第1章 獅子は空腹に吼える 4


 マルロスの軽食堂を出たところまで話して、俺は口をつぐんだ。

 アマリアは、一言も聞き逃すまいとするように、明るい茶色の瞳を好奇心に輝かせながら、黙って話を聞いている。


 軽食堂を出た後、マルロスとミュルテイアの身に起こった出来事を、俺は正確には知らない。全て、捕まった後、警備兵から聞いた話だ。


 説明を終えた俺は視線を落とした。

 テーブルの上には、話の途中で奴隷が持ってきた器が載っている。器の中身は、空っぽだ。入っていた白パンとチーズは、既に俺の腹の中に納まっている。アマリアが持ってこさせた白パンは、今まで俺が食べた経験のない、上等なパンだった。「花粉」と呼ばれる細挽粉で焼かれたパンだろう。俺が普段食べる大麦のパンとは、大違いだ。


 思えば、軽食堂の中二階で、パンをかじりながらミュルテイアと話したのが、最後の会話だった。

 マルロスの軽食堂を出た後、俺は、軽食堂から近い集合住宅インスラの自分の部屋へ帰った。


 警備兵達が、部屋へ突然、踏み込んできたのは、部屋に帰ってしばらくしてからだ。

 訳がわからぬまま、警備兵の詰所へ連行され、そこで、マルロスとミュルテイアが何者かに殺されたと、初めて知った。


 警備兵達は、最初から、俺を犯人と決めつけていた。俺が、金を盗むために、ミュルテイアとマルロスを殺したのだ、と。

 どんなに抗弁しても、無駄だった。まるで、ギリシア神話のカリュブディスの渦潮(『オデュッセウス』に登場する渦潮を擬人化した怪物)に巻き込まれた船のように、俺は殺人犯の汚名を着せられて投獄され、死刑を宣告され、為す術もなく、奈落へ引きずり込まれようとしていた。


 ついさっき、闘技場から逃げ出して、アマリアに会うまでは。


 アマリアは、黙り込んだ俺を、静かに見つめていた。優雅にミントティーを器を傾けているが、明るい茶色の瞳は、一時たりとも、俺から逸れない。まるで、心の奥底まで、見通そうとするかのようだ。


 心の中で揺れ動く迷いを見透かされた気がして、居心地が悪くなる。だが、俺から視線を逸らすのはしゃくだ。俺は、躊躇ためらいを振り切り、真っ直ぐにアマリアを見つめ返した。

 これまで、誰にもできなかった問いを、口にする。


「一つだけ、聞かせてくれ。本当に、マルロスとミュルテイアは、死んだんだな?」


 マルロスとミュルテイアを殺した罪で捕えられ、死刑を宣告されてもなお、俺は、二人が死んだ事態を、信じきれないでいた。二人の遺体を目にしたわけでもなければ、葬儀に出たわけでもない。墓の場所だって知らない。


 今でもマルロスの軽食堂にさえ行けば、ミュルテイアに会える気がしていた。


「マルロスとミュルテイアは、死んだわ」


 一片の躊躇ちゅうちょすら見せず、厳しいほどきっぱりと、アマリアが告げる。


「そうか」

 俺は目を閉じた。アマリアの簡潔な言葉は、不思議なほど、すとんと、俺の心に落ち着いた。ごく自然に、二人の死を受け止める。


 親父も、おふくろも、とうの昔に亡くした。残された者がどんなに嘆こうと、死者は決して生き返らないと、俺は既に知っている。生者は、ただ、自分の心の中の空白を、自分なりの方法で埋めることしか、できない。


「あなたは、これから先、どうするつもりなの?」

 俺が落ち着いたと見てとったアマリアが問いかける。俺は迷わず即答した。


「勿論、本当の犯人を捕まえるさ」


 死刑寸前で逃げ出した俺は、レプティス・マグナ中のお尋ね者だ。真犯人を見つけなくては、一生、どこまででも追われ続ける羽目になる。冥府のミュルテイアとマルロスだって、自分達を殺した男が、罪を免れてのうのうと生きていたら、不満だろう。


「あなたは、ミュルテイアの最後の客だった男が、犯人だと考えているの?」

 アマリアの言葉に、俺は頷いた。

「ああ。警備兵から聞いた話では、ミュルテイアが盗んだ革袋と、一階にあったその日の売上金が盗られたそうだ」

 ミュルテイアが盗んだ革袋には、何十枚ものデナリウス銀貨が入っていた。あの革袋だけでも、かなりの金額になっただろう。


「マルロスが寝台の下に隠していた手箱の金は盗まれていなかった。鍵は、マルロスの首に掛かったままだったらしい。ミュルテイアが銀貨の詰まった革袋を持っていた事実を知っている奴は、元の持ち主の男と、俺だけだ。だが、俺は犯人じゃない。となれば、残る人物は、革袋の男だけだ」


 一息で説明した俺は、ふと、疑問を覚えた。

 俺は、金を盗むために、ミュルテイア達を殺したと警備兵に疑われ、捕えられた。

 だが、警備兵達も、革袋の銀貨の件は知らなかったはずだ。ミュルテイアが殺された中二階の部屋には、革袋はなかったのだから。

 売上金を盗むという動機だけなら、容疑者はごまんといる。それこそ、事件の日に軽食堂にいた客の全員が疑わしい。


 しかし、俺を捕え、尋問した警備兵達は、最初から俺を疑っていた。


「目撃者がいるのよ。軽食堂から逃げる北方系の容貌の男を見た人が。その人がマルロスとミュルテイアの遺体を発見したそうよ」

 俺の考えを読んだかのように、アマリアが告げる。


 ローマの属州に組み込まれて三百年以上が経つとはいえ、やはり、町に一番多い人種は、黒い肌に黒い髪のアフリカ人だ。明るい髪の北方系は目立つ。マルロスの軽食堂に日常的に出入りしていた北方系の男といえば、殺されたマルロスを除けば、俺だけだ。


「くそっ、俺は、革袋の男と間違われたってことか」

 革袋の男も、俺と同じ北方系だ。俺は腹立たしさに拳を握り締める。


 俺の普段の生活を知っているわけでもなかろうが、アマリアがからかうように笑いながら、言い放つ。

「日頃の行いが悪かったせいじゃない?」

「間違いで、ライオンに食われそうになってたまるか!」

 俺は、憤然と言い返した。


 だが、アマリアの言葉にも一理ある。ライオンの餌になるほどの悪事は働いちゃいないが、誰はばかることなく、胸を張って堂々と日々の生活を語れるほど、立派な生き方をしているわけじゃない。生き延びるために、危ない橋だって何度も渡ってきた。

 後悔はしていないが、人に褒められるような人生じゃないと、自覚はしている。


「あなたが逃げてくれてよかったわ。あなたを助けて、正解だったみたいね」

 アマリアは、俺の剣幕に動じず、笑みを深くする。


「話を聞いて、もう一つ謎が増えたけれど」


「謎? なんだ、謎ってのは?」

 アマリアの言葉の意味がわからず、聞き返した。すると、アマリアは馬鹿にしたように俺を見た。


「あなた、気づかなかったの? あなたがした話なのに。あなた、革袋の男の件は、警備兵達に話したの?」

「ああ。話したが、全く信じてもらえなかった」

 忌々しい記憶を思い出して、声が苦くなる。


「それは当然ね」

 一片の同情も見せずに、アマリアが頷く。

「革袋の男が犯人だとしたら、に落ちない点があるわ」

 俺の目を見据えて、アマリアが説明する。


「あなたの話が本当なら、銀貨が入った革袋は、元々、男の物だったのでしょう? 取り戻したいのなら、盗まれたと警備兵に訴えればいいわ。わざわざ人を二人も殺す必要なんて、ないはずよ」


「銀貨を取り返しに戻った時に、ミュルテイアと言い争いになった可能性だってあるぜ」

 思いつきを言い返しながら、俺は、胸の中にちりちりと違和感が湧き上がってくる感覚を味わっていた。


 男達のあしらいが上手かったミュルテイアだ。どんなに不機嫌な客でも、ミュルテイアに掛かれば、最後には、酔っ払って、いい気分で笑っていた。それに、金は大事だが、命あっての物種だ。ミュルテイアはそんな真実もわからないような女じゃなかった。


 胸の中で渦巻く違和感の正体を突き止めようと、俺は視線を落として、深呼吸した。無意識に、自分の右手を見つめる。


 ごつごつして、荒れた手だ。爪の間には、洗っても落ちない汚れがこびりついている。アマリアの絹のようにすべすべした手とは違う。貧乏人の手だ。


「……革袋の男に、警備兵に訴え出られない理由があったとしたら、どうだ?」


 俺は、心に思い浮かんだ言葉を、そのまま口にした。

「どういう意味?」

 アマリアが問いかけるように片眉を上げる。


「確かめたいことがある。俺の集合住宅インスラへ行く」

 アマリアの返事も待たずに、椅子から立ち上がる。


 俺が警備兵に捕われてから、すでに一カ月以上が過ぎている。大家は、俺の荷物を勝手に処分して、新しい借家人を入れているだろう。家賃収入が当てにできなくなった部屋を、大家がそのまま放っているとは思えない。


 町には、まだ警備兵が大勢うろついているだろう。俺の部屋が見張られている可能性もある。こんな状況で、インスラへ行くなんて、みすみす、また捕まりに行くようなものだ。自分でも馬鹿だと思う。


 だが、一度でも疑念が湧いた以上、放っておくわけにはいかない。ミュルテイアが殺された本当の理由を知るためにも。

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