第20話 雨の日曜日はゼロ距離の

 時間は少しばかり遡る。

 その日、三笠佳乃は駅前にいた。念願の埋め合わせデート、今度こそ楽しい日曜日を送ることができるのだと信じて、噴水前のベンチで伊達を待っていた。


 昼間だというのに夕方を思わせるほど空は薄暗く、見上げれば雨がぽつぽつと降り注いでくる。前回のずぶ濡れ事件から学習して天気予報を確認してきたが、この後天気は崩れていくらしい。夕方になれば土砂降りの地域もあるかもしれないと言っていた。


 晴れであったのなら天候を気にせずおしゃれな服を選ぶこともできただろうに。わずかに落胆しつつも、悪天を踏まえてできるかぎりの可愛らしい恰好を選び、傘を持って出掛けた。



 前回と少し違うことがあった。

 憧れの伊達とのデートだというのに純粋に楽しみだと思うことができなかったのだ。待ちぼうけの時に覚えてしまった孤独感は焼きついて離れず、当日になっても楽しみな気持ちの裏側で不安がくすぶってしまう。


 きっと、来る。好きな相手とのデートなのだ。不安なんて感じてしまうのはおかしい。伊達を信じなければ。予定通りに伊達と合流し、隣駅の複合商業施設へ行って、カフェでお茶したり映画を見たりすればこんな不安も忘れてしまうだろう。そう言い聞かせて、ベンチの前で立つ。野ざらしで雨の染みこんだベンチに座る気にはなれなかった。


 待ち合わせの時間は十時。何度も時計を確認し、待ち合わせ時刻から三十分が過ぎた頃、けしてこのために持ってきたわけではないハンカチを敷いて、佳乃はベンチに腰をおろした。

 寂しさや戸惑いはあまりなかった。一度学習してしまった不安は消えず、伊達がこないことを想定していたからだ。伊達に連絡を入れて既読がつかないことを確認し、待ち続ける。


 辛抱強く待つつもりだったが、その気が薄れたのは昼を過ぎた頃である。伊達からの返信はなく、くる気配がない。諦めて帰った方がいいだろうかと悩む佳乃の指先はすっかり冷えきっていた。


「……ちょっと、休憩しようかな。せっかく駅前まできたんだし」


 帰るべきか待つべきか、その判断をくだすのはこの指先を温めてからでもいいと思った。近くにコーヒーショップがある、そこで温かいコーヒーをテイクアウトし、飲みながらこの先を考えよう。小腹も空いたので、軽食を買ってもいいかもしれない。


 コーヒーショップの入り口は隣接している施設内にあるため、場所を移動しなければならない。目的が決まれば、待ち続けることに飽きていた佳乃の瞳に光が宿る。座り続けて温まったベンチを離れて佳乃は歩き出した。


 噴水前を離れて屋根のある施設に入り、角を曲がればすぐに入り口がある。室内の温かさを感じながら歩いていくと、道の先から「ケンカか?」「止めた方がいいんじゃ」とざわついていた。


「……なんだか、物騒だな」


 佳乃が目指す方向に近づくほど騒ぎ声が聞こえる。内容までは聞こえないが、男の怒鳴り声も聞こえた。それはあまり心地のいいものではなく、いったん引き返した方がいいかと悩むほど。


 そして嫌な予感を抱きながら、角を曲がった時だった。


「ごちゃごちゃうるせーな!」


 はっきりと、聞こえた。それは佳乃の知っている男の声。


 その名を頭に浮かべると共に、声がした方向を見やる。喧嘩に気づいた他の人々が避けて、ぽっかりと空いた場所に、二人の男がいた。



 それを見てしまった瞬間。この場所が真っ白の世界になってしまったかのように、周囲のあらゆるものが溶けていく。

 残されているのは佳乃自身と、頬を赤く腫らし襟を掴まれて立たされてる伊達享。それから、伊達を掴み上げているよく知った背中。


 ぴりぴりと痺れるような空気が佳乃の体をわしづかみにして、呼吸も思考もままならない。この状況を理解したいのにうまく動けず、かろうじて絞りだした声がその背を確かめる。


「剣淵……なに、してるの……」


 ひどく、震えた声だった。

 背や髪型から予想はしていたため、剣淵奏斗が振り返ったところで驚きはなかった。剣淵は突然現れた佳乃の姿に目を見開き、伊達に殴りかかる直前で一時停止したかのように拳を握りしめて固まっていた。


 ゆるゆると思考が巡りだす。通り過ぎた人たちの会話や伊達の頬、力強く握りしめた拳といったパズルのピースたちを繋ぎ合わせていく。そしてわかったことは――剣淵が、伊達を殴ったということだ。


「どうして……伊達くんを殴ったの……?」


 まだパズルは完成していない。これ以上進めるにはピースが足りないのだと気づいた時、佳乃は自然とその問いを口にしていた。


 冷たくて、寒くて。凍え死んでしまいそうなほど苦しい空間。言葉を発するのにも喉がかすれてうまく動かず、間違えた言葉を紡いでしまえば、一瞬にしてこの空気に殺されてしまう気がした。


 それでも、この状況に背を向ける選択肢はない。

 どうして殴ったのか。なぜここに剣淵と伊達がいるのか。様々な疑問が渦巻いて、佳乃の足を薄氷の上に縛りつけている。


「――っ、お前……」


 佳乃の問いに対し、剣淵は戸惑って口を閉ざした。そこにあるのは深い落胆の色。固く握りしめていた拳もだらりと緩み、襟を掴まれていた伊達も解放された。

 ようやく自由になったといえ、伊達の表情は苦しげに歪んでいる。げほげほと咳きこみながら、伊達が言う。


「三笠さん! 僕は大丈夫だから……ちょっと言い争いになっただけなんだ」

「でも……伊達くん、その顔……」

「平気だよ」


 そこにいるのは普段通りの笑顔を浮かべる伊達、のはずなのに。伊達が紡ごうとする言葉に怯えて心臓がばくばくと不安に揺れている。

 乱れた襟を整えながら伊達が立ち上がる。そして喧嘩していたとは思えない穏やかな声音で佳乃に言った。


「僕と剣淵くんの意見が合わなかっただけなんだ。確かに殴られたけど、これは僕が悪いんだ。だから剣淵くんを責めないであげて――ね?」

「う、うん……」


 これ以上の詮索はするな、と突き放されているようだった。信頼している伊達が言うのだから、ちょっとした言い争いだったのだろう。剣淵は荒っぽいところがある。意見の相違によって手が出てしまったのかもしれない。

 伊達を信じて、佳乃は頷く。案じていた心もこれで気が休まっていくだろうか――と思ったのだが。


「てめぇ! 勝手なこと言いやがって!」


 納得した佳乃と異なり、剣淵の瞳は怒気でめらめらと燃えている。

 怒鳴りつけながら再び伊達に手を伸ばす。もう一度襟を掴もうとした剣淵を、佳乃は止めていた。


「だめ」

「止めんじゃねーよ! バカ三笠!」


 腕を掴んで止めようとするも男女の力の差は歴然で、佳乃の抵抗も剣淵には届いていない。

 ここで止めなければ伊達が殴られてしまう。大きく息を吸い込むと佳乃は叫んだ。


「伊達くんを殴らないで!」


 その声量は佳乃が思うよりも大きく、そして剣淵の動きを止めた。


「――っ……お前……」

「お願いだからっ! 伊達くんにそんなことしないで!」


 剣淵に届いてほしい。そう願って追い打ちをかけるように叫べば、剣淵は固く握りしめた拳を震わせた後――肩の力がするりと抜けていった。


「……お前……いいのか、それで」


 脱力し、うなだれる。ぽつりと呟いたその言葉は誰に向けたものかわからず、佳乃は答えることができなかった。

 それよりも。腕を掴んでいた指先がしっとりと濡れていることが気になった。見れば剣淵は服が濡れていて、髪もいつものようにセットしていたのが崩れている。手に傘を持っている様子がないことから、雨に当たっていたのだろうか。いや、雨に当たっていたのだ。肌に伝わる温度はきんと冷えていて、傘もささずに雨の中を歩いてきたのではないかと佳乃は考えた。


「……もう、いい」


 その間に、剣淵は一歩踏み出していた。うつむいたままで表情はわからなかったが、言い残した言葉がずっしりと重たいことから、想像してしまう。

 また、傷ついた顔をしているのではないだろうか。

 呪いが発動してキスをするたび、佳乃も剣淵も傷をつけあっていく。その時のように、苦しみとむなしさと、言葉にできない棘をかかえた顔。


 佳乃と伊達に背を向けて剣淵が歩いていく。少しずつ離れていく距離に佳乃は手を伸ばした。


「ねえ、待っ――」


 剣淵に向けた言葉はすべて言い切ることができなかった。伸ばしかけた手を伊達が掴んだからだ。優しく握りしめながら、伊達が言う。


「三笠さん。行こう」

「で、でも……あいつ……」

「剣淵くんのことは僕の問題だから。学校で会った時に話すよ。今日は僕も剣淵くんも頭を冷やした方がいい」


 伊達に説得されても、心に突き刺さった棘が消えない。本当に追いかけなくていいのだろうか。悩んで決断できずにいる佳乃に、伊達が微笑んだ。


「僕は、三笠さんと一緒にいたいんだ。こんなことになっちゃったけどデートがしたいんだ、だめかな?」


 だめだなんて、言えるわけがない。

 偶然の出来事とはいえ、手を握りしめられて舞い上がりそうな気持ちになっている。そんな三笠佳乃に断れるわけはなく。


 剣淵とは逆の方向へ向けて、伊達と佳乃が歩いていく。重なった手のひらは雨なんて忘れてしまうほど温かい。


 楽しい、はずだったのだ。この日曜日を楽しみにしていた。

 時間はかかったがようやく伊達と合流でき、これからがデート本番だというのに――どうして、ちくちくと胸が痛むのだろう。


 雨が勢いを増していく。夕方は土砂降りになるかもしれないと告げていた天気予報は当たりそうだった。



***


 デートの行き先は隣駅にある複合商業施設である。本来の予定では今頃映画を見ているはずだったが――


「上映時間になっちゃったね……ごめんね、僕が遅れてしまったから」


 すでに時間は過ぎていた。さらにお昼も食べ終えていないということで、隣駅に移動する前にお昼を食べることになった。イタリアンやラーメン、とんかつなど和洋中様々なレストランが並ぶ通りを歩いて、行き先を探す。


「待つのは平気だけど……メッセージ送っても既読がつかなかったから、伊達くんに何かあったのかなって心配だったの」

「急ぎの用事ができたから待ち合わせに遅れるって、連絡をいれようとしたんだけど――」


 そう言って伊達はポケットからスマートフォンを取り出す。画面は暗くなっていて、伊達がボタンを押しても電源が入らない。


「バッテリーが切れちゃったんだ。ごめんね、心配かけて」

「そう、なんだ……」

「今度から三笠さんの携帯番号を覚えておかなきゃだめだね。待たせてしまって、本当にごめん。お詫びに僕がごちそうするから」


 遅刻の理由を知り、佳乃は安堵の息をつく。伊達は真面目な男がこんなにも真剣に謝っているのだから疑う余地なんて一つもない。佳乃は頷いた。


 こうして伊達と会うことができて念願のデートなのだ。楽しまなければ。

 そうわかっているのに――うまく笑えない。口端がかたまってぎこちないものになる。デート前日にしていた笑顔の練習も、すっかり忘れてしまった。


 それもこれも、剣淵奏斗のせいである。どうして伊達を殴ったのだろう。佳乃の好きな人が伊達であることを知っているし、体育祭でも協力してくれていたのに。


 剣淵と伊達の仲が悪いとは思えなかった。二人が仲良く話しているところは見たことがないが、二人三脚のパートナーになるぐらいである。もしも二人の仲が悪いのだとしたら、伊達が二人三脚に誘うことも、剣淵が承諾することもなかったのではないか。


 確かに剣淵は荒っぽいところがある。名も告げずに教室に押し入ってきて佳乃にキスをしたり、階段踊り場に呼び出せば壁に追いつめてきたり、机の上に両足をのせていたこともあれば、苛立って椅子を蹴っていた時もある。そんな男なのだから、ちょっとした言い争いで手が出てしまう場面は容易く想像できる。


 佳乃にはわからない諍いが起きて、剣淵が伊達を殴った。そう納得しているはずなのに――何かが引っかかる。


「三笠さん?」


 名を呼ばれて顔をあげれば、数歩先のところで伊達が振り返ってこちらを見ていた。知らずのうちに佳乃は立ち止まっていたらしい。

 慌てて歩き出そうとしたところで、伊達が苦々しい顔をして聞いた。


「どうしたの? なにか考えごと?」

「え、っと……」


 剣淵のことを考えていたとは言えず、しかしごまかせば嘘をついてしまう。佳乃は口ごもって、顔をそらした。


 そう。剣淵のことを考えている。


 デートを楽しもうとしても、剣淵のことが気になって仕方がないのだ。


 体育祭で怒らせ、それからずっと遠ざけられていた相手である。ここまで剣淵のことを考える必要はない。そうわかっているのに、どうしても頭から離れない。伊達を殴ったのに、剣淵の方が傷ついた顔をしていた気がするのだ。


 どうしてあの場所にいたのだろう。服や髪を濡らしてまで、どうして――


「伊達くん……ごめん」


 近づこうとしていた歩みを止めて、佳乃が呟く。


「やっぱり、私、帰るね。用事を思い出しちゃった」


 こんな気持ちのままでデートなんてできるわけがない。佳乃が決断を告げると、伊達は目を丸くし、それから諦めたように息をついた。


「用事なら止めないけど……もしかして、剣淵くんのところに行くのかな?」

「そ、それは……」


 伊達が歩み寄る。そして佳乃の腕をぐいと掴んだ。


「教えてくれないと帰せない。ねえ、用事って剣淵くんのこと?」


 逃がさないとばかりに腕を掴まれ、さらに真剣なまなざしが佳乃に注がれている。あの穏やかな微笑みのプリンスが、真剣な顔をして迫っているのだ。佳乃にとってあこがれの、片思いの人である。こんなに距離が縮まり腕を掴まれてしまえば、あっという間に鼓動が急いていく。


「わ、私は……」


 剣淵のところに行く、といえば真実である。だがそれは片思いの相手である伊達に誤解を植え付けることになってしまう。三笠佳乃は伊達よりも剣淵を選んだのだと思われても仕方ない。


 だが剣淵のところに行かないと答えれば、それは嘘である。すなわち、呪いが発動するのだ。


 嘘をつくか、真実を告げるか。至近距離に伊達が迫り追い詰められていく。長考する時間なんてない。


「剣淵のところに――っ!」



 言いかけたところで影が覆いかぶさる。


 焼けつくような熱が、唇に押しつけられた。柔らかく、蕩けてしまう危険なもの。

 視界をひとりじめするこの男は伊達享で、あれほど求めていたキスが実現しているのに、このゼロ距離に気をとられて、キスの味なんてさっぱり伝わってこない。


 ただ、甘い香りがするのだ。あれほど焦れていた伊達の香り。ノートを借りた時よりも濃く香って、伊達に包まれているようだ。


 さらさらと音を立てて揺れる髪。伏せた瞼から覗く睫毛は長くて、左目の下のほくろもはっきりと見える。


 佳乃の言葉を遮るようにかぶせた唇は、その後も離れることなく、角度を変えて佳乃の唇をついばんでいく。柔らかなものが触れ合うことで、この時間に酔ってしまいそうな熱を生む。


「……ごめん、キスしたくなった」


 唇が離れた後、伊達はそう言った。顔にはほんのりと赤みがさし、恥ずかしそうに佳乃から目をそらしている。


「あ、あの……どうして……」

「三笠さんが剣淵くんのことを考えて上の空だったから、悔しくて……だってこれは僕と三笠さんのデートだから」


 興奮と恥ずかしさでくらくらと視界が揺れる。体の力が抜けて、佳乃はへにゃりと床に座りこんだ。


「このキスで許してあげる。今日のデートはこれでおしまい」


 赤らんだ顔を見られたくないかのように佳乃に背を向け、伊達は去っていく。


 佳乃はというとその姿が遠ざかっても、しばらく立ち上がることができないでいた。


 片思いしてきた人とのキス。それも相手から、だ。こんなにも喜ばしいことはない。先ほどの接触を信じられず、まだ手足が震えている。

 だというのに、体の奥深くにあるものが凍てついている。佳乃の体を二つにわけて、興奮とは逆の感情を持ち合わせているかのように。


「わ、私……剣淵のところに、行く、のに」


 凍てついた身が思い浮かべるのは伊達ではなく剣淵である。あの傷ついた姿を思い出して、いますぐ向かえと佳乃を急かすのだ。


 好きな人とキスをして他の男に会いにいく。最低な人間だと佳乃も自覚している。だからこのキスを剣淵に知られたくなかった。ゆるゆると立ち上がる佳乃の顔はまだ熱く、まだ赤く染まっているのだろうと想像がつく。これから剣淵のところへ向かう間に、熱はおさまるだろうか。


 向かう先は剣淵の家。手にした傘をさすことも忘れて、雨の中を駆けていく。

 三笠佳乃の日曜日は、まだ終わらない。

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