王子様の膝下

 燕心えんしんが貸してもらったのは、一戸建て二階の一室だった。

 男二人、女一人でシェアハウスしているといった風情なのだが、違和感のある家だった。

 最初は、ただ違和感があるというだけだったのだが、夕飯の時になって、徐々に違和感の源が分かってきた。生活感が無いのだ。

 この家には、三人が住んでいるのに『私物』が存在しない。

 無地で同じ色の皿、無地で同じ色の傘、無地で同じ色のクッション。

 よくよく見れば、男と女が暮らしているというのに、女物のシャンプーのような、専用品も見当たらない。無地シリーズと同じような、色気のない化粧水が置いてあるぐらいだ。

 食事中にも、ポツポツ世間話のようなものをしていたが、今にして思えば、定型文を投げ合うような会話をしていた気がする。

 辛うじて個性が存在するのは、顔と服ぐらいのものだ。

 まるで、住人まで含めて用意されたモデルハウスだ。

 正直、薄気味悪く感じたが、それでも家よりは、はるかにマシだ。家とは、こうもくつろげる場所だったのか。

 その夜、燕心は熟睡とはどういうものだったかを、思い出したような気がした。


 燕心は、やや日が高くなってから、のろのろと目を覚ました。

 よく眠ったのに、体が重い。このまま眠り続けていれば、ここを去る時をやり過ごして、ずっとここにいられるのではないか、そんな考えが居座っているせいだ。

 それを押しやって起き上がる。学校に欠席の連絡を入れるのだ。

 そこで、一階から何か笑い声が聞こえるのに気付いた。

 見に行ってみると、あの少年(名護一なごいちという名前らしい)が、この家の住人の男女二人と、カードで遊んでいた。もう一人の男は見当たらない。

 燕心に気付いて、名護一が振り返った。


「おう、おはよう。具合はどうだ?」


「ここに置いてもらったおかげで、良い感じだよ。本当に、ありがとう」

 なんでもないように答えはしたが、燕心は内心面食らっていた。彼は学校に行っていて、会うとしても今日の夕方以降だろうと思っていた。

「えーっと、学校は、休みなのか?」


「いや、俺はそもそも行ってない」

 何でもない事のように言って、カード遊びを続行する。


「行ってない?」


「行ってない。俺が知りたいことは、今のところインターネットと電話で足りてるからな。行ったところで、授業料の無駄ってもんだ。燕心は、学校に何を勉強しに行ってるんだ?」


 言われて燕心は衝撃を受けた。

 そうとも、名護一に学校の何が必要だろうか? 学校に行かずとも、彼には電脳水産会がある。自分の腕を振るう場があり、仮にここから飛び出して行ったとしても、彼は電脳水産会に居場所を見つけたように、他の場でも生きる道を見つけ出すのだろう。

 一方自分はどうだ? 何をするつもりで学校に行っている?


「人生の選択肢を、広げに……」

 つい他人の受け売りを口にしてしまった。


「人生の選択肢かぁ。大学とか出てないと取れない資格があるっていうもんな。そういうの目指してるのか?」


 嘲るでも責めるでもなく、名護一が問う。

 燕心はうろたえた。目指す先など、考えていない。言葉が繋がらない。

 燕心は怯えた。自分の中の虚無を、無力の原因を見つけてしまった。燕心の人生は、ただ無目的に、ひたすら一本の道を引いているだけだった。

 強いカードが手元に無いのも道理だ。燕心の人生には、カードの前に、理念が無かったのだ。

 燕心自身がカードだったとも言える。使い道を考えるのは、燕心ではなく、燕心を手に持っているプレイヤーというわけだ。これまで、それは家であり、学校だった。

 今、一時的にプレイヤーの手元を離れて、燕心は、名護一という、これまで会ったことが無いタイプのプレイヤーに出会い、自分がプレイヤーではなく、カードだったことに気付いた。

 本当に、家で八つ当たりの的になっているのが似合いな程度の存在だったのだ。


「どうかした?」


「あ、ああ、なんでもない。ちょっと、説明が難しくて、なんて言ったら良いのかなって」

 反射的にごまかしてしまって、内心舌打ちした。


「説明が難しいのか。壮大な夢なんだなぁ」


 名護一は燕心の腹を探らない。燕心が一枚のくだらないカードだと知ったところで、侮辱するような人間でもないだろう。

 素直に打ち明けるべきだったものを、ごまかしてしまったのは、単純に見栄だ。いや、それすらも、見栄かもしれない。自分を恥じて、その恥を晒すことに恐怖したのだ。どこまで自分は卑しいのだろう。

 たっぷり間が開いてしまった。


「ごめん」


 唐突にそう言った燕心を、名護一は、きょとんとして見た。


「全部、嘘だ。俺は、何の目的も無い。ただ、行ってるだけだ。授業料の無駄、まさにそれだよ」

 声が震えた。


「おい、急にどうした。大丈夫か」


 名護一だけでなく、二人の男女も燕心を心配そうに見る。

 顔がひきつった。

「大丈夫」

 大丈夫そうな声ではなかった。

「ここで見栄を張ったりしたら、結局、元に戻るだけだ。俺は、俺は変えたいんだ!」

 声が大きくなった。

「行く場所も! 帰る場所も!」

 声を大きくしなければ、言い切れなかった。


「オーケー、とりあえず一旦落ち着こう、な? 一旦座ろう」


 まだ何か、言葉としてまとまらない感情が渦巻いていたが、結局言葉にならず、燕心は名護一に勧められた椅子に座った。

 名護一も言葉を探っていたが、探り当てるのは燕心よりも早かった。


「あー……燕心。何の目的も無いって言ってたけど、本当に、何にも無いのか? 例えば、その人のためなら、なんだってやってやれるって人とか」


 燕心は首を振った。そんなものがいれば、家出などしなかったかもしれない。それは、燕心をカードではなく、プレイヤーたらしめる存在だったかもしれない。

「名護一には、あるのか?」


「ああ、うん。この人達だよ」


 名護一が示したのは、マヌケな微笑みの男女だった。


「どういう関係なんだ?」


「育ての親ってところかな。パーティーの時、こんな感じの人、何人か見ただろ?」


 グリルを操作して、盛り付けをやっていた一団のことだろう。頷く。


「俺は、あの人達に育てられたんだ。なんていうか、妙な感じだけど、アレで頼りになるんだ。燕心も見ただろ? あちこちに連絡回してくれるところ」


 確かに、あっという間のことだった。そのように助けてくれる存在がいれば、どんなに心強いことだろう。


「恩返しっていうか、俺も何か助けになれたら良いなと思って、それで、とりあえず皆で良い物が食えるように、電脳水産会に参加したんだ。

 俺はそのためなら、どこでも行くし、長い論文だって読める」


 名護一の目の中に強い輝きを見て、燕心は逆に暗く沈み込む。

 燕心の情熱をそれほど燃やすようなものは、想像もできない。燕心が燃やせるものと言ったら、家族に対する憎悪ぐらいのものだ。

 名護一は、それを敏感に読み取ったようだった。


「燕心、余計なお世話かもしれないけど、俺はしばらく、家にも学校にも戻らない方が良いと思う。好きなだけ、ここにいれば良い」


 燕心は反射的に反論しようとした。しかし、今度は口を開きかけたところで踏みとどまった。

 反論しようとしたのは、カードとしての価値まで失うことを恐れた、卑しい自分だ。こいつの思うがままにさせていたら、燕心は永遠に、誰かの手に収まるのを待つ紙くずのままだ。

 この反抗は、かなりの苦痛を伴った。唇が震え、手足のしびれを感じるほどだ。それでも、燕心は押し切った。

「そうさせてもらえると、助かる。世話ばっかかけて、ごめん……っ」

 最後は涙声になってしまった。

 何がこれを言う力をくれたのかわからない。名護一のようなプレイヤーになることへの憧れか、カードとして無為に過ごした年月への憎悪か、いずれにせよ、わずかながら、胸に熱が宿ったように思えた。


「良いんだ燕心。俺たちが助けになる。俺たちが助けてもらったみたいにな」


 この時は、泣きじゃくってしまって、燕心は名護一の言葉をよく聞いていなかった。

 マヌケな微笑みの男女が、燕心の表情を観察していることにも、気付かなかった。

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