第9話 俺の敵

 シュガーはミントの言葉を信じ、病院の上階に向かって駆け上がろうとしていた。しかし、階段に足を掛けようとしたその時、廊下の端に見覚えがある男が床に横たわっていることに気付いた。


 少し細目ではあるが筋肉質な身体。旅路の日光に焼けたのか、その肌は浅黒い。どこか厳格な雰囲気はあるが、それが彼を真面目な人間であると決定付けている。

 忘れるはずもない。なにせ、その行商人の男は昨日に会ったばかりなのだから。


「おや、ドラムさんではありませんか」


 怪我人に掛ける言葉とは思えないその声色に、ドラムは目を開いて声の主を見る。そしてシュガーの顔を見て、目を見開いて驚くも、すぐに痛みで顔を顰めた。

 その反応を見て、シュガーはドラムの具合を確かめる。上半身に巻かれた包帯には、ちょうどわき腹の部分に赤い染みが出来ている。それ以外にも擦過傷や打ち身といった傷が全身に見え、何よりも疲労困憊といった状態だ。

 幸運なことにどれも死に至るような傷ではない。シュガーはそれを確かめると、「うん」と頷いてから言う。


「お見舞いは後で来ます。今は急いでますので」


 ドラムと病院で会うとは思っていなかったが、シュガーの現在の最優先事項はソディアの探索だ。ミントから頼まれた任務を速やかに遂行しなくてはならない。最悪、再びソディアが狂気に堕ちている可能性もあるために、今は時間がない。


 ドラムに背を向けて階段に向かおうとしたところで、背後から「待て」とか細い声が聞こえてきた。待て、と言われれば止まるしかないシュガーは、その言葉に振り返る。すると、ドラムは弱った身体に鞭を打ちつつ、再び絞り出した声で言う。


「……今すぐ、逃げるんだ」

「逃げる?」

「あいつらが来る……。噂は、本当だった――!」


 ドラムの表情は真剣であり、決してそれが冗談や嘘ではないことがわかる。彼が言う噂とは、例の巨大な化物の目撃情報のことだろう。それが本当だということは、ドラムはその化物を目撃した――いや、襲われたであろうことは、彼の身体の傷をみればわかる。


「……なるほど。皆さんが怪我をしたのはそういう理由だったんですね」

「あ、ああ……。街を出て、しばらくしてから……あの化物たちが群れで襲って来た。荷物も置いて必死に逃げてきたが……見た目以上にあいつらは俊敏だった」

「群れ……というと、何体ほど?」

「さあ、な。数えていないから、わからん。ただ、三十はいたかもしれないな」


 三十。

 シュガーは待合室や廊下に寝転がっている怪我人たちを見回す。その数を概算すれば、恐らくは五十人はいるだろう。勿論、ここはドラムのように比較的軽傷な怪我人たちが放置されている場所であり、重傷者を合わせればその数は七十人ほどに達するのではないだろうか。加えて、考えたくはないが、その場で無残にも殺された者もいるだろう。それが何人かは不明だが、シュガーの頭の中では行商人たちは百人いたと仮定していた。


 百対三十。

 圧倒的な人数差を覆すほどに、凶暴かつ強敵。


「なるほど。中々に手強い相手のようです」

「何を言って――。ま、間違っても、戦おうとするんじゃないぞ。あいつらは、俺たちの馬の首の骨を、一発の拳で砕きやがった。何人かの仕事仲間が応戦したが、まるで人形の頭を千切るかのように簡単に……人間が敵う相手じゃない」

「……わかりました。ご忠告、感謝します」


 シュガーの微笑みで張っていた気が緩んだのか、ドラムはそのまま眠るように気を失った。それがあまりにも突然であるためにシュガーも驚くが、安定した呼吸音が聞こえてくるために慌てるほどではないか、と息を吐く。


 さて、どうしたものか。と、シュガーらしくはないが行動指針を考える。

 現在の優先事項は変わらずソディアの探索だ。しかし、ドラムの話によれば行商人たちを襲った例の化物たちはフォーリスに向かって来ているらしい。フォーリスの街は見上げるほどの壁で囲まれてはいるため守りは堅いと考えられるが、肝心の戦士がいない。ならば、ドラムの忠告通り両親を連れて避難した方が良いのかもしれない。


 結局、シュガーの頭では考えはまとまらなかった。面倒くさくなってきた彼女は、とにかくソディアを見つけてから考えようと、再び階段へと身を翻したところで、焦った表情でミントが走ってきたのが見えた。


「お姉ちゃん? どうしたんです? 調査するのでは?」

「シュガー! もうソディアは病院の外に出てた! 追いかける!」


 ミントの単刀直入な報告に、シュガーは走ってくる姉を再び抱えて走り出した。ミントはそこが定位置だ言わんばかりに堂々と腕を組んでいる。廊下を走ると、再び怪我人に溢れている待合室へとたどり着く。その惨憺たる光景を横目に、シュガーはドラムから聞いた話をミントへと伝える。


「どうやら行商人さんたちの傷は、昨日話した化物の怪我らしいですよ。やっぱりいたんですね」

「昨日話したって……あの噂話のか!」


 シュガーが得意満面の笑みで持ってきた噂話を話半分で聞いていたミントは、眉を擦りながらその話を思い出す。ミント個人が直接聞いた話ではないために半信半疑だが、行商人たちの怪我の深さを見れば頷ける話だ。


「なんだよ、それ。ソディアのことでも大変なのに、そんな奴らがフォーリスに迫って来ているとか……もうお姉ちゃん、考えたくない」

「それは困ります。私は考えるのが苦手なので、頑張ってください」


 病院を抜け、二人はソディアの後姿を探す。しかし、ミントがシュガーを探しに行った時間差は大きく、彼女らしき姿はどこにもない。一刻も早くソディアを探し出し、街に迫りくる化物の群れから避難しなくてはならない。しなくてはならないことははっきりしているというのに、その手掛かりが二人の手中にはなかった。


「考えろ……考えろ……」


 ミントは焦る心を抑え込み、ゆっくりと深呼吸しながら思考を沈めていく。それはまるで、自分の脳内へと潜っていくかのような感覚だ。今までのソディアの言動と自分が調査した神話の記録、そして魔物たちの出現というヒントを線で結んでいく。これらは無関係じゃない。すべて、繋がっているはずだ。でなければ、タイミングが最悪すぎる。


 タイミング――?

 そう、タイミングが、絶妙だ。

 ソディアの異変と魔物たちの強襲。まるで、窮地と危機を混ざ合わせたかのようなこの状況は、出来過ぎている気がしてならない。誰かに仕組まれたかのようなシチュエーションだ。考えすぎかもしれないが、すでにミントの常識では説明できない事態が起きているのだ。ならば、その常識を捨てない限り、置いてかれるのは自分の方だろう。


 あの背中に、追いつけなくなる。

 それは死んでもごめんだ。


「……シュガー。多分だけど、ソディアは街の外に向かったんだと思う」

「つまり、魔物たちに向かって行ったと……? 何のために?」

「わからない。でも、ソディアは言っていたんだ。待ち人に会いに行くって……。何のことかさっぱりだけど、現在の状況的には待ち人は魔物以外に思いつかない」


 シュガーはミントの話を聞き、遠くに見える外壁を睨む。

 あの先は、自分の想像がつかない残酷な世界が待っているのかもしれない。しかし、そこに大好きな幼馴染がいるならば、そこに足を踏み入れることに躊躇はない。シュガーはミントを見れば、自分と同じように覚悟を決めた顔をしていた。昨日までジャンジーたちに脅されていた姿が嘘のような凛々しさだ。


「シュガー。走りながら街の人たちに危機を呼びかけよう。最悪の事態を考えて人的被害を抑えるんだ」

「了解です。お姉ちゃん」


 姉の言葉に妹が頷き、そして二人は走り出した。


◆ ◆ ◆


 自分が今、なんでこんなところにいるかさえも、ソディアにはわかっていない。

 ジャンジーに会いに行こうと決意したところまでは思考が明瞭だった。しかし、その刹那、自分の足元から何かが這い出て、それが心の中へと滑り込んでいく感覚に襲われる。黒く、重く、鈍く、澱んだ液体が、心臓に染み込んでいくようだった。


 走りだそうとしたときには、すでにソディアの思考は黒く染まっていた。

 そして、誰だかはわからない何かに、無性に会いたくてしかたがなかった。怒りだとか、憎しみだとか、そんな黒い感情ではなく、恋人に会いたいと願うような純粋な気持ちが、ソディアを突き動かしていた。


 故に、ジャンジーと会った時には千年の恋が冷めたような感覚だった。

 待ち人が彼女かと思い、心をときめかせていたのだが、残念ながら間違いだった。その腹いせにジャンジーを半殺しにしようかとも思ったが、病院の床にへたり込み、情けなく失禁するその姿を見ては拳も引っ込む。何よりも、こんな小物に構っている余裕などない。


 ソディアは再び待ち人を探して院内を歩く。

 ジャンジーに会うことで頭がいっぱいだったが、気付けばやけに院内が騒がしい。見れば、痛々しい怪我を負った男たちが次々に運ばれていた。中にはまだ応急処置が施されていない、その傷口が晒されたままの男もおり、ソディアはその傷にくぎ付けになる。


 頭が、ずきりと痛む。

 そして思い出す。


 ああ、知っている。

 私は、この傷を、知っている。

 この傷痕を見たことがある。


 確信した。この傷を追えば良い。

 転がる弱者たちの先に、その骸の先に、自分の会いたいそれがいる。会いたくて、会いたくてたまらない、何かが待っている。


 ソディアは意気揚々と歩き始める。

 途中でミントとすれ違うが、なぜか彼女は自分に怯えていたようにも見えた。先を急いでいるために最低限の会話で別れたが、なぜか彼女のその顔が脳裏に焼き付いて離れない。なぜあんな顔をしていたのか、わからない。


 外壁近くまで歩けば、その壁の外側から人々の叫声が聞こえてくる。痛々しい呻き声や懐かしい断末魔が、ソディアの心を震わせる。心臓の拍動が速まり、眼孔の奥が掴まれたかのような圧迫される。


 強固な鉄扉を震わせる衝撃が、門前広場に響く。

 十人ほどの衛兵たちが各々に武器を構えて、その脅威に立ち向かおうとしているが、腰が引けて身体は震えている。当たり前だろう。この時代に、魔物など存在していなかったのだから。そして彼らは獣や野盗との戦闘経験も少なく、これが初めての実践といってもいい。


 次第に扉を叩く音は増え、鉄扉に凹凸が生じる。そればかりか、強固な外壁そのものにヒビが走り、限界は近いだろう。いつの間にか、外壁からの叫声も聞こえなくなり、無情な衝撃音が門前広場で木霊していた。


 誰もが絶望する最中、興奮した様子の一人の少女が前へ出る。瞳を爛々と輝かせ、舌なめずりをするその姿は、暴虐的でありながらもどこか頼もしい。その不思議な少女に衛兵の一人が声を掛けるが、全く聞こえていないようだった。少女は――ソディアは、広場の中央で腕を組み、悠然と立つ。


 敵前逃亡したと思われる衛兵が置いていった片手剣ショートソードを拾い上げ、ソディアはそれを右手に持つ。あの日の箒よりもはるかに重く、故に感覚に馴染む。しかし、まだ理想より軽い。これよりも大きい武器はないかとあたりを見るが、その前に時間が尽きてしまった。


 外壁のヒビが壁一面に走り、すでに鉄扉は原型がない。歪みにより生じたその隙間から、魔物たちの眼光が見え隠れする。そして、最後の一撃だと言わんばかりのひときわ強い衝撃が鉄扉に走り、まるで紙屑のように吹き飛ばされた。


 鉄扉が門前広場を転がり、石畳を抉っていく。地響きを立ててその動きを止めたときには、すでに魔物たちが我先にと、開け離れた扉から街へと踏み入れていた。その背後には、すでに息絶えた数十人の衛兵の肢体が転がり、無残にも捕食されている。


 信じられぬ光景に、衛兵たちは息を呑む。

 この説明ができない生き物は何なのだ、と声を荒げて叫びたい気持ちを必死に堪えていた。


 百獣の王たる獅子の頭が咆哮し、鋭い牙とその爪は赤く染まっている。山羊の屈強な胴体とその二本の蹄が石畳をいとも簡単に割り砕く。直立した魔物の背後からは蛇の頭をした尾が俊敏に動き、シュロロと喉を鳴らして人間たちを睨む。その大きさはソディアの約二倍ほどあり、彼女の細身の身体が案山子のようにも見えてくる。


 三種の獣が一体となった古代の魔物、その名はキマイラ。

 その一体が、ソディアに迫っていた。鉄扉を破壊したい勢いのまま、山羊の蹄で猛進し、獅子の爪をソディアめがけて振り下ろした。


 その光景を見た誰もが、少女の最期を脳裏に浮かべた。キマイラの獅子の爪によりその身体を切り裂かれ、少女の鮮血が門前広場を染めるのだろうと。


「会いたかった」


 キマイラに人間の言葉は通じるのだろうか。いや、そんなことは関係ない。伝わるか伝わらないかは些細な問題で、つまりはどうでもいい。しかし、抑えきれないその感情の奔流に、ソディアは自分の胸の内を明かす。


「あなたを見てわかった。私は、あなたに会いたかった」


 振り下ろされる獅子の爪を、ソディアは一歩後退することで躱す。勢いづいたその爪は、獲物を捉えなられなかったことにより空を切り、一瞬の静止が訪れる。風に揺れた前髪の数本だけが暴風のような爪に巻き込まれ、宙へと舞っている。それと同時に、ソディアの体躯もキマイラの腕を踏み台にして跳んでいた。


「あなたを待っていた。ずっと、あなたのような存在を待っていた」


 軽やかに宙へと飛び出したソディアは、その勢いと供に上段に剣を構える。そして、短く息を吐き、剣の自重に振り回されるようにして獅子の顔面を切り裂いた。

 キマイラはその鋭い痛みにたじろぎ、獅子の喉奥から唸り声が聞こえる。それは、百獣の王としてはあまりにも威厳が感じられない呻き声にも聞こえた。キマイラは、自分に怪我を負わせた矮小な存在を葬ろうと、再び爪を振り上げるが、それはすでに遅かった。


 ソディアは地面に着地すると同時に、その小さな身を屈ませ、バネのように力を貯める。剣先は真っすぐにキマイラの心の臓を狙いすまし、その姿は放たれる前の弓矢のようだ。そして、彼女の表情は、頬が赤く染まり、嬉々として破顔している。凄惨な笑みを浮かべ、大声で叫んだ。


「私は――の敵をずっと待っていたっ!!」


 そして、一直線に、突進する。

 キマイラがその凶爪を振り下ろすよりも前に、ソディアという弓矢は魔物の皮膚を破り、肉を切り裂き、骨を断ち、心臓を貫いていた。ソディアが体内に刺されたままの剣を捩じれば、獅子の顎から血が溢れ出し、少女の体躯を赤く染めていく。すでに蛇はその動きを止めており、ぐったりと石畳に転がっている。ふたつの頭を持つが、その心臓はひとつ。魔物といえど、生物であることに変わりはないのだ。


 ソディアはキマイラの心臓を食い破った剣から手を離し、静かに離れる。それを見計らうかのように、生命活動を止めたキマイラは冷たい石畳へとその巨体を倒した。僅かに地面を揺らし、その後はぴくりとも動かない。そして、その死体の横には、血にまみれた一人の少女が悠然と立っている。


 百人の行商人たちを撤退させ、数十人の衛兵を惨殺した魔物の一体が、一人の少女により倒された。

 その奇跡のような光景に、衛兵たちは歓声を挙げる。

 その屈辱的な光景に、魔物たちは咆哮を挙げる。


 その中心にいるソディアは、静かに笑っていた。


 こうして、門前広場の戦いは幕を開けた。

 そしてそれは、ソディアの物語の始まりを意味していた。 

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