1-20.夜闇の交戦
カインと別れても、三つ程度の気配は消えることなく自分の方に向かっていることを感じて、ノーラは走る速さを最大に上げた。公爵の城からずっと感じていた視線は気のせいだと思っていたが、やはり自分を見ていたのだろう、ほどよい距離を保ったまま背後の何者かたちは静かに梢を揺らしてノーラの後をつけている。カインと離れたのは正解だった。標的がはっきりと自分だとわかったし、それならどんなことであってもけじめは自分だけでつけたい。そう思う奥底に、他の何かがないかと問われたらノーラは考えていただろうことに自分でも気付かぬまま。
公爵家とは数本離れた道に建物はほとんどなく、代わりに針葉樹が姿を現しはじめている。山道へ続く石畳を進むにつれて木の数は増した。
逃げるか、と一瞬思ったけれど、すぐにノーラからそんな選択肢は消えた。自分の本質は果断即決だ。戦い方は、奇襲。戦闘の準備に入る。
「神に捧げるは宴への供物、姿成せ・音。無音」
一瞬ノーラの体が赤に光り、次いで彼女の足下から黄色の輝きが消えた。ノーラの足音と呼吸の音も。足を止め大きな木に背を預ければ、回りに響くのは木々から慌てるように飛び出してきた三人組の男たちの着地音で、その顔には誰一人として見覚えがない。木陰に身を潜めて気配を消しながら、一番小柄な男の背後へ殺気を殺して近付きつつ、彼らを観察する。
男たちは一様に黒にも近い濃い灰色の衣をまとっていて、それはまるで
三人が周囲を凝視するのを確認しながら、一段大きい木の幹に背中をつけた。何者かなどノーラにもわからない。あまりに
小声の宣言により現れた
ノーラが戦斧を構え直すよりも早く一人が駆け出してくる。拳と直線に構えられている両刃の短剣を、すんでの瞬間柄で押さえ込む。
これだから、と血の混じった唾を吐き捨て地面に水平に振った刃で男の足首を狙うも、すでに男は片足で跳んでいて宙を薙ぐことしかできない。まったく可愛げがなく、人間を相手にするのは嫌なのだ。
「宴と供物在りて成るは闇、影蛇!」
ノーラの宣言により現れた蛇が威嚇すると同時に、陰を霧にしたかのような吐息を男に振りかける。着地した男の顔は黒い靄に覆われ、しかしノーラの目の端にはこちらへ向かう赤い火矢が入りこんでいる。数本の火矢を蹴り上げて消しさりつつ立つ。
黒霧に視界を遮られながらも風の
「宴と供物在りて成るは風! 風牙っ」
聞き覚えのある声が届いた。同時に、牙のようになった風の束が木々をなぎ倒しながら男の背中を狙うも、突如吹き荒れた針葉の竜巻がそれを受け止める。林の奥から姿を現したのはやはりカインで、一瞬ノーラは戸惑った。だが体は動く。視線を軽くだがカインへ向けた眼前の男の足へ回し蹴りを放つ。膝の裏を殴打された男が姿勢を崩した刹那、肩に乗った蛇は黒霧を吐き出してその視界を奪った。
「ノーラ!」
大剣を構えてこちらへ走ってくるカインに、なぜだか無性に腹が立った。滑りこむみたいに姿勢をかがめながら男の横を通り過ぎ、突き刺さっていた斧を手にする。憤りながらも軽量化されている
「あなたまで憎まれてどうするの」
唸りにも似た声が出た。呪うような粘り気のある声だな、と頭の片隅で思う。それでもカインは微動だにせず、背中から離れない。
「見捨てたくない」
「それはどうも、ご苦労様!」
吐き捨てた声は果たして言葉になっていたかわからない。集中をカインへ持って行かれて、波動が切れた。蛇が消えると共に男たちの顔にまとわりついていた霧も霧散する。視界を取り戻した二人が、少しずつ距離を近付けてきている。交魂――交術を使うべきかでノーラは珍しくためらう。カインを巻きこむ可能性もを考えている自分がいて、それにもなんだか苛立つ。昔なら、と歯噛みした。昔の自分だったら、決して迷うことなく自分の命だけを守っただろうに。
決して男たちから目を離すことなく、ノーラは持て余した怒りをこめたままの口調でささやく。
「人を殺した記憶は?」
「多分ない」
「そう。術で援護できる?」
「何とかする」
「私が
カインがうなずいたであろうと同時に、男二人が飛びかかってきた。曲刀の男はカインを、短剣をぎらつかせている男は自分をそれぞれ狙っていた。
彼らを殺すのは、自分でなくてはならない。使命でも義務でもない信条はノーラの動きを激しくさせた。
真っ正面から走ってくる男へ思いきり戦斧を振り降ろす。外れる、も柄の部分が短剣とぶつかり嫌な音を立てた。勢いで宙に飛んだノーラは体を反転させると同時に柄を左に二度回す。戦斧の刃が外れ、代わりに出てきたのは穂状の刃だ。男の後ろに着地した瞬間、槍と化した棒の石突で男の背を打つ。半身をひねっていた男のあばらが折れた手応え。身を反転させそのまま刃で相手の腕を突き抜けば、短剣がこぼれ落ちる。再び真っ向へ対峙した男の股間を容赦なく蹴り上げた。悶絶しそうな男の鼻をえぐるように平手の甲を打ち込む。
「揃えて生誕・風、突風」
曲刀を見事弾いたカインが男二人の間に小規模の旋風を作り出す。吹き荒れた風は土埃を舞わせ、二人の視界と動きを奪った。ノーラは槍を思い切り引き抜いて後ろに投げ離した。瞬間、合図だと理解したカインが男から距離をとる。交術発動のため暴れる激しい二つの波動をつかんだノーラの体は青と赤、二色の輝きに包まれる。
「冥土に至らしめるは『
まとった波動は当然に強い。気付いた男たちの体を跳ね飛ばすほどには。
「円環の解放は来たれり! 【冥府の
ノーラの影から現れた蛇は赤色と転じ、闇夜にもまぶしき赤の飛沫を吐き出した。男二人に直撃した飛沫は猛火となって衣と皮膚を燃やす。焦がし上げると共に炎が螺旋の闇へと変わる。垂直に立ち上った闇の柱の螺旋は速さを増し、骨が砕ける音が悲鳴に混じる。闇は周囲の木をも巻きこみながら炎と共に男たちの体をひねり、壊し、内臓までをねじって絶命させた。男二人の肉体全てが宵のどこかに吸いこまれることを確かに見てから、ノーラは波動を断ち切った。
瞬時に闇が消え、なくなった木の代わりにぽっかりと大きな土の広場ができている。林ごと燃やすこともできたけれど、貴族たちの館が近くにあるためにそれは避けた。別に他人のためではなく、騒ぎを最小限にとどめるための打算だ。自分のためなら彼女はなんでもするし、これからもそうだろう。
「……これが、交術」
カインの言葉にノーラは答えない。交術は威力は高いがその分精神の疲労が大きく、ノーラの心臓が大きく脈打ち、汗を噴き出させる。深く呼吸をすれば潮風の中にもう一体、残されていた小柄の男から匂う悪臭が鼻腔を刺激した。
消し損なった男は、かろうじて生きていた。疲労に塗れた顔には死の陰りがある。それを見てノーラは土にまみれた槍を拾い、必死に腸を押し戻そうとしている男に近づいた。やはり見覚えのない男が悲痛な目を向けてきた瞬間、心臓を槍で突き刺す。最期の声は呼気となり呆気なく男は死んだ。今度こそ、間違いなく。
鳥すら鳴かない、重い静寂が辺りを包む。カインは驚いたように自分を見ていて、ノーラの胸には冷気にも似た靄が生まれる。これが自分のやり方だ。自身のためなら手間を選ばぬ行動を、彼はどう思ったろう。そんなことを考えてしまう自分に、やはり腹が立つ。
「……大丈夫か?」
「なんとかね」
適当な返事をして、握った槍を見つめる。槍の穂先や柄には血の跡がついていたけれど大きな損傷はなく、それでも斧の刃は交術と共に消えてしまった。刃には自分の波動を帯びさせておいてはいるけれど、無事に呼び戻せるかはわからない。大きな痛手だ。キュトススにあれだけの武具を作れるものがいるか考えて、ノーラはため息をついた。死体の首を槍の石突で持ち上げながら、カインの方を向く。
「こいつ、見たことある?」
「……いや、ない」
「そうよね」
当然のことを聞いてしまって、頭が上手く働いていないことに気付く。でも、万が一カインの知り合いだったらどうしただろう。殺すだろうな、と冷めた自分が答える。
「あなた、どうして来たの?」
「追われていると気づいたから」
「ばかじゃないの」
「なぜだ? 危なかったのだろう?」
そういうことじゃあない、とノーラは片手で傷を押さえながら頭を振った。出血は思ったよりもひどくなく、それより胃の方にまだ鈍痛が残っている。
「あなたまで私の事情に付き合わなくていい」
氷と鋼の頑なさで、ノーラはカインとの間に壁を作る。これは自分の問題で、他を巻き込むことはできない。戦闘商業士としてではなく、ノーラというものが背負うべき事柄なのだと理性は告げる。大人しく礼を述べるべきかもしれないが、それでも素直に頭を下げる気にはなれなかった。
「力になりたいと思ったから」
「あのね」
「ノーラは俺の恩人だ。死なせるわけにはいかない」
あまりにも無垢な剣で分厚い壁を断ち切って、カインは強い口調で自分の下へ踏み入ってくる。純粋な厚意にあふれた思いはノーラがとうの昔に捨て去ってしまったもので、ほんの少し残った郷愁みたいな感情が力を抜かせた、そのときだ。
刹那、背後の陰から殺気がした。もう一人手練れがいたことを理解したと同時に、光の速さで飛んできた黄色の飛礫が肩に突き刺さる。そちらへ飛ぼうとした瞬間、手が痺れて針のような痛みが広がってくる。毒だと理解するのに数秒もいらない。影蛇が岩を穿つまでに強い水流をそちらに放つも、木が倒れる音がするだけで人影も気配も感じない。仕留め損なった、と舌打ちしようとして上手くできないことに気付いた。
蛇が消え、槍を落としたと共に体がぐらつく。地面に倒れそうになったところにカインの手が伸びて、腰を支えられる。
「まだ一人いたか」
片手で大剣を水平に構えるカインの目は集中の極みに達していたが、相手が出てくる様子はなく、遠くから梢が揺れる音が響いてくる。完全に撤退されたのだろう。し損じたことは後の憂いになるだろうが、それより今、腕から広がりつつある毒をどうにかするのが先だ。黄の殊魂を持たぬ自分に、光の属性を帯びた毒を体から完全に取り除くことはできない。備蓄してある軟膏でもここまで回りが早い神経毒を抑えるのは難しく、それと共に本気で命を狙われている事実がノーラに警鐘を鳴らす。
「ただの傷ではなさそうだな」
不安げな声に痺れた舌でできるのは、無理やり波動を抑え
「……わかった」
通じた、と思った瞬間、体が持ち上げられた。残っている意識は重たいけれど、自分がどこかの令嬢のように抱きかかえられているのだと理解はできる。頭が上手く働いてくれなくて、でも気恥ずかしさは確かに感じた。居心地の悪さも。生娘のように恥ずかしがっている場合ではないが、それでも慣れない程度にはノーラは不作法がのさばる場所で生きていた。
「今から走る。行きたい場所を教えてくれ」
カインが瓶と槍をつかみ、先ほど教えたばかりの殊魂術を発動させる。途端、ぐんと風の抵抗に体を持って行かれそうになり、片腕でカインの首に抱きついた。意識を保つため、血が滲むほど爪を手のひらに食い込ませながら。本当に、と荒くなる呼吸をしながら思う。一人で生きるというのは難しい。
――結局、どこの診療所もノーラの悪名に顔をしかめて診察を断り、ついに意識を失うところまで来たとき、ハンブレと出会えたのは幸運で屈辱だった。ノーラの失態に腹を抱えて笑うハンブレの声は怒りを呼び起こし、それが意識を戻した上、彼の知っている闇医者に診てもらうことができたから。めずらしくひいひい笑うハンブレを睨みつけて、それをカインが咎めるように止めて、心の底から心配しているみたくのぞきこんできたカインの瞳を見て、大きく息をついた。やはり、彼に人を殺させないで良かった。
そう思った瞬間、ようやくと言わんばかりにノーラの意識はぷつりと途切れた。
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