第3話 呪われタヌキ、叫ぶ。

 佳乃、剣淵、伊達。昨日と同じ顔が揃った場は静まり返っていたが、それを打ち破ったのは剣淵だった。


「……チッ、めんどくせーな」


 気が削がれたと、佳乃の耳元につきつけていた手がするりと離れていく。


 解放されて逃げ出す佳乃だったが、昨日と違うのは恐怖心によって体が竦んでいたことだ。教室から走り逃げるような気力は残っておらず、剣淵から逃げるべく数歩ほど階段を下りたところでがくりと体が崩れ落ちた。


 またしても伊達に見られてしまったのだ。呆けていた思考が動き出して状況把握に努めれば、絶望感がこみあげてくる。階段に座り込んで立ち上がれず、ただ泣くだけだった。

 走り去ることができたなら伊達の失望する顔を見なくてもすむのに。剣淵が迫った恐怖が残っていて足が震えている。


「……これ、使って」


 ふわり、と。俯いて涙をこぼす佳乃に近づいたのは甘い香りだった。バニラのように尾をひく甘さと大人びたムスクの香り。それは昨日借りたノートにもしみついていた好きな香り。


 はっとして顔をあげると、伊達が佳乃の顔を覗きこんでいた。ハンカチを差し出す伊達は、普段に戻ったかのように穏やかに微笑んでいる。


「だ、伊達くん……その、」

「三笠さん、泣いてる。このハンカチ使っていいから」


 誤解しないでと伝えたいのにうまく口が回らない。

 おずおずとハンカチを受け取り、涙を拭えば甘い香りが強く香った。まるで伊達に包み込まれているようで、混乱していた頭に響いていく。


「ねえ、剣淵くん」


 伊達は剣淵に向き直った。

 佳乃にかけた言葉よりもきつい語気で、表情もこわばったものに変わる。


「事情はわからないけど、三笠さんを傷つけるのはよくないと思うよ」

「お前には関係ねーよ」

「二人の関係はわからないけど、女の子を泣かせる男はよくないと思うんだ。今日だけじゃない、昨日だってそうだ。君は突然やってきて三笠さんを泣かせた」


 伊達が階段をのぼっていく。そして剣淵に近づくと、その耳に顔を寄せて何かを囁いた。


「君に、…………よ」

「は? お前、いま何を――」


 距離が開いた上にぼそぼそと喋ったため二人の会話は佳乃に聞こえなかったが、眉間にしわを寄せて睨みつけていた剣淵が困惑していることはわかった。あまり表情の変わらない男が、ぽかりと口を開けて呆然としている。

 一体、伊達は何を言ったのだろう。気になりながらも聞けず、佳乃は二人のやりとりを見ていた。


「三笠さん」


 剣淵から視線を外すことなく、伊達が佳乃の名を呼ぶ。


「あとは僕が話しておくから、君は帰った方がいい」

「でも……」

「僕に任せて、ね?」


 せっかく伊達と話せるチャンスなのだ。剣淵とは何の関係もないと説明しておきたいところだが、言葉にこめられた威圧からここに残ると言い辛い。


「伊達くん……ごめん。ハンカチ、今度返すね」


 借りたハンカチを強く握りしめれば伊達に力を貸してもらっている気がして、あれだけ震えていた体に力が戻ってくる。


 剣淵と伊達の会話は気になったが振り返る勇気はなく、そのまま階段を下りていった。


***


 憂鬱だ。とにかく憂鬱だ。

 二人がどんな話をしているのか、それがわからないために気持ちが晴れることはない。伊達の態度から剣淵に対して好感を抱いていないのだろうと予測するも、誤解されてしまっていたらと不安が消えてやくれない。


 好きな男の目の前で他の男とキスをし、さらに壁ドンまで目撃されている。屈辱でしかない。ここまで見られてしまって本当は伊達のことが好きなのだ、と伝えられるわけがなかった。

 足取り重たく廊下をとぼとぼと歩く。かばんを残していたためまっすぐ帰ることはできず、佳乃は教室に向かった。


 クラスメイトもまばらにしか残っていない教室に入ると、佳乃を待っていたらしい菜乃花が立ち上がる。


「佳乃ちゃん! かばん残したまま戻ってこないから、心配してたの」


 佳乃を案ずる聞きなれた声に安心して緊張が緩んだ。菜乃花に駆けより抱きつく。


「菜乃花ぁ……」

「何かあったのね?」


 佳乃の目が赤く腫れていたことから察したらしく、抱きついてきた体を優しくさすりながら菜乃花が言う。それは子供をなだめるような優しい声色だった。


「ここだと目立つから空き教室に行こう? お話、聞かせて」


***


 幼馴染である菜乃花は佳乃の良き理解者である。さんざん佳乃を苦しめてきた呪いのことを知っている一人でもあった。親でさえ鼻で笑って信じてくれなかったこの呪いを、菜乃花は疑わずに信じている。佳乃の性格をよく知り、嘘をついて傷つかないようにサポートまでしてくれる素晴らしい親友だ。


 それが、絶句している。昨日から続く一連の出来事を聞き終えると人形のように美しい菜乃花は唖然としていた。


「今朝の様子から剣淵くんと何かあったのかなと思ったけど、そんなことがあったなんて」

「菜乃花の言う通りだったよ。呪いを悪用したから罰が当たったんだ……」

「だから言ったのに。佳乃ちゃん、悪いこと考えている顔していたもの」

「これで私の片思いは終わり……もうだめだぁ……」


 空き教室の中央。埃かぶった席に腰かけていた佳乃は机に突っ伏して盛大なため息をつく。


「まだ終わりじゃないと思う。だって、伊達くんからハンカチを借りたんでしょう?」


 菜乃花に言われて思い出し、ポケットから取り出す。涙を吸ってぐしゃぐしゃになったハンカチが纏う甘い香りは伊達と佳乃を繋ぎとめているようだった。


「まだチャンスはあるよ。例えば、ハンカチを返す時に助けてくれたお礼をしてみる……とか」

「お礼って、何がいいかな」

「うーん……伊達くんが喜ぶものがいいんじゃないかしら。お手紙、好みのものとか」


 だがお礼を用意したとして伊達は受け取ってくれるだろうか。はっきりと拒絶されてしまえばいよいよ立ち直れない。気持ちは折れてしまい、この恋を諦めてしまうだろう。


 全てはこの呪いのせいだ。キスなんてされなければ。考えるほど苛立ちが集っていく。

 二日間分のストレスも合わせ、ついに噴出した。


「もう、やだ! こんな呪い、欲しくなかった! 普通の女子高生がよかった!」


 バン、と強く机を叩きながら叫ぶ。それでも胸のうちに溜まった黒いものは晴れそうにない。


「嘘をつくたびにキスされる呪いなんて、勘弁してよ!」


 廊下に響くほど大きな声量だったが、放課後の空き教室だ。生徒が使うことはめったにない。

 それに、この怒りをどこかにぶつけなければ気がすまない。叫んだ程度じゃ足りない、このまま暴れて空き教室の机をなぎ倒したいところだ。

 荒んだ佳乃をとめたのは菜乃花の一言だった。叫ぶ佳乃に動じず、小首を傾げて提案する。


「ノーカウントにしたらどうかしら。嫌なことは忘れちゃえばいいと思うの」

「忘れ……る?」

「そう。伊達くんにハンカチを返してあれは誤解だと説明したら解決。剣淵くんのことは全部忘れちゃった方が楽になるかも」


 その提案について考えながら、唇に触れてみる。キス事件や壁ドン事件から時間が経っていないこともあり、あの感触や緊張感が残っていた。

 ノーカウントにして、忘れることができるだろうか。菜乃花を心配させまいと隠すも、佳乃の心には不安が燻っていた。


***


 不運は続く。


「チェンジ」


 それは佳乃たちがいた空き教室の隣。男子生徒は乱れた制服を整えながら、にたりと笑顔を張り付けて冷ややかに言い放つ。ブラウスのボタンをとめようとしていた女子生徒は、その言葉に首を傾げて振り返った。


「や、やだ紫音先輩ったら。チェンジって何のこと?」


 聞き間違いだと信じたくて明るい声色で返す女子生徒だったが、男子生徒が向ける瞳の鋭さに顔がひきつっていく。


「チェンジの意味、わかる?」


 男子生徒の名は浮島うきしま 紫音しおん。女子生徒よりも一年上の先輩である。彼は満面の笑みを浮かべながら、しかし射抜き殺しそうなほど鋭いまなざしで女子生徒を見下ろす。

 つい先ほどまで腕の中にいた女子生徒がひどいショックを受けていても、浮島の心は揺れることがない。それどころか傷を抉るように追い打ちをかける。


「キミに飽きたってこと。これでサヨナラ」


 女子生徒の体がびくりと震えて、それからすすり泣きが聞こえる。女の武器である泣き顔も浮島にとっては何ということもなく薄っぺらな笑顔のまま。


 女子生徒も涙すれば浮島が優しくなると思っていたのだろう。涙がぽたぽたと床に落ちたところで表情一つ変えない浮島に、関係の終わりを悟った。


「さ、サイテー! 紫音先輩なんか嫌い!」


 恨み文句を残して、女子生徒は教室を出て行く。

 力任せに閉められたドアの音はひどく耳障りで教室の空気を震わせるものだったが、もう浮島の興味はなかった。女子生徒の姿を目で追うことすらしない。


 一人になってしまった空き教室。浮島は汗でべたついた髪をかきあげた後、スマートフォンを取りだした。そして先ほど撮影した動画を確認する。


 映っているのは放課後の空き教室に、二人の女子生徒。制服のリボンから二年生だろう。一人は机に突っ伏し、もう一人がそれをなぐさめているのだが、その動画が進んだところで叫び声が聞こえた。

 スマートフォンから流れる叫びを聞いた浮島は、愉快だとばかりに声をあげて笑った。


「サイコー。こんなおもちゃが近くにいたなんて、もっと早く見つければよかった」


 その動画は盗撮。女子生徒たちのただならぬ空気を感じた浮島は、スマートフォンで彼女たちの会話を録画していたのだ。


 女子生徒のうち一人は二年女子でも美女で有名な北郷菜乃花だったため、弱みや情報を掴めば面白いことになるかもしれないと思ったのだ。それが、どうだ。蓋を開けてみれば、北郷菜乃花よりも面白い存在がいるではないか。

 浮島は動画を巻き戻す。そしてもう一度、女子生徒の叫びを聞いた。


『嘘をつくたびにキスされる呪いなんて、勘弁してよ!』


 女子生徒のことは知っている。北郷菜乃花と一緒に行動している、二年のタヌキ系女子だ。彼女でどのように楽しもうかと想像し、浮島の表情が恍惚に酔う。そして動画に映る新しいおもちゃを指でなぞって怪しげに囁いた。


「オレを楽しませてよ、三笠佳乃ちゃん」

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