕は「先、いくから」といって、長い階段を駆け上がった。

 僕の全身に、罪悪感という名の重りが圧し掛かっている。

 心臓が痛い。



 教室ではまだノリとツッチーがあーだこーだと突き合っていて、僕の姿が見えると「あー、あゆむだー」と手を振った。

「おかえり」

「ただいま」

「どうだった?ツッキー、怒ってた?」

「そうでもない」

 僕は席について、何事もなかったようにして友人たちの輪に戻った。

 暫くして、ほんの少し目元を赤くした篠原かなでが戻ってきて、授業開始のベルとほぼ同時に大槻先生もやってきた。

 いつも通り、何事もなかったかのようにして日直が号令をかけ、先生がページを指定して、篠原かなでもそのページを開いていた。





 初恋は実らぬものだ、と最初に行ったのは誰だろうか。

 名作童話「人魚姫」はいまだ人気の衰えを知らぬ悲恋ものの代表格だ。

 一国の王子様に恋をした人魚姫は、人間となり王子と結ばれるために自分の声を引き換えにして人間の足を手に入れる。

 しかし、いつの日か異国の娘と王子との結婚が決まり、結ばれることの叶わなかった人魚姫は王子の幸せを願いながら泡となり天に召されてしまう。

 姉さんの部屋にある少女漫画では大抵、初恋も二度目の恋もハッピーエンドで終わることが多くて、それを言ったら「これはマンガの中だからこうなんだよ」と力説された。

「ほんとの恋はね。こんなものよりももっとずっとリアルだし、地味だし、こんなド派手な展開は見せないんだよ」

 その時僕は、リアルで地味とか、何だよいまいち意味がよくわからないと適当に答えておいたのだが、今となってはよくわかる。

 僕たちが経験するであろう恋愛には、ぎらぎらと光る刃物なんて登場しないだろうし科学者が作った惚れ薬なんてものも存在しない。

 そこには義兄妹間の疑似恋愛なんてものもないし、援助交際だって絡んでこない。


 そこにあるのは、僕たちの中にある恋愛感情と、少しの嫉妬。それによって起こる大きな擦れ違いだ。

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