2-8.甘露なるまぼろし

 カインの話を在中神官から報告として聞き終え、祈祷所から出てきたフィージィが外套を羽織る誰かとぶつかっておもてを上げたとき、一瞬覗いた赤紫色の髪の毛が日差しに揺れた。特徴的な濃淡を描く青い眼や秋の冷気を凝り固めたかのような顔つきが見えて、小さく声を上げてしまったことで我に返る。


「すまない」

「……ノーラ、さん?」


 すぐさま人混みにまぎれようとしたノーラを、フィージィは声で止めた。止めてしまったことに驚いた。こんなに大勢人がいて、その中で見知った人間がいたからつい、油断したのかもしれない。周囲の人混みは、まるで二人を切り残したかのように別れ、しばらくさざめきの中沈黙だけが続く。気まずいと思うフィージィに対し、でもノーラはなんてことのない、古くからそこに存在していたような彫像みたいに立っている。どうしようかと悩んでしまうフィージィを招くかのように、ノーラが動いた。祈祷所の中に入っていくのをぽかんと眺めた後、慌てて追いかける。


 入口を閉ざした祈祷所の中は窓がないためか仄暗く、獣脂の明かりだけが空気に舞うほこりを反射させていた。簡易な祭壇がある広間は小さくて祈る人間は一人もいない。昼食の時間が近いし、もしかしたらまだ、昨日の闘技会の話題で忙しいのかもしれない。神官が作業を行う奥の扉、そこに潜む本の匂いをフィージィはとらえる。慣れた匂いはフィージィの心をいくばくか落ちつかせた。背もたれのある木の長椅子に座ったノーラを見つめ、それからいつも隣にいる男のことを思い出して口を開いた。


「あの、カインさんはどうなさってますの? 怪我はしておりません?」

「してない、体の調子はいたって良好だ」

「通行証のためだけに、あんな危険な場所にカインさんを出したんですの?」

「あなたに会うと質問ばかりされる」


 ノーラは小さく笑った。嫌味のない、困ったような笑い。普通の友達同士だったらつられて微笑めるだろうやわらな笑みに、しかしフィージィは流されることを良しとしなかった。


「はぐらかさないで下さい。あなたの名声を持ってさえすれば、イグローはすぐにでも通行証を出したはずです」

「あいにくとそうはいかない事情があった。それに、闘技会に出ることを決めたのはカイン自身だ」


 ノーラから出た真っ当な言い分は、フィージィの反論を許さない。彼自身が望んだというのが本当なのか判別がつかないが、確か、晩餐を共にしたイグローはカインが参加を申し出た旨を言っていた気はする。すぐに話題をこれからの町の方針などに変えてしまったことをフィージィは少し、悔やんだ。


「それにしてもあなたがまだここにいるなんて、驚いた」

「……すぐに帰ろうとはしました。ですが、この機に町を偵察しておくのも仕事の一つですから」

「イグローから話は聞いていると見たけど」

「ええ、被害が思ったより少なくて安心しました。まさかあんな強い<妖種ようしゅ>が出ているなんて」

「最近<妖種>の動きが妙だ。季節外れのも出ているし、凶暴性も高まっている。何かおかしい気はする」

「それはまさか」


 詞亡王しむおうの仕業か、と尋ねようとして言葉が重い支えのようになり上手く返事ができない。心臓が一つ、大きく脈打つ。思わず滲んだ手汗を拭うように、着ている衣へ手のひらをこすりつける。


 全てに当てはまるわけではないけれど、詞亡王が出現する前には前兆らしきものがある。出るらしい場所に歪んだ虹が浮かぶという迷信に似たようなものから、大人しくしていた<妖種>が突然大群で巣を離れたりという実際の報告まで多彩にあって、どれが正確な情報なのかフィージィにはわからない。経験もしていない。ただ、その一つに強い<妖種>が頻繁に現れ始めるというものがあるのは確かだ。これは、とフィージィは唇を噛む。早急に会議を開く必要がありそうだ。


「その……いつ、鶏冠竜コクトルスを駆除しに行くんですの」

「明日の夜」

「妥当な選択ですわね」


 偉ぶって言ってみたけれど、どうしようもなく胸に立ちこめる忌避感がフィージィに話題を逸らす選択をさせた。それほどまでに黒は、怖い。黒を恐れる自分に腹が立つが、すでに頭では父と相談する段取りをしている。


 鶏冠竜は昼行性だ。鳥目を持つ鶏冠竜を退治するなら夜が一般的であることくらいは、フィージィの知識内にある。ここから鶏冠竜が巣くったという鉱山は半日もかからない。だからこそ早目に叩いた方がよく、それなら騎士団を動かした方が良いともフィージィは思い、事実イグローにやんわりと諫言してもみたが、町のことは町の内で処理したいと簡単にはね退けられた。これはキュトススにある組合報告の確認を怠った自分の分が悪い。


 それに、と更にフィージィは一人考える。カインの戦いぶりを見て、同時に『蒼全そうぜんのプラセオ』たるノーラがいるなら下手は打つことはないだろう。悔しいけれど<妖種>に関しては彼女の経験と知識は自分より遥かに上だ。カインも殊魂術アシェマトを上手い具合に発動させていた。ノーラが師事したからかは知らないが、闘技会で見た戦い方はこなれている感じもした。


 気づかぬうちに訪れた沈黙は軽すぎず重くもなく、それでもフィージィの強張った心をほぐしはしない。ノーラは口を閉ざし、でも木の椅子を指で小突く音は彼女が発している。一定の規則で繰り返される音はやけに大きく、フィージィには聞こえた。


「昨日、闘技会が終わった後にデューが来た」


 吐き出された言葉は唐突で、ほんの少しだけためらいを飲みこんだかのような物言いだった。


「それからなんとなく、カインの様子がおかしい。デューも変だった。心当たりは?」

「面白いことを言いますのね」


 彼女の口から出た名前が妙に気に障り、フィージィは立ったまま頭巾の頭頂部を睨みつけた。


「二人に会ってもいないあたくしが何かしたと?」

「会っていないのか。カインはともかくデューにも」

「あなたには関係ないでしょう、そんなこと」

「なら、二人の問題か。それならいいんだ」


 勝手に話を打ち切られ、フィージィの心に芽生えた棘は行き先を失う。ノーラはほんの少し考えこむように、誰もを寄せ付けぬ無言の圧で身を守っている。二人の間に漂っていた沈黙に罅を入れたのはノーラが立ち上がる音で、彼女は初めてここで頭巾を外した。染めているであろう赤い髪が揺れる。青い瞳は厳しい冬の空にも似て鋭く、一瞬フィージィはたじろいだけれど、そのまなじりには敵意などはなく、思わず後ろに下げてしまった足を戻した。


「……君は、この国が嫌だと思ったことはないか?」

「え?」

「王族や貴族たちの在り方、今の王に対して、貴族が持つべき殊魂の種類。そんなものに疑問を抱いたことは?」


 フィージィは自分の口から出た言葉のように口元を抑え、目を剥いた。王に対する意味なき批判は不敬罪が相当する。けれど、最近の国王はあまりに詞亡王の一部分と異人退治に没頭しすぎだとか、まつりごとを妻である現華后かごうに任せきりだとか、酒の勢いに任せた事実が流布されていることくらい、フィージィは知ってもいる。だが、目の前にいるノーラから酒精の匂いなんて微塵もしないし、笑って済ますほどにはあまりに瞳は真摯すぎて、フィージィはうろたえた。まるで、と内心を隠して軽く咳きこむふりをした。反国政集団の一派を見るように、眉を潜ませながら。


「おかしな人ですわね。異端審問官に連れて行ってほしいような言い方です」

「別に呼んでくれても構わない」

「……本当に変な人」


 彼女の発言を上に伝えればどうなるかなんて、多分ノーラはよく知っているはずだ。この程度の話題でも、下手をすれば国外追放だということくらいわかっていそうなのに。それを踏まえて議論の種を選んでいるのか、ノーラの腹の内がフィージィには読み取れない。


 でもノーラの言葉は、幼い頃、デューの殊魂アシュムについて父に尋ね、めっぽう叱られたことを思い出させる。人の前、そして母の前で弟の話題を出すなと。自分で必死に読んで調べたたくさんの本の香りと共によみがえる記憶はあまりに苦く、周囲の暗がりはデューを産んで精神をおかしくした母の墓標を描かせるほどには濃い。


「これは、あたくしの独り言です」


 ノーラから目線を逸らし、正面にある扉を見る。そこに隠されているみたいな過去を、ほんの少しだけ暴く程度の小声で。


過猛王かもうおう……いえ、賢猛王けんもうおうアーセルジは武に傾いてらっしゃるかと。もちろんそれは、民を慮ってのことでしょうが。元華后でいらしたラスィーヤ様の死は、あまりに早すぎたのかもしれません。彼の方と賢猛王の蜜月時、国は本当に栄えていたから」


 天護国王都にいたときに耳にした、病死した元華后ラスィーヤが唱えていた理想論をフィージィは馬鹿にできない。生まれ持つ殊魂に貴賎なし、そう言って、亡き后は貴族の殊魂はかくあるべしという決まりを根本から変えようとしていたという噂を聞いたとき、確かに感じた期待は敢えて秘めたまま言い終え、ノーラの瞳と真っ向から対峙する。


「一介の戦闘商業士であるあなたには、少し踏みこみすぎの話題ではありませんの?」


 挑むような勢いで聞いてみたけれど、ノーラは挑発にも似たそれを当然だと言わんばかりに受け止めているようだ。奇妙な静けさが少し続いて、フィージィが過去の大切な一部を暴露したことを恥ずかしく思い始めたとき、ようやくノーラが小さい呼気をする。


「僕はこの国が嫌いじゃない」


 ぽつりと放たれた声には言いようのない、たくさんの感情が含まれており、だからこそ短い中でノーラが本音を吐露したことだけはフィージィにもわかった。


「噂で、ここの商業士組合の規則が変わるらしいということを聞いたんだ。蛇と竜の保護を大きくすると。僕にとってそれは痛手だ。だからちょっと聞いてみただけ」

「……あなたって本当、ご自分の都合しか考えられない方なのですね。そこまで来ると強欲に過ぎますわよ」

「性分だ。仕方ない」

「六年前もその欲で、ですかしら」


 我ながら意地悪い、と思った。けれどノーラは相変わらず天気の話をされたときみたいに平然としていて、軽く肩をすくめてみせた。


「僕のことを好きに解釈するのは勝手だ。悪名も甘んじて受け入れる。でも別に、あなたと僕は敵じゃあない」

「そうかもしれません。でもあたくしは多分、あなたを好きにはなれません」

「万人に好かれるとは思ってもいないし、逆に邪魔だ。適度な距離がある知り合いがいたって、構わない」

「まずはお知りあいから、ですの? どこかのお軽い男性みたい」

「言われてみればそうかも」

「その格好と声、似合ってますわよ。本当に少年と間違えたくらいですから」


 フィージィは初めて、自分がノーラの前で自然に笑っていることに気付いた。ノーラも瞳から剣呑な光を消し、軽く微笑んでいる。信じられぬほど優しい空気が流れていて、ふと六年前の件がなければ、もしかしたらノーラとは友達になれたかもしれないな、と思う。でもそんなのは瞬時に現れて消える幻のようなもので、きっと互いに辿る路は噛み合うことなく過ぎ去るだろう。それでも現れた幻は甘くて柔らかく、フィージィに日常の雑務を忘れさせる程度の心地よさを孕んでいる。


「そろそろ行かなきゃ。あなたももう、領都に戻るんだろう」

「……ええ」


 幻の中にカインとデューもいる気がして、フィージィの返事は少し、遅れた。ノーラは再び頭巾を深くかぶり、その微かな音がフィージィを現実に引き戻す。ノーラは既にフィージィの横を通り過ぎて入口に手をかけており、その隙間から外の陽光が入ってきている。


「あの、ノーラさん」

「何か?」


 振り向いてノーラの背を見るフィージィはちょっと悩んだ。ほんの少しくっついた唇を剥がして口を開ければ、思考するより前に言葉がするりと出る。


「お気を付けて」

「ありがとう。あなたも」


 それだけを残して、ノーラは日差しの中に消えた。再び薄暗い場所にたたずむフィージィは、未だ幻の欠片を咀嚼していて、その甘露は頭にこびりついて離れそうにない。心が穏やかな優しさに包まれており、この気持ちを誰かと共感したいと思った。今なら、と祈祷所の祭壇をぼんやり眺めながら壁に背をつけた。デューに、優しくしてあげることもできるかもしれない。

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