ダブルロール~羽咋の真祖~

佐々木 祐(タスク)

【第一章】 殺意の倒錯

本郷 恭介

意思のない街 part1(改稿)

 朧気おぼろげな情景を、一人の少年の視点で覗いていた。

 落ち着きをあらわす、白を基調とした研究施設の長い廊下を、裸足のまま進む。


 俺の背には、うなじが隠れるほど伸びきった黒髪で、陰鬱な蒼い瞳を窺わせる少女の小さな手を握りながら、共に無言であゆみを進める。


 長い通路にはサイレンがけたたましく鳴り響き、武装した研究員がせわしなく走り回っている。


『クソッ奴らが逃げたぞ!』


 誰かが言った。俺達を探しているのだろう。


『お、おい! 居たぞ!!』


 俺を見つけた三人の研究員が、短機関銃の銃口を此方に向けた。

 焦燥感しょうそうかんあらわにする、三人の研究員が俺と目が合う。


『化け物共が!!』


 一人の研究の怒声に、静かで穏やかだった俺の心がざわついた。

 それと同時に視界の端に白い光が映ると、研究員がこちらに短機関銃を構えたまま、動きを止める。


 先程まで感情を露にしていた研究員は打って変わって静まり。

 俺と少女は連中を歯牙しがにも掛けず、何事も無かったかのように研究員たちの脇を抜け、去り際に小さく呟いた。


『――死ね……』


 連中を背にし、俺の呟いた一言を契機に研究員たちは躊躇せず。

 突然、短機関銃を互いに向け合い、練度の高い軍人のように、指に掛けたトリガーを同時に引き、銃口が火を吹いた。


 連中は自分が倒れるまでトリガーに人差し指を掛けたまま離さず、意識が遠退く寸前まで、相手の体に穴を開ける。

 白かった壁や床を淡紅たんこうに染めあげた。


――俺は何も感じていない。


 背後の少女も他人の死に関心など無く、振り返った俺を陰鬱いんうつな瞳で見つめ返すだけだった。


 また新たに一人の研究員が白衣をなびかせ、こちらに二挺の拳銃を向けて俺たちの進路を塞ぐ。


 身を震わせ、涙ぐんだ眼には俺に対する憎悪の色が窺える。

 男の鋭いまなこに、俺は浅く息を吸い、視界に白い光が映ると同時に呟いた。


『俺の眼を……見ろ』


 冷えきった廊下の先に見据えた研究員の眼は、最後の一筋の雫を流し、俺への憎悪の失せた隷属を示すような力なきに変わる。


『銃を渡せ……』


 疑いもなく、俺の背に合わせてひざまずき、二挺の拳銃を手渡した。


 二つ銃は光沢のある銀白色で、俺の幼い手にはあまりに大きく重厚。

 銃身の側面には『UNITED STATES PROPERTY』と刻まれていた。


『この銃、名前は?……』

M1911民間モデル通称です』


 俺の求めた疑問に簡潔に要点を省いた説明をした。


 俺は何故か統治者ガバメントを意味する。

 こいつを気に入り、既に初弾の込められた銃口を跪いた男の額に押し当て、グリップセーフティを強く握りトリガーに指を掛けた。


慈悲じひをやろう……』


 銃を渡した研究員に僅かな慈悲を与える為。

 自らの手で少しずつ、トリガーに掛ける指に力を加え、撃鉄が下りた瞬間、銃口から閃光がまたたいた。


 ×××


 薬品に囲まれた、心地よいベッドの上で勢いよく目を覚まし、荒く吐く息と高鳴る動悸どうきを落ち着ける。


「ハァハァ……夢? いや明晰夢めいせきむか……」


 酷く厨二臭い妄想に満ちた不思議な夢だった。


 自分が超能力者になり、背後の少女を気に掛けるだけで、二人は何も言わずに研究所の出口を目指す。


 記憶や欲望、願望に起因する筈の夢は、俺の無意識世界を投影している。


 ならば俺は無慈悲に人を殺すことを願い、美少女と共に歩む人生を望んでいる? ということは俺は、本質的な幼女趣味ロリコン……


「ふぁ~、バカバカしい」


 保健室のベッドの上で仮病を装って休んでいたんだった。


 鉛のように重い体を起こし辺りを見回すと、ベッドを囲むように敷かれた、シルクのカーテンに二人の影が映る。


 二人は静かな室内で濃厚な接吻せっぷんを交わし、一人は保健室を出ていく。


 タイミングよくスピーカーからチャイムが鳴り、俺はカーテンを開けた。


「あ、あら本郷ほんごう君、よく眠れたかしら?」


 室内には当然、養護教諭が居り。

 すこし息の荒い妖艶ようえんな声音と、上気した顔を隠し、背を向けたまま乱れた衣服を直していた。


 眠る生徒を前に羞恥プレイを求められたのか、求めたのか、はなはだ疑問だが、要するに俺には関係ない。


「……頭痛、治ったんで戻ります」


 当然、深く言及はしない。

 教師間の情愛や、校内での性交渉など、俺の知ったことでは無いんだ。


 ベッドの脇に置いておいたブレザーを掴み、足早に保健室を後にし、冬の寒さがより一層感じられる廊下へ出た。


 校舎内外の気温差で窓ガラスの表面が結露し、上着の袖で軽く水滴を拭うと、狭い空には黒々とした曇天模様の雲が広がっており、校内は薄暗く余計に肌寒く感じる。


 二の腕を擦りながら暖を取り、二階へと上り、目的の教室にたどり着いた。


 本日のノルマ、次の六限目をやり過ごせば、俺の住処すみかであるビジネスホテルに戻れ、暖かいコンビニ弁当が俺を待っている。


 ×××


 自分の座席に着くと直ぐ、机に突っ伏し、授業の開始を待っていると、窓際にある俺の席から斜向かいに不機嫌そうに座る不良生徒。

 新羅しらぎ ゆずるが珍しく一人であることに気が付いた。


 新羅グループの御曹司は家柄に縛られた、窮屈きゅうくつな生活に嫌気が指したのか、今では立派な問題児。


 なまじ親が金を持っているせいで、教師は素行不良を見逃す始末。

 今のところ表沙汰になるような犯罪を行っていないようだが、遅かれ早かれ少年院送りだろ。


 要するに、新羅はこの羽咋はくい高校の病巣びょうそうに溜まるクズ、クズ菌だ。


 この羽咋も昔の殺風景だった頃を忘れ、今ではハームフルコーポレーション、新羅しらぎグループ、広域指定暴力団。

 そして末端組織の縄張り争い、治安の悪化から危険区域に指定されており、この街での犯罪は日常茶飯事だ。


 夜な夜なサイレンがビル群と歓楽街に、こだまし、何処かで誰かが殺され、死んでいる。

 

 そんな悪党達から見れば、この新羅と言うもただの小物。

 一般人に程近く周囲を威圧する態度も、ただの虚勢に見えて笑えてくる。


「ふひっ……ひひ」


 突っ伏した腕のなかで密かに笑っていると、足音が自分の机に近づき。

 突然俺の緩んだネクタイが掴まれ、無理矢理に立たせられた。


 見れば先程、胸中で馬鹿にしていた。

 虚勢だけのボンクラ君、新羅が不機嫌そうに俺を睨み付けている。


「……よう本郷、今、俺を見て笑って無かったか?」


 目敏めざとく俺の視線を嗅ぎ付けていたようだ。


「い、いや……見てないよ……ただの、思い出し笑い……ふひっ」


 我ながら自分の小心者っぷりに嫌気が刺す。


 だがこれは世を偲ぶための処世術であり、本当の目的。

 俺が殺したい相手を殺す時まで、こんなゴミに絡まれようと、問題を起こすわけにはいかないんだ。


「……ちっ! 気色わりぃ、目障りだから消えろ」


「…………」


 俺はてめぇ以上に、ゴミと同じ空気を吸わされて万倍、不愉快だ。

 負け犬は尻尾を巻いて一人で居てろ……クソ、俺も一人だけど。


 席に戻った新羅が嫌みったらしく、後ろの席に座る生徒の机を当て付けで蹴り上げ、猿の威嚇のせいで教室全体の空気がわるくなっている中。


 予鈴が鳴り、担当教諭が教室に入ってき、クラス委員の号令で六限目の授業が進行していった。


 ×××


 寒空の下ペトリコールの独特な香りから、降りだした雨に陰陰滅滅とした空気感を覚える。

 それは雨が作り出した物か、それともこの寒さに湿気が混じっているせいかは……はたまたチンパン君のせいか。


 うぜぇ、兎に角うぜぇ。

 腹へった? 眠い? うるせぇんだよ! じゃあ帰れよ!!


 授業は問題なく終了し、本日のノルマを達成した。


 新羅は授業が終わるやいなや早速、仲間を招集。

 金に集る蝿の如く、明るい頭髪、着崩した制服と安物のキツい香水、ピアス、シルバーアクセ、見た目だけで中身の無いコイツらも、三下チンピラ未満のクソガキだ。


 ただ横柄な態度、不遜な言動。

 常に仲間(笑)という隠れ蓑の中で小さく生きている癖に、自分達は正しいと信じる思慮が浅い連中。


 所詮は他人を拠り所とした群れるだけの烏合うごうの衆だ。

 そんな連中より劣っていると感じる俺自身も嫌いだが、ただ考えもせずのうのうと生きる『能無し』のクソガキどもには心底、反吐が出る。


「今日ムカつく事あったし、歌わね?」


「それな、マジムカつくよあのオタク」


 俺を指して笑い者に仕立て、新羅を中心に、連中は何が可笑しいのか俺を見ながら、嘲笑を浮かべている。


「止めときなよゆずる、オタクってすぐストーカーになるじゃん」


 一人の女は自分の浅い知識を披露し、新羅をなだめるように俺をあざける。


 俺のどこがなのか説明を求めたいが、こいつらに説明の意味を介する知恵も持たないだろう。

 猿、能無し、社会のゴミ! 不良モドキにマ〇カス女共が!


「そうだな~。アイツって親がヤクザだから近付くと危ないよな」


「……っ!」


 新羅の言葉に、俺は心臓を鷲掴みにされたような緊張が走った。

 俺に親は関係無い。

 ボンクラの資金援助をしゅとした、親子関係と一緒にするな。

 あんな父親クズをあてにした事など一度も無いし、産んでくれとも頼んでおらずとも、劣悪な環境を強いられていた。


 こうして学内でもヤクザの息子、『貸元かしもと』であっても『三下さんした』のチンピラであろうと、カタギじゃなけりゃ、ヤクザはヤクザ。

 今はもうアイツと暮らしている訳でも無いのに、こうして関係のない場でも引き合いに出される。


 視線を新羅に向けると、俺を嘲笑っていた女も俺を見る目が変わっていた。


「譲~マジ~うわちょ~~怖いこっち見てるし!」


「大丈夫だってこんなヘタレオタクに何が出来るんだよ」


 こちらを見て笑っていた新羅が俺の座席まで来ると、帰り仕度をしていた俺の鞄を床に落とし、再び胸ぐらを掴まれた。


「オイ! 何見てんだよ!」


「…………っ」


 睨まれた瞬間、頭に血が上り、掴まれた腕を掴み返したが、その先が分からず止まってしまった。

 暴力を振るわれる事はあっても、振るった事が無いせいだ。


「アァ? ヤんのか! オラ゛ァ!」


 新羅は右手で掴まれたネクタイを少し離し、左手の拳が俺の頬を捉え、顎ではなく、歯茎に響く素人のズレた拳に、勢いだけで俺は飛ばされた。


 自分の机に引っ掛かり、よろけて床にぶちまけられた教科書と鞄に倒れる。


「いっづぅ……」


 周りに残った生徒たちは、俺を見て嘲笑う訳でも、助けるでもなく、目の前の暴力に怯え、誰も動かずただ静かに倒れた俺に哀れみの目を向けるだけだ。


 くそっ! 見てんじゃねぇ! 死ね、死ね!


「うぅ……ぐぅ……」


 新羅の取り巻きは俺を殴った新羅にさらに追い打ちを掛けるよう煽り、嘲笑う。


「弱っ! 威勢だけかよ」


 新羅に吐き捨てるように掛けられた言葉に答えず、教科書の上で身を捩り頬を擦る。


 見るな……俺を見るんじゃねぇ……

 このゴミ共が、嘲るためだけの哀れみなんていらない。


「ちょっとスッキリしたし、そろそろ行こうぜ」


「そうね。じゃ~ねぇ~オタクくん。恨まないでよね」


「大丈夫だっつぅの、こんなザコなら、俺がまたワンパンで倒す」


ゆずるかっこいい~~」


 新羅が女の肩を抱き、連れだって笑いながら俺を見下し、教室を出ていった。


 新羅が出ていこうが俺に声を掛ける生徒など居らず、またコイツらも俺をネタに話を続けるだけ。

 俺は惨めに、痛む頬を押さえながら立ち上がり、制服に付いた埃を払う。


 床に散乱した教科書は鞄に納めていると、鞄の奥底にあるナイロンカバーで覆われた、市販のサバイバルナイフが見えた。


 あのゴミ共をこれでズタズタに出来るなら、どれだけ気が晴れるか……


 だがこれはあの親父クズる為に用意した物。

 余計な殺人。そんなことをすれば、俺がクズを殺す前にブタ箱行きだ。


 だがいつもそう言いながら、一度もあいつらにナイフを向けられない。

 こんなんじゃ、他人を殺すなんてのは夢のまた夢だ。



 散々な一日を終えたいが為に、急いで校舎を出る。

 曇天の空の下、寒冷な気温をさらに下げるような小粒の雨が降りだした。


 なんだよこれ、鬱陶しい……天気まで俺を卑下するのか。


 沸々と沸き上がる苛立ちを発散するように、昇降口から校庭に向かって叫んだ。


「ふざけんな! クソ野郎! ぶっ殺してやるよ!」


 心臓が高鳴り、より一層耳鳴りが酷く鳴り響く。高まる苛立ちは治まらず、だが行き場は無い。


「よぉキョウ、何イラついてんだよ」


 すると突然、背後から名前を呼ばれ、振り返れば赤髪の不良生徒、赤井あかい 龍一りゅういちが居た。

 俺が唯一、友人と呼んでいる男だ。


「……雨降ってるからな」


 努めて平静に返答するが、龍一は小首を傾げた。


「ん? 絡まれて殴られたからじゃないのか?」


 まさか教室での一件を見られていたとは。

 真実を知る者に嘘をついても仕方がない、隠そうと努力はしたんだ。俺は俺を褒めるぜ。


「見てたのか……」


「見てたっていうか……頬が腫れてるからよ」


 俺の殴られた右の頬を指す。

 見られていた訳ではなく、自分の顔に残ったものから推測したのか、流石、自称『喧嘩百段けんかひゃくだん』だな。


「久しぶりに痛かった……」


悄気しょげるな悄気るな! 何ならお前の恨みを俺が晴らしてやるよ!」


 けんダコを隠すために、いつも着けている手袋の上から骨を鳴らし、俺を励まそうとしてくれる。


 だがこれ以上、惨めにならないために、俺は冗談交じりに拒否した。


「いや大丈夫……龍一はやり過ぎるから駄目だ」


「は? なんだよソレ。俺は節度をわきまえるぞ」


 節度を弁える男が拳ダコできるまで、人を殴るわけ無い。

 骨肉を打つということは、痛みを知りながら日常の影に隠れて、暴力の利便性に酔いしれているという事だ。


「オイ、なんだよその目、俺がまるっきり不良少年みたいじゃねぇか」


「そういう目で見てるんだよ」


「チッ……おい――」


 龍一の向けた視線を辿り未だ降り続ける、雨音と霧のように、霞がかった校門を見て、言葉を続けた。


「――仕方ねぇから近くのコンビニまで走るぞ」


「お、おう」


 薄い鞄を頭上に掲げ、勢いよく走り出した龍一に次いで、俺も重たい鞄を傘変わりに、龍一を追いかけた。


 ×××


 コンビニの入り口に雨だと言うのに、周りに睨みを利かせて座る二人の羽咋高校の生徒、連中に怯えるよう、コンビニに入るパンピーが見えた。


 龍一は気にすることなく入口で座り込む一人の金髪目掛けて、勢いよく走り出した。

 龍一の曲げた膝が走っていた勢いに乗り、的確に頭を捕らえ、金髪は側頭部をコンビニのウィンドウに打ち付けた。


「チッ! テメェらここが自分家じぶんちのリビングだとでも思ってんのか?」


「うっ……赤髪の赤井」


 龍一に続いて屋根のある入り口の前に立ち、一悶着、済んだ龍一がコンビニに入ったので続いて入る。


 先程のガキは傘立てに入った傘を持ち、蹴られた頭を抱えて二人で去って行った。


 室内の暖気と頭から膝まで、ぐっしょりと濡れた服が肌に張りついて気持ち悪い。

 ゴム底の靴が濡れてリノリウムとの摩擦で鳴る音を気にしながら、入ってすぐの雑誌コーナーで一冊の雑誌の表紙を見ている、龍一に声を掛けた。


「何見てるんだ?」


「ヘヘッ、“SERENA”だよ珍しく日本のグラビアに出てる」


 手渡された雑誌にはポルノ女優でも、車でもなく。

 若く張りのある肌艶、特にふくよかな胸や美しく細くしなやかな脚、ブロンドヘアの外国人女性が素敵な笑顔を向けて、表紙を飾っており名前は『SERENA』とローマ字で表記されていた。


「見た目だけは良いんだよな。この女、実際は性格わりぃんだぜ」


「知り合いか?」


 いやに知ったような口振りの龍一に問うと、気にする素振りもなく、簡潔に「そうだ」と答えた。


「スゲェな、会ってみたいよ」


 本心では興味が無かったが、間近で見れるなら見てみたいという欲はあった。


「機会があれば紹介してやるよ……一冊買ってやろう」


 グラビア雑誌と安物のビニル傘を購入すると、暖房の暖かさから、また寒い外へと出る。

 濡れて肌にへばりつくシャツとズボンの水分が、冷たい空気に触れて余計に体温を下げる気がした。


 半透明なぼかしが入ったビニル越しに、音をたてて弾く水滴。

 鞄を肩に引っ掻けて背負う龍一と並んで、氾濫はんらんする子浦川しおがわの上に架かる橋を越え、住宅街に入った。


 いつものルートで繁華街へと向かっていると、ふと龍一が足を止めて辺りを見回す。


「アッ? なんか聞こえなかったか?」


 公園前に差し掛かった所で、急に変な質問投げ掛けてきた。

 当然、俺には雨音と、薄く掛かった雨霧あまぎりしか、感じられず「何も聞こえなかったぞ」っと答える。


「聴こえてるよ……微かに……高い声が」


 龍一が雨の降りしきる中、静かに耳を澄まし始めた。


 俺にも幻聴が聴こえる事は良くある。

 だけどそれは、他人との知覚齟齬そごという事であり、俺が聴こえて龍一には聴こえるのは、完全に幻聴なのだが。

 龍一には簡単に納得いかないらしく、気が済むまで待っていると「あっちだな」っと公園を指差した。

 

 簡素な公園内には住宅街から死角となり。

 家宅に囲まれたこの場所では、強姦事件や傷害事件などよく耳にしてい、地元の人間なら避けて通りたい場所だ。


「女の悲鳴だ。公衆便所から聴こえる」


「そうか、俺にはまだ聴こえない。良くある強姦レイプだろ、気にするなよ」


 現実的な話。襲われた女を助けることにメリットはない。

 女を快楽の捌け口にした男を殺せば禁固刑、執行猶予がついた情状酌量でも前科一犯。

 殴って血が出りゃ相手が犯罪者だろうと、加害意思が認められてブタ箱行きだ。


 恐らく犯罪者だからと、龍一なら徹底的に暴行を加える。

 否応なしに、一緒にいた俺も責任を求められるだろう。


 そんな面倒な事になるより、一人の知らない女が一生の傷を負って、あわよくば自殺してくれれば。

 その女の過去に強姦遭っていたという背景が浮かび上がり、偶発的に加害者が捕まる。


 そして裁かれれば極刑を望む民意、世論の声に後押しされた司法は、長い懲役刑を言い渡すだろう。


 加害者が非道な犯罪者だろうと、相手が未成年であれば、少年法によって守られるのだ。

 もちろんコレは未成年だった場合で、相手が成人なら無期懲役だってあり得る。



 今こうして冷静に考えれば、強姦事件なんてのは明るみに出て初めて捜査が開始され、一人を傷付けて皆が助かる。

 理想的な社会の象徴的性犯罪あり、俺たちが関与することは本当に、何のメリットも無い。


「キョウ。誰かが泣いてるのに、見過ごせる訳ねぇだろ……」


「泣いてるのは一人の女だ。こいつを一時の陶酔とうすいで助ければ、俺達もお咎め無しとはいかないだろ。……数の問題。一人の人間が、一生悩みを抱えて生きていれば、後に残された人間は笑って生きていけるんだよ」


 合理的な考えを示したつもりだが、龍一は眉根を寄せ、肩に掛けていた鞄を俺に押し付けた。


 コンビニのビニル袋から雑誌を取りだし、ズボンから裾の出たワイシャツの下、Tシャツの上から下腹部を守るようにズボンに雑誌を挟む。


「残された家族、両親、兄弟、親戚、友人! 恋人! 誰が悲しまないんだよ!!」


 龍一は情緒的な理論をかさに着て、自身の信念を通そうとする。

 なぜそこまで意固地になるのか、そんな信念を社会は容易にねじ曲げてくるぞ。


「所詮、他人だろ。家族だろうと悲しむ振りは出来ても、内心ではなんとも思ってないさ」


 親なんてのは体内から排出された物質、別個体を『子』と位置付け、ただので育てているに過ぎない。

 別個体に感情移入しているをするのが、正常な人間として認識されるから、そう振る舞う。

 所詮そんなに真の哀愁、憐憫なんて感傷は存在しない。


 他人の死に涙できるのは、それが社会の常識であり、慣例として守っているだけで、裏を返せば処世術に長けた立派な役者というわけだ。


 そんなことを分からない訳が無い。

 なのになぜ龍一が他人の問題に首を突っ込もうとするのか、理解に苦しむ。


「お前はお目出てぇよ……」


「どういう意味だよ」


 肩を鳴らし、雨に濡れるのも気にせず俺に悪態を着いた龍一を睨む。


「そのまんまの意味だっつぅの。現実に誰かが助けを求めているなら、それに応えてやれる力を持つ人間が助けるのが道理なんだ。それをキョウ! お前が責任を負うのが怖いからって逃げてるだけだ!」


 いつに無く、真剣な眼を向け、俺にそう言い放つ。

 龍一のような不良は主体性アイデンティティに基づいて生きている。


 俺が他人の惨事を歯牙にも掛けないのと同じ事。龍一にも確固たる思想が存在するなら、俺たちの会話は無益だ。


 龍一も俺に手伝えとは一言もいってない。

 ならば、見守れば良いのだろう。



 濡れた上着を脱いで、俺に手渡すとビニル傘を閉じ、親指と人指し指の間を強く揉んでいた。


「なにしてんだ?」


合谷ごうこくってツボを揉んでんだよ。まぁ願掛けみたいなもん、殴られませんようにってな」


「願掛けね……」


 公園内の植え込みにある、くすんだ赤褐色のレンガを外し、右手に持った。


 雨に降られて、濡れた赤髪を垂らしながら龍一は公衆便所へ向かう。


×××



 近づいた公衆便所内は二つの入り口に別れ、男子トイレの奥から確かに声が聴こえてきた。


 屋根の下に鞄と傘を置き、龍一と並んで簡単に入り口前の壁に張り付き、まずは中の様子を窺う。



 中には男が三人、金髪の男が女を背後から羽交い締めにし、女の前にニット帽の男がズボンを下ろして座っており、最後のサングラスにゴールドアクセの男がデジタルハンディカムを構え、行為を撮影していた。


 恐らく映像に残すことで、被害者を脅し、警察や家族、友人に事が露呈しない為の工作だろう。


 三人の男達は、口の端を吊り上げ、下卑た表情で眼前の女を見下ろしていた。

 ニット帽の男が破けた制服から露になった、白い乳房を舐める。


 女は口を押さえれ、涙と汗で張り付いた髪の毛の間にはまだ幼さのある顔立ちと、何処か虚ろな瞳を明後日あさっての方向に向けて涙していた。


「くひっ、今度は薬を使ってみるか? 感度が上がって……お前も気持ち良くなるぞ……ええっと、幸奏ゆかなちゃん、くひひ」


 違法薬物の中毒者のように見えるニット帽の男は、尋常でない量の涎を吐きながら、下品な言葉を掛けるが女は反応を示さない。


 男の手に持たれた生徒手帳には、女とおぼしき顔写真が貼られていたが、それは今の絶望的な顔をした女とはまるで別人のようだ。


 これでこの女は人生を大きく踏み外すだろう。

 だが俺にはまったく関係ない話……

 だったのだが、それも龍一が関わってしまうことで、間接的に関与した事になる。


 勢い良く壁から飛び出た龍一が、手に持った赤いレンガを振り上げ、正面のニット帽の男の後頭部、目掛けて振り下ろす。


 龍一が飛び出した事に気づいた二人が龍一を見た瞬間──レンガがニット帽の後頭部に振り下ろされる。

 先端から中心にかけて微量の砂埃を払い、真っ二つに砕けた。


 ニット帽の男は声もあげられず、犯していた女の足下に崩れ、痙攣する。


「うぉ! なんだテメェ!!」


 サングラスの男が叫び、ビデオカメラを持った手とは逆の手で龍一を殴ろうとするが、大振り腕を龍一の前腕で防ぐ。

 すかさず手に持っていたレンガの半分を捨て、サングラスの男の襟を掴み、サングラスに頭突きした。


「がっ! はぁ」


 仰け反った男のサングラスはブリッジから、ひしゃげてひび割れ、折れた鼻筋に沿って微量の血が流れる。


 体勢を崩した男の首の後ろを掴み直し、くの字に曲げた膝を、男の下腹部に入れた。

 サングラスの男は手に持っていたビデオカメラを床に落とし、膝をついて悶絶する。


「ぐぅぇええ……」


 トドメとばかりに龍一が悶絶する男の髪を掴み、胃液と共に吐き出される唾液と鼻血、痛みに歪んだ顔面に折った膝を再度入れた。


 男の歯が欠け、曲がった鼻からさらに血を流し、背後のタイルを砕き、後頭部を打ち付けた男は静かに沈む。


 龍一の指の間には剥がれた頭皮、無数の髪の毛が指に絡んでいたが、痛みの色を見せず。

 女を羽交い締めにする金髪の男の前で、指に食い込んでいた髪の毛を払った。


「ヨォ兄ちゃん、女をなぶって楽しいか?」


 龍一の問いかけに金髪の男は鼻息荒く、ポケットから、折り畳み式のフォールディングナイフを取り出した。


 金髪は壁に体重を預けながら、羽交い締めにしていた女と共に立ち上がる。


「近づくなぁ!! ぶ、ぶっ殺すぞ!!」


 女はフラフラと覚束無おぼつかない足で、金髪の腕に身を委ねていた。


 ナイフの先を向けられても、相変わらず虚無を見つめており。

 目の前に血塗れの男が倒れていようが、返り血で白シャツを汚す赤髪の男が居ようが、叫び声を上げず。

 まるでこの世界の全てに、関心が無いような目をしている。

 

「くそっ! この野郎!!」


 女の頬に向けていたフォールディングナイフの刃先を、鋭い眼光で睨む龍一へと向ける。

 女の背後に隠れる金髪を前に、先程の“おまじない”と言っていた、親指と人指し指の間をマッサージしながら吐き捨てた。


「女の後ろに隠れて、得物えものに頼るようなクズが……まさに“下衆げすは槌で使え”ってヤツだな」


 鋭い視線で男を見据えながら龍一は、左足を上げ、両腕の脇を開き、拳を頭上に構えながら爪先で立つ。


 軽くステップを踏み、左足で相手の呼吸に合わせてリズムを取り、金髪の男に向けて、左手の四本の指を立てて手招きする。


「オイ! 屑野郎! その玩具おもちゃで俺をれるか試してやる! 刺してこいよ! オラァ!!」


 金髪は龍一の挑発に手を震わせながら躊躇ちゅうちょしていた。


 当然だ。人間は簡単に人を刺すことなどできない。

 ましてや刺し殺すなんてのは、手に感触が残る分、余計に不快に感じるはずだ。


 だが常人ならば、そんな不快感よりも『刺し殺す』という快楽、愉悦を優先し、求める。


 俺が金髪の男なら、相手を殺せるチャンスをみすみす逃したくない。

 心臓の高鳴りを抑えるように胸中で「殺す……」っと、克己するよう唱え、一気に胸を刺すんだ。


「うわぁぁああ!!」


 叫びながら金髪は、右手のナイフを真っ直ぐ突き出す。


 龍一が相手の肘が伸びたと同時に、ジャブの要領で左手を軽く開き。

 中指と薬指の間に刃先を通して、指の間が切れて出血することもいとわず、ナイフの刃を握り込み、腰の入った右フックで金髪のテンプル目掛けて殴りつけた。


 よろけた金髪がナイフと人質に取っていた女を放した瞬間。

 龍一の右手の戻り際、女の制服の襟を掴み、出口にいる俺目掛けて投げて寄越した。


 よろよろと覚束ない足取りの女を反射的に抱き止めた俺は、破れたワイシャツから覗く、白い肌から目を逸らした……っが、生暖かい肉の感触に興奮を覚えてしまう。


 光のない目が俺に向けられ、女が俺へと求めた安寧に息を飲んだ。


 庇護欲をそそられるな……これなら龍一が人を助ける理由も少しは解る気がする。


「さぁ! 玩具おもちゃは無くなったぞ! 男らしく来いよ!」


 さらに相手を挑発する龍一。

 あからさまに震える足で辛うじて立っている金髪は、切れた口端から血を流し、背にしたタイル張りの壁に寄りかかっていた。


 金髪が上半身を起こし、金髪が龍一を真似たようなファイトスタイルを取り、グロッキー状態ながら力を振り絞った様子。ラッキーパンチ狙いの大振りの右腕を伸ばす。


 素早く反応した龍一は、軽くいなすように左のアッパーを、相手のテレフォンパンチに合わせるよう打ち上げ、金髪の下顎が跳ね上がった。


 金髪が気力だけで前に出たのを確認した龍一は、半歩後退し、ミドルレンジからのローキックを、相手の太股に打ち込み、綺麗に肉を打つ音を響かせる。


 あれは相当痛そうだ。膝を着いてしまうのも無理はない。


 くの字に折れた足で体勢を崩した金髪を前に、足を戻しざまに一回転し、狭い便所内で左足が一直線に伸びる。

 後ろ回し蹴りで、勢いよく背後のタイルに背中を打ち付けられた。


 浜に打ち上げられた魚の様に、口を開きながら必死に呼吸しようとし、天を仰ぎながら剥かれた目に意識の色は無く、ただ口端から唾液ともつかない気泡を吹いてる。


 下腹部に深刻なダメージを受け、呼吸が困難なのだろう。


「けっ! 一方的過ぎるだろ……面白くねぇ!」


 左手に挟んでいたナイフの刃が肉に刺さっており、それを剥がすようにタイル張りの床に落とす。

 ぱっくりと割れた手から、鮮血が溢れている。


 龍一は痛みを堪えるように、血の流れるてのひらを力強く握り込んだ。


 壁を背に天を仰ぐ金髪に、とどめと言わんばかりに歩み寄り。

 タイルの割れる音と共に、鼻頭の骨が砕けるほど強く踏みつけ、公衆便所に断末魔の叫びと骨が砕ける音がこだまする。


「流石にやり過ぎだろ……」


 そう言いながら、俺は口の端を吊り上げ、無意識に笑っていることに気付くと口許を隠した。


 見下ろせば寒さか、恐怖か定かではなものに振るえる女がいる。

 そんな女の腕を強く握り、女が痛みあまり小さくあげた声に、俺は微かに加虐心をそそられた。


 痛いのか? 怖いのか? そりゃそうだよな。

 男に無理矢理犯されて、ボロボロの自分を抱えたのは俺なんだから……


「くひっ……ひひひ」


 目の前の暴力に火照った体は、自分より弱い目の前の女を、痛め付けたがっている。


 ここに龍一が居なければ、俺はどうなっていたのだろうか。

 龍一が楽しそうに入口まで戻ってき、俺は平静を装った。


「……やりすぎだぞ、龍一」


「へへっ、久々だから、つい興奮しちまった」


 龍一は飛沫した血液も、切れた左手の傷も気にせず、女の肩に手を置いた。しかも左手で。


「おい……大丈夫か」


 女は掛けられた言葉に答えず、俺の上着に顔を埋めながら嗚咽を漏らした。


 人の制服で涙を拭くという、不躾な行動にこの女の常識を疑う。

 正常な人間ならば言葉に、答えるのは義務であり礼儀だろ。


「キョウ、少しは気を遣ってやれよ」


 不快感を露にしていたのか、龍一が見てそう言った。


「不躾な人間に気を遣う必要なんて無いだろ」


「あ? なんだそれ?」


 不思議そうに龍一は、自分の上着を手に女の肩に掛けてやった。


「すまねぇな、もっと早く助けてやれればな……」


「あぁ……だ、だい……すみません」


 力無く呟かれた言葉が、俺の上着越しだと余計に不快に思えたが、女は精一杯乾いた声を張り上げて龍一に答えた。


 女が泣き止むまで、俺はただ呆然と立ち尽くし、龍一は撮影に使用されていたハンディカムのメモリを抜き、女の生徒手帳、脱がされた靴と鞄をを女へ返す。


栫井かこい 幸奏ゆかなちゃんか……同じ高校の生徒だし、キョウと同級生だな」


 何処か他人事な言い方の龍一が悠長に構えるが、そろそろ騒ぎが広まって近隣住民に通報される頃だ。


「そんな事はどうでもいいから、さっさと立ち去ろうぜ」


 女が泣くのを止め、鼻を啜りながら目許を腫らし、龍一から受け取った靴を履く。


 相変わらず俺の上着に手を掛け、破れたワイシャツから青アザや内出血が窺え、龍一の上着を袖を通さずに羽織っている。


「えーっと幸奏ゆかな? 俺達が送るから安心しろ、もう泣くな」


 龍一優しく声を掛けると女は首肯して答え、龍一は女と自分の二人分の鞄を持ち、傘をさした。


「俺達がそこまでする必要あるのか?」


「おいおい、キョウ……女の子を一人にできるわけないだろ。文句言わずについて来いよ」


 俺の同意は得ずに、相変わらず雨が降る寒い空の下。俺の上着を離さない女のせいで、俺が傘を持っても女が濡れる。

 その為女に傘を持たせた結果、俺は女より早く歩く分余計に肩を濡らした。

 

 最低の街には、こうした被害者なんて五万といる。

 そんな中、無意味な正義感で、救ったつもりの被害者は俺たちをどう思う。


 それは当然“迷惑”の二言。


 誰も感謝はしないくせに他人には、人を救うこと求め、俺の上着にすがるこの意地汚い女のよう。

 感謝の言葉を出さず、いずれ俺達が困窮しても救うことをしないのだろう。


 最低の街の最低の人間どもは、社会という無意識な集合体のもと、降り頻る雨の如く気に留めない、人が傷つくのは当たり前、人が死ぬのは摂理だ。


 目の前で他人が死ねば笑い転げるのが常人の反応、それが当たり前なのに、一般人やつらは悲しむふりをする。

 対して傷ついた人間には嘲笑ちょうしょうを浮かべ、他人事ひとごとだと楽しむ。


 俺は何処までも普通の人間だ。

 だからこそ人を殺したい。だからこそ、無意味な死を見たい。


 ×××


 暴力に酔う龍一を見て再びその想いが募る。

 血は甘美な媚薬びやくのように、身に溶けて浸透し、一時の快楽が全てを忘れさせてくれるはずだ。


 気にくわない全てを笑いが止まらないくらい、酔いしれたい。


 女の案内で着いた家の前で、女は足を止め、少し俯いた。


「なにしてんだ……ついたぞ」


「おいおい察してやれって……」


 これ以上こいつの心情に振り回され、こちらが迷惑被るのは嫌だ。


 俺が女を振りほどくよう腕を払うと、女の手は呆気なく袖から離れた。

 俺が傘の帆から離れると、水の溜まったアスファルトに膝をついて崩れる。


「か、帰りたくない……です」


 傘を持つ手を震わせながら、再び涙を流し、訴えてきた。

 この女の卑しさに苛立ちを隠しきれなくなる。


「ちっ……テメェで撒いた種だろ……」


「キョウ、今の言い方はひでぇぞ」


 流石に龍一の前でも、ここまでの愚行は見過ごせない。


 なによりこの女の我儘わがままな発言は、自分の置かれている状況が、理解できてない証拠だ。


「……レイプ犯に生徒手帳見られて、デジで撮影されていた。性犯罪ってのは常習性が高く、個人情報が割れてるお前は、次も同じように犯される可能性が高い。

 裏ではあのハンディカムの映像が販売され、お前が死ぬまで苦しめられるんだよ。

 その上で家族に頼らずに最悪の事態になるまで受け入れるつもりか? ふざけるな! 甘えてんじゃねぇ! 俺達に助けてもらった上に、まだ生意気に要求するのか!」


 鼻息荒く捲し立てると、女は虚ろな瞳で俺を見上げ、龍一が俺の肩を擦った。


「キョウ! 冷淡さは正直とは違う。お前の考えは自分本意の理想論だ」


「何言ってる。とても合理的じゃないか……何が間違ってるんだ!」


 この先に待ち受ける未来を知る俺が、愚鈍な女に教えてやっただけ。なぜ龍一は俺を否定する。


「その合理性の中に、キョウの感情が入ってたぞ。それは理にかなってない……っと今は討論してる場合じゃねぇや」


 龍一が膝をついた女に手を差し出した。


「しゃーねぇ! 帰りたいって言うまで遊び倒してやるぜ!」


「す、すみません……」


「よし! じゃあ先ずはブティックで服を見るか」


 俺の空腹の虫を余所に、勝手に話を進める二人を徐々に冷えていく体を擦りながら、見守っていた。

 手足は既に痛みでまともに動かない。


 冷えきった空に浮かぶ黒雲が太陽を遮り。

 経年して鈍い光を発する街灯が点き、いつの間にか沈んだ太陽。空の光を失った地上には、人工の色を写し始めた。


 ×××


 龍一が歓楽街のてきとうなアパレルショップに入り、女の服を身繕い、破けたワイシャツを捨てて新しい洋服に着替えさせた。


「流石に下着まで買う勇気が無かった……」


「上等だろ。なっ女」


 暗く沈んだ顔を隠すように、マフラーとクリーム色のコート、下には白のワンピースと、コートに合わせたブーツ、地味に高くつきそうなコーデにも相変わらず俯いた女がぼそっと呟いた。


「ゆかな……」


「は? なんだ?」


 聞こえづらい声に苛立ち気味に聞き返すと、龍一が肘で小突いてきた。


「“女”はねぇだろキョウ。幸奏ゆかなって呼んでやれよ」


「俺は……お前に付き合ってやってるんだ! これ以上関わる気もなければ譲歩するつもりもない!」


 弱い女を見てるとつい苛立ちを覚えてしまう。

 悪癖が存分に出たところで龍一は苦笑し、女は何を思ったのか俺に近寄っては、上着の袖を摘まんだまま何も言わなくなった。


「ひねてるね~~楽しくねぇぞ~」


 俺の上着の袖を持つ女を見下ろしながら、龍一の言っていた名前を思い出す。


「…………たしか、栫井かこい? だっけか?」


「は、はい!」


 相変わらず光のない目を開き、俺を見上げる姿に少し胸がざわついた。


 無理矢理、栫井かこいから視線を外し、龍一を見ると何かに気付いたようにワイシャツの裾をだす。


「ん? ……あぁなんか変だと思ったぜ」


 防護のために腹に巻いていたグラビア雑誌は、汗と雨に濡れてぐちゃぐちゃになっていた。


「あぁ~やっべぇな、これをアイツに渡したら……いや! アリだな! ハハハ」


 雑誌を持つために開いた左手から赤い血液が滴る。龍一は痛がりもせずに掌をじっと見ていた。


 俺も釣られて龍一の覗く掌をみるとナイフの刃で一文字にぱっくりと割れて、扇状に中指と薬指の間を這う傷と、切っ先が当たって、赤黒い点の血溜まりが形成されている。


「くひっ! エクスクラメーションマーク作ってるよ!」


「笑い事じゃねぇよ! いてぇんだよ!」


 龍一の言葉のわりに、掌をこちらに見せて眉一つ変わらない。


「痛がってねえじゃん」


「今はマシなんだよ。合谷ごうこくってのは、一時的にβエンドルフィンの分泌を促して、痛みを抑えるツボだからな」


 先程、ナイフを掴む前に“おまじない”をしていたのはしっかりとした意味があったらしい。


 今ツボを押さないのは血行を良くすると、出血を促進し、体内のエネルギーを消費して、体温を下げる可能性があるからだろうか?

 化学的に言えば、熱化学に基づく吸熱、発熱反応を起こりにくくするためだろう。


「取り敢えず化膿しないように傷口を消毒して、その上からガーゼでも当ててろよ。過酸化水素オキシドールなら持ってるから」


 袖を掴んでいた栫井の手を振り払い、鞄の中から消毒用のオキシドールを取りだし、龍一に手渡す。


「あぁ? オキシドールって脱色するやつだろ?」


 龍一が蓋を外し、中の液体を見つめながら呟いた言葉に驚いた。


 オキシドールで髪の脱色が出来るのは知っていたが、今時の若者がそれを知っているとは……


「髪の毛と皮膚を痛めるぞ。止めとけ」


 ふーんっと、生返事をした龍一が傷口にドバドバとオキシドールをかける。


「ん! ぐぉぉおおお!! いでぇ! いってぇ!」


 オキシドールを床に溢し、左手を掲げながら悶える龍一の左手の患部から、無数の気泡が現れては破裂する。


「ひひひっ、大袈裟なんだよ……」


「あの……」


 大袈裟に、全身を使って痛みを表現する龍一を前に笑い声が漏れる。


 すると俺の上着の袖を引いて、弱々しく声を掛けてきた栫井に向くと心配そうに呟いた。


「オキシドールは傷口の細胞ごと、殺菌するんじゃ……」


「えーっとまぁ、なんパーセントでも過酸化水素が含まれてるしな……化学的に言えば、治りが遅くなる可能性がある」


 冷静に分析していると、龍一が涙を溜めた目を向けて、俺の胸ぐらを掴み吠えた。


「キョウ! ふざけんなよ!!」


「い、いや、だって今はオキシドールしか持ってねぇんだよ。エタノール消毒液より安いし」


 そうとう痛いらしく、殴られても刺されても泣かない男が消毒で泣いてる。


 しゅわしゅわと気泡が潰れる音を聞き、白息を吐きながら痛みを徐々に抑えていき、ようやく痛みがマシになったようだ。


「こ、これは……くぅ……初めてお前をぶん殴りたいと思ったぜ」


 冗談半分なのか真剣なのか、俺を睨み付ける龍一にこちらも初めて気圧された。


「……さっさと行こうぜ、だいぶ日が落ちてきて寒い」


「そ、そうですね」


 雨宿りを終えて栫井は傘をさし、俺は今さらだが栫井の傘に入り、龍一も痛みを抑えながら傘を差し。三人で羽咋の歓楽街、中心地となる銀天街通りを目指した。

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