第五話 それでも俺はやられてない 1

 毎朝、目覚めるたびに自分の胸をまさぐる。ひょっとして眠っている間に元の身体に戻っているのではないかと淡い期待を込めて乳房を掴み、昨夜から変わらずそこにあるものを確認して失望する。今朝も俺は女のままだった。

 この身体は俺の彼女である『立花 のえる』のものだ。そして今、のえるの心は俺の身体に宿っている。つまり、俺たち二人の精神は入れ替わってしまったというわけだ。

 のえるは元に戻る方法があると言うが、本当にそんなことが可能なのか、そしていつ戻れるのか。いや、そもそもどうして俺たちの精神は身体を離れて入れ替わってしまったのか。その理由をのえるは知っているのだろうか。

 様々な疑問を残しつつ、俺は今日も彼女が通う女子校に行かなければならない。

 枕元のアイフォンを掴む。彼女からの返信は今朝も来ていない。自分からは夜中だろうが早朝だろうが遠慮なく電話してくるくせに、俺からの電話には出ない上に、メールにも返事をよこさない。


 数日前だったろうか。学校の身体検査で気を失ってしまい、気がつくと目の前に美人のスクールカウンセラーがいた。彼女はキツ目の顔にさらにシャープなメイクをしていて、おまけに眉間にシワを寄せて俺の顔を覗き込んでいた。


「貴女、あたしに何か相談したいことがあるんじゃないかしら」


 ええと、この人の名前はたしか……。


「マコ様?」


 俺がそう言ったとたん、彼女は吹き出した。


「ナニソレー! おっかしぃー。一部の生徒にそう言われてるのは知ってたけどさぁ、面と向かって呼ばれたのは初めてよぉ」


 失敗した。彼女は笑いながら話し続ける。


「そう呼ぶのには意味があるの?」


 さすがスクールカウンセラー。考えなしに返事をするとボロを出してしまいそうだ。

 本名を知りませんでした……なんて言えないよな。入学式とか何かの機会に生徒に紹介されているだろうし、ウインクするくらいだから親密な可能性だってある。

 のえるから担任と各教科の教師についてはレクチャーされたが、スクールカウンセラーの話は聞いていない。


「志摩子のマコなんだろうけど、へんなトコで切るよね」


 志摩子先生か。苗字はなんて言うのだろうか。相手が大人だったら苗字で呼ぶのが普通だと思うが、のえると彼女との関係がハッキリするまで名前で呼ぶのは避けた方が良いかもしれない。

 とりあえず、俺は女子高生になって会得した『あいまいな微笑み』を返す。


「で、どうなの? 相談事……あるんじゃないの?」


 もう一度聞かれた。俺は今よっぽど悩みを抱えた顔をしているのだろうか。


「えーと、あの、大丈夫です」


 のえると俺との間に起こっている事をおいそれと他人に話すわけにいかない。

 のえるは、元に戻る方法が確立できるまで待ってくれと言っていた。方法そのものはすでにわかっているらしいが、簡単に試せるようなことではないらしい。

 彼女だって慣れない男の身体で大変な思いをしながら生活をしているハズなのに愚痴一つこぼしたことはない。ここで俺が勝手なことをするわけにもいかないだろう。

 それに、スクールカウンセラーというのはつまり臨床心理士だから、対話によって問題を解決するのが仕事だ。今の俺たちのようなケースでは力になってくれるとは思えない。

 うつむいていた顔を上げると、彼女は黙ったままじっと目を見つめていた。

 まるで考えていることを読まれているようで恐い。このままずっと彼女に見つめられてると、思考の軌跡のすべてをトレースされてしまうような気がして、俺は我慢できずに目を逸らす。

 以前読んだ心理学の本の内容を必死に思い出そうとしていた。

 しかし相手はプロだ。俺が何か問題を抱えていることにはもう気づいている。精神の入れ替わりを悟られないために、何か適当な悩みをでっち上げて……。


「実は、最近のことなんですけど……」


 俺は静かに口を開いた。


「あの、なんだか身体が、変なんです」


 そう言えば、今日も身体検査の途中で気を失ってしまったのだ。これが何らかの病気によるものならばスクールカウンセラーに相談しても意味はない。だけど、原因がわからない身体の不安をカウンセラーに相談するというのは女子高生の行動としてアリだろう。

 あるいは、のえるが本当に病気にかかっている可能性もある。


「どんな風に変なの?」


 マコ様の口調はさらに優しくなる。ゆっくり顔を上げてみると、彼女の眉間からシワが消えていた。


「一週間くらい前なんですけど、更衣室で着替えていたんです。プールの授業があって。みんなが着替えていて、そこで……」


 そこで、俺は一切の恥じらいもなく着替えるクラスメイトたちを見て違和感を感じたんだ。でもそれは俺の心が男だから感じたことなのかもしれない。だとしたらこれは話せない。


「そこで、まわりでクラスメイトが着替えているわね。貴女はそれを見て何を変に感じたの?」


 この女はエスパーか?! 本当に俺が考えていることが読まれてしまうのか。

 いや、まてよ。落ち着いてよく考えてみろ。

 俺は更衣室で着替えていたと言った。その前には自分の身体が変なのだと訴えている。周囲と自分の身体を見比べた上で身体が変だと感じたということは簡単に推測できることだ。

 相手の空気に飲まれてはダメだ。気をつけろ!

 俺は自分にカツを入れて気を引き締める。しかし、ここまで話してしまったら軌道修正も難しい。まさか高校生にもなって「胸の膨らみ方が友達と違って変なんですぅ!」なんて話にもっていくのも無理があるだろう。


「みんな、なんというか着替えるのが大胆というか、どんどん脱いでいっちゃって。その、恥ずかしくないのかなって思って……。そう思ったら自分が裸になるのがすごく恥ずかしくなっちゃって」


 思い出すとざわざわと肌がさざめく。おそらく今、俺の顔は演技抜きで真っ赤になっているだろう。


「それで、水着も生地が薄くて。なんていうか、その、とにかく恥ずかしいんです」


「あたしも水泳の授業を見たことあるわ。たしかにアレは凄いわよね」


 マコ様が深く頷く。そう、あの水着は凄かった。丸めると握った手の中に収まってしまう、広げて伸ばせば身体の小さな突起までが透けてしまって隠すことが許されないほど生地が薄かった。

 そして俺は、その羞恥心を極限まで高める衣装を着るときに、あの感じを味わった。いや、強制的に体験させられたと言ってもいい。

 今も目の前の彼女に聞かせながら、体操服の中では乳首が痛いくらいに尖っている。


「すごく恥ずかしくなって……そして、わかんなくなっちゃったんです」


 マコ様は黙って俺の言葉に耳を傾けている。


「今日も、なんというか……検診の先生に胸を見せる時に、急に恥ずかしくなってどうしようかと思ってて。でも、見せないわけにいかないから決心して見せたら、またあの感じがして自分がわからくなってしまって……。気がついたらここに寝かされていたんです」


 そこまでゆっくりと話すと、俺は一息ついてマコ様の目を見た。あの体験は一体なんだったのだろうか。もしかして、俺とのえるの入れ替わりに関係があるのだろうか。


「貴女はそういう感じになることが嫌なのかな?」


「え?」


 考えてもいなかった事を指摘されて、俺は驚いた。なんというか、あの感覚は人に言ってはいけない悪いことのような気がしていたからだ。


「よくわからないんですけど、嫌いでは……ない、です。たぶん……」


「そう」


 マコ様が優しく微笑む。


「貴女が嫌でないのなら貴女にとって悪いことではないハズよ。ただ、気を失ってしまったりすると危険だから、そうなりそうになったら落ち着いて深呼吸して収まるまで待つの。不安かも知れないけどあまり深刻に考えない方がいいわ」


 のえると俺の入れ替わりの問題も重大だけど、この変な感じもまた俺の心に深く居座りわだかまっていたのだ。

 でも今日、マコ様に話せてよかった。


「ありがとうございます。なんだか楽になりました」


「いいえ、いつでも来てね」


 上履きを履いてベッドから立ち上がる。保健室を出ようとした時、マコ様が再び口を開いた。


「で? 今日はまるで初対面みたいなしゃべり方だったけど……」


 え? 今なんて言った?


「今度は一体どんな遊びなの?」


 俺の脚が止まった。この女はやはり、のえるの知り合いだったのか。俺たちの入れ替わりの事を知ってるのか。中身が男であると承知の上であんな話をさせたのか?

 俺の頭は猛烈に回転を始める。羞恥心がじわじわと俺の心に忍び込む。

 落ち着け。もし、入れ替わりを知っていたなら、男の俺を相手にした話題になるはずだ。そうでなければ彼女にとっても今までの会話が無意味なものになる。

 のえるとの関係や俺たちのことなど聞きたいことは山ほどあったが、彼女がどこまで知っているのかわからない以上、下手に会話を続けるべきではない。ボロが出る前にここを出なくては。

 俺は意志の力を総動員してなんとか保健室を脱出した。


◇◇◇


「のえる、まだぁー? 遅刻しちゃうよぉー」


 携帯から紗江の間延びした甘ったるい声が響く。いけない。のんびりしすぎた。話しながら支度を整えて家を飛び出す。紗江とは家の方向が同じなので途中の駅で待ち合わせて登校しているのだ。


「ごめんね紗江。今朝寝坊しちゃってー。先に行ってて」


「今出たんでしょ? まだ間に合うから待ってるよぉー」


 のえるはいい友達を持ってるな。

 紗江を待たせないように俺は駅へ向かう坂道を駆け下りた。


 ホームは人で溢れかえっていた。こんなに混んでてよく線路に人が落ちないものだと思う。いつも乗るのはホームの真ん中辺りだが、人混みでそこまで辿り着けそうもない。

 あまりの混雑に電車を二本見送ったが混み具合はほとんど変わらない。それどころかますます酷くなっていくようだ。このまま空くのを待っていたら遅刻してしまう。

 仕方なく手近な乗車位置に紗江と二人で立つと、後ろにはすぐ行列ができた。

 電車のドアが開くと同時に他の乗客と一緒に車内に押し込まれる。

 周りはスーツを着たサラリーマンだらけで学生はほとんどいない。もちろんこんな時間に電車に乗る聖華女子の生徒など、俺たち以外に誰もいなかった。

 乗車の混雑で離れてしまった紗江を探す。スーツのダークグレーの壁の向こうに彼女の制服が見え隠れしている。

 周りのスーツの男たちがみんな異様に大きく見える。肩にかけた学生バッグが人の流れに持っていかれそうになり、両腕で必死に掴んで確保する。

 ぎゅうぎゅう押されて苦しそうな、苛立ったような男の声が頭の上の方から聞こえてくる。

 のえるの身体で初めて体験するラッシュアワーだった。


 車内に押し込められた時からなんとなく尻の辺りに違和感があった。尻に何かが当たっているのだ。

 それがモゾモゾと動いていくうちにだんだんとハッキリした形を感じるようになる。手だ。だが手のひらじゃない……おそらく人差し指と親指だと思われる二本の指が、丈の短いスカートの表面を不規則に移動している。

 痴漢だと言われても反論できるように、いきなり手のひらでは触らないのだ。そして痴漢かそうでないかの境界線をあやふやにしたまま触り続け、被害者は声を出すタイミングを逃してしまう。なんて卑劣な手口だ。

 女性なら恐怖で声が出なくなるらしいが、俺の中身は正真正銘れっきとした男子高校生、佐々木 雄一だ。のえるの尻を撫で回した痴漢野郎は俺が鉄道警察に突き出してやる。

 そう身構えた瞬間、電車が揺れて周りの乗客がよろけた。


 そこで俺は見た。見えてしまった。


 周りをたくさんのサラリーマンに囲まれて、何本もの太い腕に身体中を触られまくっている紗江の姿を。

 シャツは大きくはだけられ、ブラはホックを外されてズリ上がったまま。着換えの時に何度も見たあの大きくて柔らかな乳房は、男達の手で無残に鷲掴みにされて揉みしだかれていた。

 下半身には四方八方から腕が伸びていて、チェックのスカートのプリーツはまるで傘のように開いたままになってしまっている。男達の手が短いスカートの中で何をしているのかは考えるまでもなかった。すぐに車両が揺れて紗江の姿はスーツの壁の向こうに消える。

 あの大人しい紗江を。優しくて温かくて、何でも拒まずに寛容してしまう紗江を。俺はまだ知り合って一月も経っていないが、彼女は男の俺にとっても大切な友達だ。そんな紗江を、よってたかって穢しやがって!


「やめ……!」


 叫ぼうとした俺の口が、後ろから大きな手で塞がれる。

 逃れようとして身をよじると、左右から両腕を押さえ付けられた。身動きができない。

 口を塞いでいる奴が俺の耳元に顔を近づける。


「ほら、お友達が気持ち良くなっちゃうところをしっかり見ててあげようね」


 そいつの言葉でスーツの壁が急に開いて、再び無数の腕で陵辱され続ける紗江の姿が晒された。

 スーツ姿の一人が紗江のスカートの裾をつまんで俺に見えるようにめくり上げる。痴漢達の指先がブルーの下着の上から後ろから、そして下から次々と侵入して蠢き、彼女を容赦なく蹂躙する様子がハッキリと見えた。

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