第九話 たとえば俺が死んだら

「……男性は同市に住む高校生『佐々木 雄一さん(十七歳)』で、佐々木さんは昨夜午前一時過ぎ、市内の繁華街で数人の男性と口論になり……」


 人は、喧騒の中でも自分の名前や関心のある言葉を聞き分けることができる。これは『カクテルパーティー効果』と呼ばれる。原理については諸説あり完全に解明されているわけではないが、雑音の中で意味のある音を聞き取れる左脳の能力によるものであるとか、注意による聴覚的選択、つまり心理学的要因によるものであるとも言われている。

 人混みで溢れ返った繁華街の雑踏と、車の音。それら雑音の中で俺は自分の名前を読み上げるアナウンサーの声を聞き分けた。スクランブル交差点を渡る途中で足を止め首を巡らせると、交差点の向こうのビルに設置された巨大スクリーンに、俺の顔が、男子高校生だった頃の顔が大きく映し出されていた。

 最近の写真がなかったのだろう、入学願書に貼ったものらしい真面目くさった学生服姿の俺が、繁華街を闊歩する人々を睥睨する。

 俺が……どうして?

 ニュースの内容までは聞き取れなかったが、俺の写真の横に『男子高校生。深夜の繁華街で集団暴行の末に死亡』と太い文字で書かれてあった。

 男子高校生って俺のことだよな。一体これは何の冗談だ? 俺は元気だぞ。


「今だってここにこうして……」


 俺は自分の手を見る。それは見慣れた女の子の手だった。そうだった、今の俺は立花 のえるだったんだ。忘れていたわけではないが、どうしたわけか思考がスムーズに直結していかない。じゃあ、死んだ佐々木 雄一って……。


「あああああああああああああああああああああーっ!」


 俺は交差点の真ん中で立ち止まったまま絶叫していた。喉が裂けるのではないかと思えるほど声を張り上げ、耳を塞いで目を固く閉じる。しかしそれでも、恐ろしい現実が俺の心を破壊しようと近づいてきて、とても耐えられそうになかった。

 俺の……佐々木 雄一の身体は死んだ。詳しいことはわからないがそんなことはどうでもいい。俺の精神が未だのえるの身体の中にあって、のえるも元の身体に戻っていない。つまり、俺の身体は彼女の精神を繋ぎ止めたまま死んでしまったということだ。

 のえるが死んだ。俺の最愛の彼女が。精神が入れ替わった現象の共通の被害者であり、元に戻る方法を知っていただろう立花 のえるが死んでしまった。


「のえるっ! しっかりするんだっ!」


 誰かが俺の腕を掴んで立たせようとする。そのまま手を引かれて交差点を渡り切ると、脚がもつれて歩道に座り込んでしまった。制服の短いスカートが捲れあがり、長くて白い太腿と鮮やかなブルーの下着が露わになる。でも、それを隠そうとする羞恥心はすでにどこかへ流れ去ってしまっていた。


「一体何があったんだ?」


 頭上から鋭い声が降ってくる。ゆっくりと顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。高級そうな細かいストライプのスーツを着て手ぶらで立つその男性は、週末ぐらいしか見かけることはないがよく知っている……立花 のえるの父親だった。


「学校からパパに電話がかかってきてね、お前が連絡もなく欠席しているって言われたよ。携帯に電話したけど全然出てくれないからGPSで居場所を検索したんだ。携帯をなくした時に使うサービスだけど、役にたって良かった」


 そう言って彼は優しく笑った。ああ、こんなにも家族に愛されていたのに、本物ののえるはもうこの世にいないのだ。

 のえるの父親は俺の手をとって立ち上がらせると、スカートを軽くはたいて砂埃を払ってくれた。

 立花さん。貴方の娘さんは死んでしまったのです。目の前にいるのは美しい娘さんの皮を被っただけの醜い偽物なんですよ。真実を言ってもどうせ信用されないだろう。無力感と罪悪感がごちゃまぜになった気持ちに俺の心は支配されていた。


 のえるの父親に連れられてタクシーで家まで帰ってきた。帰路、携帯を取り出して見てみると、祥子や紗江からも着信とメールがあったことがわかった。


「こんな時間に一体どうしたの?」


 玄関で俺達を迎えた母親は、露骨に嫌な顔をして聞いた。


「ちょっとしたアクシデントだ。のえるが不安定になっていたから連れて帰ってきた。それより、学校の先生がウチに電話したらしいんだが、家に居なかったのか?」


「出かけてたの。あたしにだって都合があるのよ」


 そう答えると母親は目も合わさずにリビングに戻って行ってしまった。相変わらず彼女は娘のことが好きではないようだ。父親に比べてのえるに接する態度があまりにぞんざいだ。

 父親は俺を二階へ連れて行き、のえるの部屋のベッドに座らせた。


「お前が無事で本当に良かった。制服はシワにならないうちに着替えた方がいい。落ち着いたら何があったのか聞かせてくれ。じゃあパパは仕事に戻るよ」


「……ありがとう、パパ。ごめんなさい」


 部屋を出て行こうとする父親に向かってなんとか一言だけ謝った。


 一人になると、俺は制服を脱ぎ捨て下着姿になった。

 まず状況を整理する必要がある。最初に、佐々木 雄一……俺自身は本当に死んだのか。どうして死んだのか。それも重要な気がする。

 パソコンを起動し、ニュースのページを開いて情報を集める。のえるの部屋にはテレビがないからインターネットだけが情報収集の手段だ。

 検索するうちに、俺の……雄一のクラスメイトが書いているブログを見つけた。そこには、事件について彼が集めた情報が掲載されていた。

 それによると、佐々木 雄一は昨晩深夜、駅前の繁華街で大怪我をして倒れているところを発見され、救急病院に搬送された後しばらくして死亡したらしい。詳細はわかっていないが何らかのトラブルに巻き込まれたらしいとのことだ。

 事件に関しては大した情報は得られなかったが、その後に通夜の日時と場所が書かれているのを発見した。通夜は明日の夜十八時から近隣の寺で行われるとのことだった。


◇◇◇


 季節柄、この時間は空がまだ明るい。マップアプリを頼りにたどり着いた場所は広大な敷地に建つ寺で、通夜が行われている場所を探すのに手間取った。それらしい案内を見つけ、香典を受付に渡して通夜に列席する。すでに読経が始まっており、音を立てないようにして会場の後ろの方の席に座った。

 焼香が済み、列席者の大半が通夜振る舞いに移動していってから、俺は自分の身体が寝かされている棺に近づいた。開いている棺の扉から遺体の顔を覗き込む。

 佐々木 雄一の顔がそこにあった。間違いなく自分の顔なのに、なぜだか全然知らない赤の他人のようにも見える。右上のまぶたと頬の辺りにファンデーションでも隠しきれない痣の痕跡が残っていて、壮絶な暴行の様子を思わせる。

 目が合ったとか肩がぶつかったとか、そんな些細なことで喧嘩になることもある。彼女はお嬢様学校に通う女子高生なのに、俺と入れ替わっていたせいで男同士の喧嘩に容赦なく巻き込まれたのだ。

 恐かっただろう。とても痛かっただろう。

 できるなら代わってやりたかった。

 俺の頬を一筋の液体が流れて、白木の棺の蓋の上に落ちる。


「失礼ですけど、兄貴のお友達の方ですか?」


 突然声をかけられて驚いた。そこには詰襟を着込んだ弟……純次がいた。ちょっと見ない間になんだかちょっとだけ頼もしい顔になっている。


「ひょっとして兄貴の彼女……さんですか?」


 どうやら中身は全然変わってないようだ。


「ええと、あの、雄一くんの友達です。この度は本当に……」


「ああ、そういう堅苦しいのは無しで! わざわざ兄貴の顔見てたから親しい人なのかと思ったんだ」


 純次はぞんざいに手を振る。


「親しい人だったら話をしたいと思って……」


 そう言って純次は話し始めた。


「兄貴は駅前で三人の男に殴られたり蹴られたりしたらしいんだ。警察は喧嘩がもとの過失傷害として捜査してるみたい。でもね、兄貴はもともと喧嘩が好きじゃなかった。間違っても自分から喧嘩を売るようなことはなかったよ。だけど、いったん喧嘩になっちまえば一度も負けたことはなかったんだ。そんな兄貴が素手の喧嘩で殴られて死ぬなんて、俺にはとても信じられないんだよ」


 純次はそこで一端言葉を切り、俺の瞳を覗き込んだ。


「兄貴が見つかった日。俺、学校サボって現場で聞き込みをしたんだ。そしたら兄貴のことを調べていた奴がいたらしいんだ。どういう理由で調べてたのかはわからないけど、俺はそいつが犯人なんじゃないかと考えてる」

 純次の声はどんどん囁きに近くなる。近くにいる親類に聞かせたくないのだろう。

 そいつらは最初から『俺』を狙っていたのか。そして発見し、殴り倒した。と言うことは……俺の身体が震える。のえるは俺の身代わりになって死んだのか。

 以前、彼女を助けた時のことを思い出す。あの時の相手も三人だった。今回の犯人があの時の奴らだとしたら……のえるは自分をレイプしようとした相手に捕まって、リンチの末に死んだことになる。

 そんなの、俺がのえるを殺したようなものだ。

 そう思うと後悔や怒りよりも先に強烈な哀しみが溢れてきて、手で口を覆っても喉の奥から絞り出される嗚咽を止められない。両眼には涙が溢れて、とめどなく頬を伝って落ちて行く。


「おいおい、あんた大丈夫か」


 俺よりも女慣れしているはずの純次が面白いように慌てて、ポケットから出したハンカチをよこす。俺はそれを受け取ってまぶたに当てた。ありがとう、純次。

 涙を拭いて顔を上げると、純次の目にも溢れているものがハッキリと見えた。俺が死んだと思って泣いてくれるのか。それを見て俺の涙腺がさらに緩む。


「変な話をして悪かった。俺は弟の佐々木 純次です」


 知ってるよ。


「名前と連絡先を教えてくれるかな。 迷惑じゃなければ……だけど」


 純次が真面目な顔で聞いてくるものだから、俺はついからかいたくなってしまった。


「それって……?」


 そう言うと純次の顔が見事に真っ赤になった。


「ナンパとかじゃないって! これからの葬儀とか墓とかのこと、連絡したいし……」


 こいつ馬鹿だ。チャラ男のくせに見透かされて焦ってやがる。でも、おかげで少しだけ気分が楽になった。


「『立花 のえる』です。立つ花に、ひらがなの『のえる』。アドレスはこれ……」


 そう言って俺はアイフォンのアドレス画面を見せてやる。まるで女の子のような笑顔が自然にできた。


 家に帰り着くと辺りはすでに真っ暗になっていた。

 帰りの電車の中でまたひとしきり静かに泣いたあと、わりとすっきりした頭で俺は考える。のえるを殺した連中を必ず見つけ出して、一人残らずぶっ殺してやる。

 問題は、どうやって奴らを見つけるか……だ。

 しかし、いくら考えても巧い方法は思いつかなかった。仕方ない、のえる直伝の必殺技を使うしかなさそうだ。彼女が名前も知らない俺を見つけた方法……つまり、張り込みである。

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