虹の彼方を目指す旅

 四苦HACKにかけた電話を切って、渡瀬川わたせがわは総責任者の椅子から、部屋に渡した物干しロープに目をやった。

 いつも洗濯物を干している場所が、少し前から備品の入れ替えや、塗装の補修作業でふさがっているために、臨時で渡したものだ。

 今の電話は、この、ほんの少しだけたるんだ物干しロープだ。

 渡瀬川は本物を生かして救うことを断念した。彼らは他人どころか、自分に対する人間愛まで喪失しており、人間に関与したいという意欲を持たないために、取り付く島がない。

 他人と共に歩んでいく気がなく、他人からのラブコールが響かない。存在するのは不愉快な自分だけ。その最後のマイナスをゼロにするため、彼らは自分の抹殺を試みる。

 取り付く島がない。だから、生かして救うことは諦めた。

 四苦HACKを運用しているのも、偽物の誕生を阻止すること、偽物が廃体.jpに辿り着く前に状態を改善することで、偽物の数をわずかでも減らし、業務の効率化を図ることが狙いだ。

 しかし、渡瀬川は本物を生かして救う道の模索をやめたわけではない。偽物にしか届かないとしても、いつか本物にも届く道が見つかるかもしれないと、希望を持ち続けている。

 渡瀬川の中で、諦めと希望という、矛盾するように見えるものが同居するようになったのは、物干しロープを見た時、電撃的なひらめきを得たのが始まりだ。


 渡瀬川の理想は、横一直線にピンと張られたロープだ。小さく、それほど本気というわけでもない、ささやかな望みなのだが、一度、空中に一直線でかかるロープを見てみたいと思っている。

 思っているが、ありえない。鉄の物干し竿でも、重力に負けてたわむ。一直線にしようとすれば、一直線になる前に、引っ張り強度の限界を超えて千切れてしまう。

 理想に届く道は存在しない。

 しかし、それでも、干した洗濯物が床に触れないように、ロープができるだけ横一直線に近づくように工夫する必要はあるのだ。

 より簡単に、よりしっかりと、より長時間、ロープの状態を維持するための工夫が。


 実に奇妙なことだが、理想には決して届かないのに、その理想を諦めてしまえば、そもそも機能しないようになってしまう。

 理想を目指し、改善を模索し続ける、無理のない長旅が、現実的な利益を生み出し続ける。

 そう、長旅だ。強引に理想を現実にすると、それはあまりにも繊細なガラス細工のように、美しいが、些細な衝撃でバラバラに砕け散ってしまう。

 改善の模索をやめれば、老朽化が背後から忍び寄ってくる。

 かといって、必死になりすぎれば、体力や路銀を使い果たして、旅を続けられなくなる。

 届かない理想へ向かって、可能な限り歩き続ける長旅、虹の彼方にある理想郷を目指す旅だ。

 理想が陳腐化するその時まで、理想の近似値であり続けるために、旅は続く。


 渡瀬川はペンと手帳を手に取った。廃体.jpの経営理念として、短くまとめて、どこかに飾っておこうと思った。

 後で、見栄えのする形にしよう。再生プログラム適用者の中から書道経験者を探して、再生プログラムの一環として作ってもらうのも悪くない。


 渡瀬川も久条ひさじょうも、いつ死んでも不思議はない人間だ。この組織も、いつどのように崩壊するかわからない。しかし、向こう十年は、この組織の社会的価値は健在だろう。

 後任のために情報を残しておいて悪いことはない。


 七割ほど書いたところで、ドアが開いた。

「よぉ、ふじっ!? おま、お前っ、どこに洗濯物干してんだよ」

 驚き半分、笑い半分の久条が入ってくる。


「いつもの場所がしばらくふさがっているので、一時的な措置ですよ」

 答えながら、渡瀬川は異常を感じ取った。久条が、何か違う。

 また何か改造したのだろう。しかし、どこだろうか。考えていると、久条はニィッと笑って、右足を鳴らした。ギチッという金属音。

 それでわかった。歩き方が変わっていたのだ。

「義足、ですか?」


「おう、俺専用の特注品だ。かぁーっこいいだろぉー? 電子部品無しでこんなに動かせるんだぁ」

 どういう仕掛けなのか、ガチャガチャと足首を動かしてみせる。


「いや、その前に、元々の右足はどうしたんですか。まさか、その義足に一目惚れして切り落としたんじゃないですよね」


 思い通りの称賛が無かったためか、渡瀬川の推測が的外れだったためか(恐らくその両方だ)、久条は顔をしかめて払いのけるように腕を振った。


「足の交換をしようとしたら、いつもの医者がいなくってよ。ヤブ医者を回されたんだ。膝から下がすげぇ色になってて、危うく叫ぶところだった」


 渡瀬川は開いた口がふさがらなくなり、脱力して椅子に体重を預けた。

「どうしてまた、使える足を交換しようなんてバカなことをしたんですか。サイバーパンク映画じゃないんですよ」


「そりゃあ……」

 久条は目をそらして髪に手を突っ込んだ。

「ほら、足は第二の心臓って言うだろ? 上の心臓は交換したから、次は下を交換してみよっかなー……ってな?」


「さらに足を交換しようとは思わなかったんですか?」


「俺もそうしようと思ったけど、いつもの医者の都合が……あぁあ! やめろやめろ! お前はよぉ、他には言わねぇようなことを、俺が相手になると言いやがる!」


 別に渡瀬川は何か悪意をもって特別な対応をしているわけではない。単に、久条ほどメチャクチャをやる人間が他にいないから、結果的に久条限定になるのだ。

 それが自分でわからない久条ではない。こういう時は変に言い返して火に油を注ぐより、一旦沈黙で水を差してやった方が、この怪物に対しては効果的だ。

 案の定、何か気付いた顔になると、久条は「うぅむ……」とうなって、強引な話題転換のために、机の上に広がっていた手帳をひったくった。


「虹の彼方を目指す旅……殺人業者にはもったいねぇ、オシャレな経営理念だねぇ」


「なかなか良いでしょう? もう少し噛み砕いて、額縁にでも入れて、そこの壁らへんに飾っておこうと思うんですよ」


「良いじゃねぇか。穏やかすぎて、俺にはちぃっと物足りねぇが……」

 と言いながら、視線が一瞬義足に行って、舌打ちした。

「このオシャレな経営理念は、いい薬になったぜ。じゃぁな」

 ふてくされたように肩を怒らせて背を丸め、久条はドアに向かった。


「ご用件は新しい足の自慢だけだったんですか?」


 ピタリと足が止まって、懐から封筒を出してくる。

「忘れるところだった。こいつに使えるやつを探してくれ」


 開けてみると、患者資料のコピー一式が入っていた。十六歳、男性、心臓の移植が必要。

「すぐ見つかるとは思いますが、どうして久条さんが持ってきたんです? 必要ならそのうち、注文が入るでしょう」


「俺からの注文だからだよ。よそからは入ってこねぇ。入院したはいいものの、入院費の支払いも怪しいような家の子だ」


 渡瀬川は首を傾げた。

「慈善事業ですか? 足の交換に失敗したことで精神的に参っていませんか?」


 久条は笑った。

「バカ言え、俺はこの足を気に入ってるんだ。こいつの威力はすげぇぞ、こいつをちぃっと自慢するだけで、みーんな目が輝く。信じられるか? おっさんの自慢話を、若い連中が喜んで聞いてくれるんだぞ」

 言ってから、久条は渋い顔になった。

「お前さんは例外だったが」


「そりゃあ、知らない人にとっては輝いて見えるでしょうけど」

 こっちは不必要な無鉄砲の報いだと知っているから――というのは手で遮られた。


「タダでくれてやろうってわけじゃねぇよ。俺の方も実験だ。若くして死に向けて完成した人生設計に、横槍を入れてぶっ壊してやったら、どんな経過をたどるのか、そもそもぶっ壊せるのか。どうだ? 虹の彼方への旅の経由地としては、悪くねぇと思うんだがな」


 似たような事例は既にいくつか見ている。とはいえ、死に向けて完成した人生設計というのは、渡瀬川の興味をひいた。

 これまでの事例では、そこまで意志が固まっていたようには思えなかった。

 それをひっくり返す実験は、本物に繋がる道に第一歩を刻むかもしれない。

「試してみましょう。まだ急を要する状態ではないですよね?」


 久条の視線が少し宙をさまよった。

「体は持つと思うんだが、母ちゃんの方が、ちっと参っててな……あんまり時間がかかると、その間に病院で無理心中なんてことにならねぇって保証はしかねる」


 渡瀬川は三日以内に探し出すことを約束した。

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