1-4.麗智神の神殿へ
――思い出して。
(何を)
――思い出せ。
(だから、何を)
――忘れてはならない。
(誰だ)
――憎しみ。
(何を憎めと?)
――悲しみ。
(悲しむことを?)
――怒りも、怨みも、思い出せ。
(お前は誰だ)
――忘れるな、希望だということを。
(何を言っている?)
――我らの屈辱を晴らすのは、お前なのだ。名もなき望みよ。いや――
◆ ◆ ◆
――朝。
たなびく衣のような雲の裂け目から覗く陽光は、町にある緑と黄色の建物を一層色彩豊かに照らし出し、カインの目にまばゆく映る。広げられた露天商と客のやり取りは大きく耳に響いて、通りを行き交う人の多さにカインはただノーラの背を追うことだけで精一杯だった。一方のノーラはひしめき合う人々の間を巧みにかいくぐり、まるで羽が舞うような軽い足取りで先に進んでいる。
「おじさん、それ二つちょうだい」
「お、綺麗な姉ちゃんだね。一つおまけするよ」
「ありがとう、また買いに来るわ」
カインが手間取っている間に、ノーラは露天商の男から二つの果実をもらっていた。慣れた手つきで買い物を済ませ、人混みがまだ少ない方の道の隅で足を止めてこちらを見ている。
「凄い人だかりだな」
「朝だもの。みんな新鮮な食べ物をいち早く、ってね」
ノーラから果実を投げ渡される。手に収まったのは林檎だ。だが、記憶にあるものより桃色が強い。食べるべきか迷うカインに、ノーラは小さく笑う。
「朝食でお腹いっぱい? 口、さっぱりするわよ」
「これも上乗せされるかと思った」
「失礼ね。このくらいおごるわよ」
ノーラが小さな口を目一杯開け、林檎をかじっているのを確認してから己もそれを食べてみる。いつか、どこかで食べたことがあるような林檎とは違い、酸っぱさよりもまろやかな甘さが口の中に広がる。
「美味い。甘いんだな、この林檎」
「
「キュトスス?」
知らない単語だった。聞き覚えもない。
「ああ、昨日のうちに教えておけばよかったかしら。私たちがいるのは、
「キュトススか……」
記憶をかき回してみてもやはり手応えはなくカインは落胆した。こんなにたくさん人がいる中で、己を知っているものはただの一人もいない。森に弾かれそれでもその側で生えている一本の木の気持ちが、今ならわかるような気がした。
「昨日はよく寝られた?」
ノーラの少し低めの声で、我に返る。
「……ああ。多分」
何か、夢のようなものを見た気がするけれど、はっきり覚えていない。忘れている記憶の残滓だったのか、それとも別のものなのか、今のカインに判断はつかなかった。
ノーラはすでに果実を食べ終えて歩き始めている。カインも急いで林檎をかじり、蜜と共に喉奥へと押し込んだ。道の角を曲がり、少し進めばさっきまでの人だかりが嘘のように消え、ようやく心は穏やかさを取り戻す。
「あそこ、安い部屋だったから寝台が固かったでしょう」
「そうなのか? あまり気にならなかった」
「ねえ、あなたって、今までどうやって寝てたり食べたりしてたの?」
混雑の坩堝から抜け出したおかげで、カインは頭を動かすことができる。ノーラの些細な問いかけで脳裏に浮かんできたのは、草や泥水の心象だった。
「草を食べたり、そこで寝たりしていた……ような」
「よく今まで生きてたわね」
「俺は運がいい方だと思うんだが」
「あ、それ分かってるんだ。下手したら毒草でコロって逝っちゃってたかもしれないわよ」
「考えていなかった」
大変危険な状況下であったのだと、初めてカインは思い至った。これからは草を食べないようにしよう。泥も飲まない方が賢明だ。
「そういえば、
「ええ。歴史学者の中でも見解が分かれてるみたいだけど、一応は五百年ちょっと。五大国の中で最初にできた国なんだって」
「凄い国なんだな」
「別に古いのがいいってわけでもないわね」
ノーラの口調が少し砕けてきたことと同時に、少し冷たいものを孕んでいたことにカインは気付く。何か気に障るようなことを言ったのだろうか。カインには見当がつかなかった。だが冷たさは春先に軽く降る雪のように微かなもので、表情には全く変わりがない。
「一応他の国よりも、書物や古文書が充実していることは認めるけど。あなたにとっても良いことだったんじゃないかしら」
「本がある……ということは、わかることが増える?」
「正解」
浮かんだのはやわらかい笑みだった。初夏を思わせるような、まぶしさと優しさを混ぜたみたいな笑顔だ。本当にノーラは表情をよく変える。どこで笑ったり怒ったりすればいいのか、まだつかみ切れていない己と比べて、なんとはなしにまだ色々と未熟すぎるのだと痛感させられた。
「今から行くのは本がたくさんある場所。そこで基本の知識をつけてほしいの」
「本を読めということだな」
「そうね、別にお祈りしたり眠れって言ってるんじゃないわね」
共通語が読める、書ける、それは昨夜ノーラからの質問で分かったことの一つだった。人と交流するに充分な基礎はある、と言われたものの、交流の経験があったとしてもカインの記憶からは何も浮かんでこなかった。それを思うと、内心に靄がかかり始める。できないものや事柄が大きく、重く、己へのしかかってくるみたいだった。
カインはそれに耐えるため、沈黙を選んだ。口を噤むというのは便利だ。思考に没頭できるし、周囲をよく観察できるから。
キュトススの中央都は、小道や脇道が少なく、大きい通りが多かった。道は煉瓦でできていて、濃淡が違う緑と黄色で通りが分けられていることにカインは気付く。もしかしたら名前もあるのかもしれないが、それはどこにも書かれていない。ノーラも言わない。格段大切なことではないのかもしれないと思った。
萌葱のような色の道を渡り、
こうして色々なものを見ていると、川のせせらぎのような音が聞こえたり、名も知らぬ鳥の声が届いたり、どこかで朝食の準備をしているのかお腹をつく香りにも気付くことができる。
川がある、鳥が飛ぶ、人がいる、当然のことなのかもしれないが、それを確認していくことがカインには楽しかった。
「ここよ」
カインの思考を止めたのは、ノーラの声だった。周囲を見渡していた目を、眼前の建物に向ける。
その建物は、ある意味異質なもののようにカインは感じた。
太い数本の円柱が三角形の屋根を支えている。彫刻がふんだんに刻まれて組み上げられた石の色は、輝くばかりの青緑。黄色と緑が基調のこの都にあって、それでもそこはまぶしすぎた。そして静かだ。回りを通るものたちは決して少なくはないものの、先ほどの通りのように大声を出す人間が誰一人としていない。
「ここは……なんだ?」
「『
「れいちしん?」
またもや知らない言葉が出てきて、カインは軽く小首を傾げた。
「それなのよね、まずの問題は」
ノーラが難しい顔をして腕を組み、白い甲靴のつま先で煉瓦を叩く。
「読み書きも簡単な数学もできるのに、子供が知ってる程度のことを知らないのは、ちょっとおかしすぎると思ったの」
「俺が知らないのは、一般の常識ということか?」
「その通り。十二神の名前も知らないのは、さすがに変。子供たちがおとぎ話かなんかで聞くのは、真っ先に神話と殊魂のことだから」
「殊魂については答えられたはずだが」
「あなたの答えは大ざっぱすぎるの」
「む」
確かに、とカインは納得した。記憶から出た言葉をそのままなぞっても、中身が伴わなければならないことは、今ではなんとなくだが理解できている。
「とりあえず中に入りましょうか。本で読んでもらった方が早いし、説明すると疑問が倍になって返ってくるからね」
「それは嫌味というやつだな」
「そこまで口に出す必要、ある?」
目を細めてにらまれ、カインはちょっとだけ肩を縮めた。
「中では声を小さくね。一応神様を祭るところだし、お祈りしてる人もいるだろうから、邪魔にならないように」
ノーラは言って堂々と、臆することなく開け放たれた中央の扉から中へ入っていく。入り口は陽が射し込まぬためかどこか薄暗い。先が見えぬということに本能として一瞬、躊躇したが、カインはそれを胸中でむりやり押さえ込むと、ノーラの後を追った。
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