第5話 絵のない絵本

 僕は篠原かなでに色々なことを話した。

 授業のこと、クラスのこと、面白いテレビのこと、流行っている芸能人のこと。

 彼女が休んでいる間に授業は進んで、社会の授業は歴史に入ったこと。

 土田幸樹が授業中に寝ていて、いびきをかいて怒られたこと。

 女子の百メートル走で矢沢萌が一番だったこと。

 朝の朝礼での校長先生の話は相変わらず長いということ。

 僕が話すどの話にも、篠原かなでは笑ったり驚いたりと表情豊かに反応を示してころころと笑い転げた。

 その反応に、僕はいくらか安心する。

 篠原かなでは元気だ。

 大丈夫だ。少しくらい無理しているかもしれないけれど、少なくとも今現在僕の前で笑い転げている篠原かなではちゃんと元気だ。

 途中で篠原の母親がかなでの部屋に入ってきて、オレンジジュースとお菓子を持ってきてくれた。先ほどは緊張して紅潮してそれどころではなかったが、篠原かなでは母親似なんだということに気がついた。

 少し控え目に、それでいて上品に笑った顔は成長をしたかなでそのものだ。 そうか、今僕の目の前で笑っているこの女の子は、十

年もしたらこんなにも美人になるのかということを思い、どきどきとする心臓を隠しながら僕はオレンジジュースを啜った。

「篠原さん、元気そうだね」

「うん。昨日はちょっとひどかったけど、今は大丈夫」

「薬とか飲んでるの?」

「うん。でもね、すごく苦いの。舌がびりびりってしびれちゃう。本当はオレンジジュースで飲みたいの」

 可哀そうだな、と僕は思う。

 もしも彼女の体がもっと丈夫だったら、そんな薬など飲まなくてもいいのに。

 彼女ははぁ、と短く息をひとつ吐くと、「みんな、うらやましいなぁ」と呟いた。

「私も早く元気になって、みんなと一緒に遊びたいなぁ」

 そう言った彼女の顔があまりにも寂しそうで、悲しそうで。

 なにか、楽しいことをいわなくちゃ、と瞬間的に思ったのだが、そんな話題がすぐにでてくるはずもなく、僕は意味もなく「あー…」とか「うー……」とか呟いた。

 先を切ったのは篠原かなでだった。

「あのね、あゆむくん」

「うん」

「月曜日の夜ね、茂木君から電話があったんだよ」

 思わぬ発言に僕は、飲んでいたオレンジジュースを吹き出しそうになる。

「茂木から?」

「うん」

 驚愕して睫毛をばしばしと動かす僕とは対照的に、彼女はにこっと微笑んだ。

「あのあとね。先生とお母さんにすごくいっぱい怒られたんだって。それでね。酷いことしてごめんって。もうあんなことしないから許してくれって言ってくれたんだ」

 僕はごしごしと口元を拭きながら、茂木和義に嫉妬を抱いていた。

 篠原かなでが来ないことに耐えて3日間教室で上履きの踵を鳴らしていた僕を差し置いて電話をしたと?

 なんてやつだ。でも僕は、

「茂木君て、ほんとはきっと優しい人なんだよね」

 なんて嬉しそうに笑った彼女の顔が可愛くて、可愛くて。

 僕は結構、単純なやつなのかもしれない。

 彼女の部屋は本当に「女の子の部屋」であって、耳にリボンをつけた兎のぬいぐるみだとかピアノの形をした手の平サイズのオルゴールだとか僕にはまったくもって縁のないような代物がたくさん置いてあった。

 暖かい光の差し込む窓辺には淡いピンクのカーテンが引いてあって、収まりよく片付けられた部屋の隅には大きさの違うハート形のクッションが転がっていた。

 僕の、反対側の世界。異空間。

 世界の一部を切り取ったようなその空間に、僕は大きな本棚を見つける。

 その本棚には、ハリーポッターや指輪物語などのファンタジー、グリム童話やイソップ童話、かと思えば、かぎばあさんやら魔女の宅急便やら、ジャンルさまざまに置かれていた。

 僕はその中に、一冊の絵本を見つける。

「なにこれ?」

 見たことのないそのタイトルに惹かれ、僕はその本を手に取る。


“絵のない絵本”


 アンデルセン童話だよ、と彼女は言った。


 絵本という割にはだいぶ厚い――ページ数があるな、と僕は思う。

 僕の中での絵本という代物は小さい子――主に幼稚園くらいの子が読むもので、ページ数が少なくて、大判の、文字よりもむしろ絵の多い代物だった。

“絵のない絵本”は僕の中でのどの定義にも当てはまらなかった。

 ハリーポッターや指輪物語のハードカバー版と同じくらいの大きさはあったし、本を開いて数ページは文字ばかりの場面が続いて、やっと挿絵のあるページ行き着いたと思ったら再び細かい文字が羅列される。

 ページ数だって“絵本”の割には多すぎるし、その後ろには細かい解説だってついていた。

 簡単にいうとその本は、僕の中でいう“絵本”ではなかったのだ。

「その本、すごく変わってるでしょ? わたしもね。最初見たとき、何だろうこの本、って思ってね。すごく不思議だったの」

 僕は彼女の話を聞きながら、ぱらぱらとページを捲った。

 この本はハリーポッターや指輪物語のような、いわゆる「長編もの」ではなくて短いお話をたくさん集めた「短編集」のようなものらしい。

 彼女曰く、その本の概要はこうだ。

 ある所に、絵描きを職業とする青年がいた。

 その青年は貧しい人で、ある街の隅っこにある家の屋根裏に住んでいた。

 青年は町に越してきたばかりで友達がいなく、とても寂しい毎日を送っていたという。

 しかし、あるときぼんやりと窓の外を眺めていると、故郷からの友人である月が顔を出したのだ。

 月は毎晩青年に、色々な話をした。

 例えばそれが、鶏にキスをしたいがために夜中に鶏小屋に侵入をした女の子の話だとか、結婚したばかりの夫婦の幸せを願うような話だったり、コウノトリが赤ちゃんを連れてくることを待ちわびている姉弟の話だったりと、その内容はとんでもなくバリエーションに富んでいるものらしい。

 そしてその寂しい青年は、月が語るその話のひとつひとつを片っ端からスケッチブックに書きなぐっていった。

 その話を聞いて僕は、ふうん、と思う。そして、僕が今まで読んできたものとは大分趣旨が――内容が違うものなのだろうな、と思い、その集めの表紙を閉じる。

 胡坐の書いた膝の上にその本を乗せて、僕は彼女に問う。

「篠原さんは、こういう話を書きたいの?」

 僕の言葉に彼女は、いささか照れたように頬を赤くして長い睫毛を伏せた。

 それから両手の指をこちょこちょと絡めながらしどろもどろにこう言った。

「わかんない……でも、人の心に残るような話、書きたいな、って思う」

 すごいね、と僕は言う。

 僕は“絵のない絵本”を本棚のもとにあった場所に戻すと同時に、本棚の横に置いてあった大きめのスケッチブックを目に入れる。そのスケッチブックとほぼセットのような感じで置いてあるのは、24色の色鉛筆。

 僕は何かにぴんときて、オレンジジュースのカップを手にとってできるだけ何気ない様子で聞いてみる。

「篠原さんて、自由帳みたいなのにそういうの書いてないの?」

 僕のクラスでは牧原理恵という女の子がいて、その子は漫画家になりたいと言っている。

 牧原理恵は絵がうまく――といっても漫画的な意味でだが、常に自由帳を携帯していてそこに自作の漫画(という名の落書き)を綴っている。

 篠原かなでは、ひっ――と表情を引きつらせると、もう一度照れたようにして両手の指をちょこちょこと絡めだした。それから、小さく鈴の鳴るような声でこう言った。

「内緒だよ?」

 彼女はそろそろとベッドから降りると、予想通り本棚の横に置いてあるピンクのチェック柄のスケッチブックを持ってきた。

 彼女はふっくらとした頬をリンゴの色に染めると、「はい」と言ってスケッチブックを僕に差し出した。

 そこに書かれていたのは予想通り、彼女の自作の絵本であった。

 一人の女の子が誕生日の日に、お母さんと一緒におもちゃ屋に行って、お姫様の人形を買う。その女の子は体が弱く、友達がいなかったのだ。

 彼女はその人形に「アリス」という名前を付けて大事にするのだが、ある日の夜彼女のもとに魔法使いが現れて「アリス」に魔法をかける。魔法をかけられたアリスは人間のように自由自在に動けるようになり、しゃべれるようになる。というような、どこかで見たことのある話だ。

 A4サイズの一ページには、二十四色で描かれた鮮やかな色彩とひらがなと漢字が入り混じった文章が書かれていた。

 内容自体はとても簡単なものだ――僕ではなくて、もっと小さな幼稚園くらいの子供に見せるような内容だ。

 たった十一歳の女の子が書いたその絵本は、確かに十一歳らしい不可思議さと曖昧さ、表現の稚拙さも目立って見えた。ところどころ辻褄もあっていなかったし、大人が見れば突っ込みどころ満載な出来だったのだろう。

 それよりも僕は、彼女は書いたこの絵本を手に取ることができたのだという感動と興奮で震えていた。

 僕は彼女の気持ちを汲み取るように、一ページ一ページ時間をかけてゆっくりゆっくりと頭に入れた。

 僕がそのページを捲る間、彼女は真っ赤に熟したリンゴのような顔を布団の中に埋めて、横目でこそこそと僕の反応を見ていた。

 最後の一ページをめくり、「終わり」の文字が書かれたそこを読んで、僕はゆっくりとスケッチブックの表紙を閉めた。

 ふー、と眺めの息を吐くと、彼女の体が不安そうにびくっと揺れた。それから、黒い瞳を水晶玉みたいにゆらゆらと揺らして、「どう?」というように僕の顔を覗き込んできた。

「すごいと思う。面白いし、篠原さんてやっぱ、絵、うまいんだよね。おれにはこんな話、絶対に書けない」

 篠原かなでの顔が真っ赤になる。

「絵本作家、絶対になれるよ。おれが保証してあげる」

 僕のその言葉に、彼女はほんと? と僕に詰め寄った。

「ほんと?」

「うん。ほんと」

「ほんとにほんと?」

「ほんとだってば」

 そのような質疑応答を二、三回繰り返して、彼女はぱぁっ、と表情を明るくして飛び上りそうなほど喜んだ。

「やったぁっ。すごく、嬉しい。わたし、がんばるね。一生懸命頑張って、絵本作家になるからね。あゆむくんのお墨付きだったら、大丈夫だねっ」

 彼女はそう言って、手放しに喜んだ。

 それから、ふいと僕のほうを向いて

「あゆむくんは?」

「へ?」

 彼女の質問に僕は、とてもとても間抜けな声を出す。

「あゆむくんは、将来なにになるの?」

 同じ質問、確か前にもされたよな。と思う。

 でもそれはもう、何か月も前の話だから。彼女自体忘れているのかもしれない。

 僕は考える。

 彼女には確固たる意志があるし将来の夢も希望も備わっている。

 これからまた、その歩むべき道は変化を遂げるかも知れないし今現在はそれに向かって努力をしているようだ。

 嘘をいうのは簡単なのだが、この篠原かなでという少女の前で嘘を言った

としてもなぜか簡単に見破られてしまうような気がして、「決めてない」と正直に言う。

 彼女は特に落胆をしたわけでもなくて、がっかりをしたわけでもなくて、僕の言葉を当然のように受け入れて「そっかぁ」と言った。

「この本ね。このお話、あゆむくんに見せたのが一番最初なんだよ」

「え、そ、そうなの?」

 彼女の発言に、僕の心臓はどきっと跳ねる。

「うん。お父さんにもお母さんにも、萌ちゃんにもまだ見せたことないんだよー」

 彼女はスケッチブックを手に取ると、そのピンク色の表紙を小さな掌ですべすべとなぞった。

「だからね。いつか、いつかね。あゆむくんのやりたいことが決まったら、一番最初に私に教えてね」

 彼女の問いに、僕はただこくこくと首を上下に動かした。

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